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第4話 祖母の日記と、香りは嘘をつかない

 辻馬車の御者は、三度も私に行き先を聞き返した。


「お嬢さん、本当に東区の外れでいいんですかい?」


「はい」


「職人街の、さらに外れですよ。貴族様が用事で行くような場所じゃありませんぜ」


「貴族様ではありませんので」


 私がそう答えると、御者は手綱を握ったまま、ちらりとこちらを振り返った。


 初老の男だった。日に焼けた顔に深い皺があり、鼻の頭だけが赤い。馬と干し草と古い革の匂いがする。酒の匂いも少しだけしたが、朝から酔っているわけではなさそうだった。昨日の夜の名残だろう。


「いやいや、お嬢さんみたいな身なりで貴族じゃないって言われましてもねえ」


「今日から違います」


「今日から?」


「はい」


「……何かありました?」


「色々と」


「ああ」


 御者は妙に納得したように頷いた。


「色々ありそうな顔してますもんね」


「顔に出ていますか」


「ええ。泣いたあとに意地で澄ましてる顔です」


 思わず言葉に詰まった。


 この人、なかなか失礼だ。


 けれど、不思議と腹は立たなかった。王宮の貴族たちが扇の陰で囁く悪意とは違う。下町の人間は、刺す時も刃を隠さないのかもしれない。


「御者さん」


「はい」


「そういうことを客に言うと、怒られませんか」


「貴族様には言いませんよ」


「私は?」


「今日から違うんでしょう?」


 私は少しだけ笑ってしまった。


 笑うと、胸の奥が引きつった。


 まだ痛い。


 でも、笑えた。


 それだけで、昨日の夜会場から半歩くらい離れられた気がした。


 馬車は王都の中心街を抜け、石畳の広い通りから、少しずつ細い道へ入っていった。


 王宮に近い区域では、空気まで磨かれているようだった。花屋の薔薇、焼き菓子店の砂糖、貴婦人の香水、馬車の車輪に塗られた油。どれも上等で、どれも人に見られることを意識している匂いだった。


 けれど東区へ近づくにつれ、香りはどんどん雑になる。


 鍛冶場の鉄。

 染物屋の薬液。

 魚売りの桶。

 雨に濡れた麻袋。

 洗濯物の石鹸。

 子どもの汗。

 安い酒。

 パンの耳を焼いた匂い。


 きれいではない。


 でも、生きている匂いだった。


 誰かが誰かに見せるためではなく、その日をどうにか過ごすための匂い。


 私は馬車の小窓を少し開けた。


 冷たい風と一緒に、王都の端の空気が入ってくる。


 御者が言った。


「しかし、あのへんの香水店って、まだ残ってましたかねえ」


「古い店です」


「店名は?」


「夜明けの瓶」


「ああ」


 御者は今度は本当に驚いたような声を出した。


「知っているのですか」


「そりゃ、昔は有名でしたよ。うちの女房が若い頃、そこの香り袋を買ったとかで。何でも、眠れない夜に枕元へ置くと、泣くほどよく眠れるとか」


「祖母の店です」


「へえ。じゃあ、お嬢さんはあの婆さんの身内で」


 婆さん。


 私は思わず眉を動かした。


 御者は慌てて咳払いする。


「いや、失礼。ご婦人。いや、立派なお方。まあ、口は悪かったらしいですが」


「祖母が?」


「ええ。うちの女房が言ってました。『あそこの店主は、香水より先に客の嘘を嗅ぐ』って」


 心臓が小さく鳴った。


 祖母も、そうだったのだ。


 私と同じ。


 いや、私はずっと知っていたはずなのに、改めて他人の口から聞くと不思議な気持ちになった。


「それで、嫌われていたのですか」


「さあねえ。嫌う人もいたでしょうが、通う人もいましたよ。人間、嘘を見抜かれたくない時もあれば、見抜いてほしい時もありますから」


 私は窓の外を見た。


 その言葉は、胸のどこかに残った。


 嘘を見抜いてほしい時。


 そんなものがあるのだろうか。


 私の周りの人たちは、皆、私の鼻を嫌がった。知ってほしくないことを嗅がれると、怒った。怖がった。気味悪がった。


 でも祖母の店には、それでも通う人がいた。


 私にも、そんな場所が作れるだろうか。


 馬車が大きく揺れた。


「着きましたぜ」


 御者がそう言った時、私は目の前の建物を見て、少しだけ黙った。


 いや、かなり黙った。


 古い、とは聞いていた。


 屋根が雨漏りする、とバルナバも言っていた。


 けれど、目の前のそれは、古いというより、ほとんど王都に忘れられている建物だった。


 二階建ての小さな店。

 壁の漆喰はところどころ剥がれ、窓の片方には板が打ちつけられている。扉の上に掲げられた看板は傾き、風が吹くたびにぎい、と情けない音を立てた。


 看板には、かろうじて小瓶の絵が残っている。


 夜明け色の、琥珀と薄紅を混ぜたような瓶。


 文字は半分消えていた。


 夜明けの瓶。


 私は鞄を膝の上で抱え直す。


「……思っていたより、個性的ですね」


 御者が遠慮なく言った。


「率直に言うと、ぼろいです」


「はっきり言いますね」


「貴族様じゃないって言うから」


「便利に使わないでください」


 御者は肩を揺らして笑った。


 私は馬車を降り、代金を支払う。財布の中身を見た瞬間、現実がずしりと肩に乗った。


 お金はある。


 少しは。


 けれど、公爵家にいた頃の感覚で使えば、すぐになくなる。


 服も、食事も、薪も、蝋燭も、修理費も、すべて自分で考えなければならない。


 王宮で婚約破棄されるより、屋根の修理費の方が切実かもしれない。


 そう考えて、妙におかしくなった。


 人生というものは、劇的に壊れたあとでも、釘や布巾やパン代のことを考えなければいけないらしい。


「お嬢さん」


 御者が荷物を下ろしながら言った。


「帰りも呼びますか」


「帰る場所ができたら呼びます」


「なるほど。じゃあ、今日は行きっぱなしですな」


「ええ」


「なら、気張んなさい。東区は上品じゃありませんが、案外、根性ある人間には優しい」


 私は少し驚いて御者を見た。


「ありがとうございます」


「礼はいいですよ。その代わり、いつか金持ちになったら、うちの女房に香り袋でも作ってやってください。寝つきが悪いんで」


「約束します」


「お、言いましたね。商売人は約束を忘れちゃいけませんぜ」


 御者は馬車に乗り込み、軽く帽子を上げた。


「では、夜明けの瓶の新しい店主さん」


 新しい店主。


 その言葉に、胸の奥が少しだけ熱くなった。


 馬車が走り去る。


 私は傾いた看板の下で、一人になった。


 王都の端の通りは、王宮の廊下とはまるで違う。


 道の向こうでは、パン屋の女将らしき女性が大きな籠を抱えている。向かいの工房からは、金槌の音。少し離れたところで子どもが二人、喧嘩をしている。魚屋の男が、売れ残りらしい小魚を猫に投げてやっていた。


 誰も私を知らない。


 王太子に捨てられたことも、妹に婚約者を奪われたことも、家を出たことも。


 知らないはずなのに、パン屋の女将がこちらをじろりと見た。


 目が合う。


 彼女は私のドレスと鞄と店を順番に見て、遠慮のない声で言った。


「あんた、その店に入るの?」


「はい」


「買ったの?」


「祖母の店です」


「ああ、あの婆様の」


 また婆様。


 祖母はこの辺りで、なかなか強烈な記憶を残していたらしい。


「孫なの?」


「はい。リリアーナと申します」


「貴族みたいな名前だね」


「実際、昨日まではそういう扱いでした」


 言ってから、また少し後悔した。


 下町でいきなりこんなことを言う女は、やはり変だろう。


 しかし女将は、ふん、と鼻を鳴らしただけだった。


「昨日まで貴族だろうが、今日から店を開けるなら掃除だよ。中、ひどいよ。前に町内の若いのが覗いたら、蜘蛛が自分の方が店主だって顔してたってさ」


「蜘蛛に交渉が必要でしょうか」


「家賃を払ってるならね」


 私は思わず笑った。


 女将も少しだけ口元を緩める。


「私は向かいのパン屋のネリよ。困ったらパンは売る。借金は嫌い。ツケは三日まで。泣き落としは効かない。覚えときな」


「はい。覚えました」


「あと、そのドレスで掃除したら死ぬよ」


「人はドレスで死ぬのですか」


「少なくとも、裾は死ぬ」


 女将ネリはそう言って、自分の店の方へ戻っていった。


 私は店の前で、しばらく立ち尽くした。


 不思議だった。


 公爵家の屋敷より、王宮より、このぼろい店の前の方が息をしやすい。


 きれいな言葉で責められるより、はっきり「裾が死ぬ」と言われる方が、ずっと楽だった。


 私は鞄から真鍮の鍵を取り出した。


 鍵穴は錆びている。


 一度目は回らなかった。


 二度目も駄目だった。


 三度目で、ぎぎ、と嫌な音がした。


 私は扉に額を寄せ、低く呟いた。


「お願い。今日くらいは、私の味方をして」


 四度目。


 鍵が回った。


 扉が開く。


 その瞬間、埃と古い香料の匂いが一気に流れ出した。


 私は思わず咳き込んだ。


「っ……祖母様、これは少し、熟成が進みすぎです」


 中は、想像以上だった。


 棚には空の瓶が並び、埃をかぶっている。床には枯れた葉と木屑。壁際には割れた椅子。天井から吊るされた小さなランプは傾き、奥の窓は半分板で塞がれている。


 そして、あちこちに蜘蛛の巣。


 なるほど。


 蜘蛛が店主の顔をするのも無理はない。


 私は鞄を置き、袖をまくった。


 その時、扉の外から声がした。


「言ったろ、裾が死ぬって」


 振り返ると、ネリが古い前掛けと布巾、箒を抱えて立っていた。


「貸すだけだよ。返しな。あと、それ着な」


「よろしいのですか」


「今、あんたに倒れられると、うちの店の前に貴族っぽい死体が出たって評判になる。迷惑」


「死体にはなりません」


「寝不足の女は信用ならない」


 私は受け取った前掛けを見下ろした。


 少し粉の匂いがする。パン屋の匂いだ。


「ありがとうございます、ネリさん」


「礼は掃除が終わってから。ああ、それと」


「はい」


「泣くなら奥で泣きな。通りで泣くと、子どもが見に来る」


 私は固まった。


 ネリはそれ以上何も言わず、さっさと戻っていった。


 まったく。


 東区の人間は、どうしてこうも人の顔を見るのが上手いのだろう。


 私は前掛けを身につけ、深呼吸をした。


 掃除は、戦だった。


 まず窓を開けようとして、開かなかった。

 次に椅子を動かそうとして、脚が折れた。

 棚を拭けば黒い水が出た。

 床を掃けば、何年前のものか分からない干からびた花びらが出てきた。

 瓶を並べ直していたら、一つが手の中で砕けた。


 そのたびに、私は独り言を言った。


「これは店ではなく遺跡ね」


「祖母様、どこまでが演出ですか」


「蜘蛛、あなたはそこから動かないで。私もそちらに行かないから」


 誰も聞いていないと思っていたが、途中で窓の外から子どもの笑い声が聞こえた。


 見ると、通りの向かいに小さな男の子が二人、こちらを覗いていた。


「姉ちゃん、蜘蛛と話してる!」


「話していません」


「話してた!」


「交渉です」


「もっと変!」


 二人は笑いながら逃げていった。


 私は箒を握ったまま、しばらく呆然とした。


 王宮で笑われた時は、あれほど痛かったのに。


 今の笑い声は、痛くなかった。


 同じ笑いなのに、匂いが違う。


 あの子どもたちの笑いには、悪意がない。面白いものを見つけただけの、軽い風みたいな匂いだった。


 掃除を続けているうちに、昼を過ぎた。


 ネリが窓からパンを投げ込んできた。


 本当に投げ込んできた。


 受け止め損ねたパンが床に落ちる。


「ネリさん」


「食べな。倒れられると迷惑って言ったろ」


「ありがとうございます。でも投げる必要は」


「手が粉だらけなんだよ」


「パン屋さんがそれを言うのですか」


「パン屋だからだよ」


 私は床に落ちたパンを拾い、埃を払った。


 公爵家にいた頃なら、床に落ちたものを食べるなど考えられなかった。


 でも、今は腹が減っていた。


 パンは少し硬かったが、噛むほど小麦の甘さが出る。バターは塗られていない。けれど、なぜか泣きそうになるほどおいしかった。


 たぶん、誰かが余計な同情ではなく、当たり前のように差し出してくれたからだ。


 夕方近くになって、ようやく店の奥へ入れるようになった。


 奥には小さな作業部屋があった。


 扉を開けた瞬間、私は息を止めた。


 そこだけ、空気が違った。


 埃はある。古い。けれど、乱れていない。


 中央には、傷だらけの調香台が置かれていた。引き出しの取っ手は黒ずみ、天板には細かな染みがある。小さな秤。乳鉢。香料を刻むための刃。空の小瓶。栓を失った琥珀色の壺。


 祖母の場所だ。


 そう分かった。


 私はゆっくりと調香台に近づいた。


 指先で天板に触れる。


 乾いた木の匂い。

 白檀。

 古い薔薇。

 樹脂。

 薬草。

 そして、ほんのわずかに、祖母の手の匂い。


 もう何年も経っているはずなのに、残っている。


 胸が詰まった。


「祖母様」


 声に出したら、涙が落ちた。


 今度は止めなかった。


 誰も見ていない。


 蜘蛛くらいは見ているかもしれないが、蜘蛛なら噂を流さないだろう。たぶん。


 私は調香台の前に座り、しばらく泣いた。


 王宮では泣かなかった。


 家でも泣かなかった。


 馬車でも泣かなかった。


 なのに、この埃だらけの作業部屋で、祖母の古い調香台を前にした途端、涙が出た。


 私はずっと、誰かに言ってほしかったのかもしれない。


 あなたは変ではない。


 あなたの鼻は、呪いではない。


 あなたが嗅いだものは、嘘ではない。


 祖母は、そう言ってくれる人だった。


 もういないけれど。


 いない人の方が、今の私には近かった。


 涙を拭いて、調香台の引き出しを開ける。


 一段目には、古い紙片と乾ききった香草。


 二段目には、割れた小瓶。


 三段目は、開かなかった。


「あなたもですか」


 私は鍵穴を探したが、見当たらない。


 引き出しの横を指でなぞる。わずかな隙間。押してみる。動かない。引いてみる。駄目。


 ふと、祖母の言葉を思い出した。


「リリアーナ、開かない瓶は無理にこじ開けてはいけないよ。香りにも機嫌があるからね」


 香りにも機嫌。


 私は引き出しに顔を近づけた。


 木の匂いの奥に、薄い蜜蝋の匂い。

 右側ではない。左側。

 小さな金具の匂いがする。


 左下を押す。


 かちり、と音がした。


 三段目の引き出しが、わずかに開いた。


「……祖母様、相変わらず面倒なことを」


 中には、革表紙の日記が入っていた。


 表紙は濃い茶色。角はすり切れている。留め具には、小さな夜明け色の瓶の刻印。


 私はそっと開いた。


 最初のページには、祖母の字があった。


『香りは、言葉より正直。だが、正直すぎるものは、人を傷つける』


 指先が震えた。


 次の行。


『もしこの日記をリリアーナが読んでいるなら、あなたはきっと、自分の鼻を嫌いになっている頃でしょう』


 私は息を呑んだ。


 祖母は、分かっていたのだ。


 何年も前から。


『人は、自分の隠したい匂いを嗅がれると怒ります。嘘を嗅がれた者は、嘘をついた自分ではなく、嗅いだあなたを責めるでしょう。けれど忘れないで。あなたの鼻は、誰かを裁くためだけにあるのではありません』


 涙で文字が滲んだ。


『眠れない人を眠らせるため。泣けない人の涙をほどくため。嘘に潰されそうな人を、ほんの少し楽にするため。香りは刃にもなるけれど、灯りにもなります』


 私は日記を胸に抱いた。


 灯り。


 私の鼻が。


 気味悪いものではなく、灯り。


 そう思いたかった。


 思っていいのだと、誰かに許されたかった。


 ページをめくると、調香の記録がびっしりと書かれていた。眠りの香。痛みを和らげる香。気持ちを落ち着ける香。嘘を見抜く香ではなく、嘘をつかずに済むようにする香。


 祖母の店は、ただ香水を売る場所ではなかった。


 人が、自分でも扱えなくなった心を持ってくる場所だったのだ。


 さらに奥のページで、私は手を止めた。


『王宮礼拝香について。白薔薇、蜜蝋、沈香。表向きは清らかな祈りの香。しかし近年、焦げたような残香あり。黒蜜花の可能性。感情を増幅させる。長期使用は危険』


 焦げたような残香。


 黒蜜花。


 感情を増幅させる。


 私はページを見つめたまま動けなかった。


 祖母は調べていた。


 王宮の香りを。


 そして、前王妃の死に関わるかもしれない何かを。


 次のページには、短い文章があった。


『前王妃陛下より相談あり。礼拝堂の香りが変わったと。明後日、王宮へ』


 その数ページ後から、文字が乱れている。


『体調悪化。胸が重い。薔薇が焦げる匂いがする。誰かが店の前に立っていた。黒真珠の扇』


 黒真珠の扇。


 クラリモンド夫人。


 私は日記を閉じた。


 手が冷たい。


 でも、頭は妙に冴えていた。


 祖母の死は、ただの病ではないかもしれない。


 前王妃の死も。


 昨夜の婚約破棄も。


 そして、母と妹に届いた香水も。


「……やることが、屋根の修理だけではなくなりましたね」


 誰もいない作業部屋で、私は呟いた。


 その時だった。


 表の方で、かすかな音がした。


 扉を叩く音。


 こん、こん。


 弱い。


 ためらうような音。


 私は日記を引き出しに戻しかけて、考え直し、鞄の中に入れた。


 そして、店の方へ向かう。


 夕暮れの光が、埃の残る店内を橙色に染めていた。


 扉の向こうに、人影がある。


 私は少しだけ緊張した。


 王宮の手の者かもしれない。

 父が連れ戻しに来たのかもしれない。

 クラリモンド夫人の使いかもしれない。


 けれど、扉を開けた先に立っていたのは、小柄な少女だった。


 年は十五、六ほどだろうか。安物の外套を着て、髪は乱れ、靴の先には泥がついている。手には、硬く握りしめられた数枚の銅貨。


 少女は私を見ると、今にも逃げ出しそうに肩を縮めた。


「あ、あの……ここ、香水屋さん、ですか」


 私は店内を振り返った。


 棚はまだ半分埃だらけ。椅子は壊れている。蜘蛛は退去していない。店と呼ぶには、かなり無理がある。


「一応、その予定です」


「予定……」


「開店準備中、と言えば聞こえがいいですね」


 少女は困ったように瞬きをした。


 それから、勇気を振り絞るように一歩踏み出した。


「あの、眠れる香水を、作っていただけませんか」


 私は少女を見た。


 その顔色は悪い。目の下には濃い影。唇は乾いている。外套の袖口は擦り切れ、指先には小さな火傷の跡がいくつもある。


 そして。


 袖から漂う匂い。


 安い酒。

 焦げた油。

 怒鳴り声を浴び続けた人間の、硬く縮こまった恐怖。

 それから、ほんの少しの血。


 私は息を吸った。


 祖母の日記の言葉が、胸の奥で静かに灯る。


 香りは、刃にもなる。


 けれど、灯りにもなる。


「お名前は?」


 少女は驚いたように顔を上げた。


「ミナ、です」


「ミナ」


 私はなるべく柔らかく言った。


「中へどうぞ。椅子は壊れていますが、床よりはましな木箱があります」


「え?」


「あと、お茶はまだありません。水ならあります。たぶん」


 ミナはぽかんとしたあと、少しだけ笑った。


 その笑いはひどく弱かったけれど、嘘の匂いはしなかった。


 私は扉を大きく開けた。


 夜明けの瓶の、最初の客。


 私の新しい人生は、埃と壊れた椅子と、眠れない少女の震える声から始まった。


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