第3話 家族会議という名の追放
夜が明けても、屋敷の空気は昨日のままだった。
重い。
冷たい。
そして、妙に甘い。
朝食の焼き菓子の匂いではない。花瓶に挿された白百合の香りでもない。エルヴェール公爵家の廊下に染みついた古い木材と蜜蝋の匂いでもない。
誰かが、不都合なものをきれいな布で覆い隠そうとしている匂い。
たぶん、この家そのものがそうなのだ。
磨かれた床。整えられた庭。代々の当主の肖像画。客人に出す銀器は曇りひとつなく、母の茶会では焼き菓子の角度まで決められている。
なのに、暮らしている人間の心だけは、ずっと散らかったままだった。
私は侍女に起こされる前から目を覚ましていた。
眠れなかった、という方が正しい。
昨夜、王宮から戻ったのは深夜近かった。馬車の中で父も母も一言も喋らなかった。セレーネだけが、時折すすり泣くような声を出していた。ユリウス殿下と別れる時にはあれほど殿下の袖を離さなかったのに、屋敷に着いた途端、今度は母の腕の中へ収まった。
器用な子だ。
誰の隣に立てば自分が一番守られるか、彼女は本能で分かっている。
それが悪いことなのかどうか、私にはもう判断がつかなかった。
ただ、羨ましかった。
私は何度も、何度も、ああいうふうに誰かの袖を掴もうとして、途中で手を止めた。
掴んだら迷惑だと思った。
泣いたら困らせると思った。
怒ったら嫌われると思った。
それで結局、何も言えないまま、可愛げのない娘になった。
机の上には、昨日外した手袋が置かれている。
白い手袋の指先には、うっすらと香りが残っていた。
王宮の香水。
セレーネの白百合。
殿下の焦り。
クラリモンド夫人の焦げた薔薇。
私は手袋を畳もうとして、やめた。
触れたくなかった。
「お嬢様」
扉の向こうから、侍女のマリナの声がした。
「旦那様が、朝食後に書斎へお越しになるようにと」
「分かりました」
声は思ったより普通に出た。
扉が少し開き、マリナが顔を覗かせる。
彼女は私付きの侍女ではあるが、屋敷に長く仕えているわけではない。まだ若く、私と目を合わせるのが苦手だ。
私の鼻を怖がっているのだろう。
この屋敷では珍しくない。
「お召し替えを……」
「自分でできます」
「ですが、奥様が、失礼のない服装でと」
「書斎へ行くだけでしょう」
マリナは困ったように眉を寄せた。
「旦那様だけではなく、奥様とセレーネ様もいらっしゃるそうです」
やっぱり。
家族会議。
そういう名の、処罰。
私は小さく息を吐いた。
「なら、余計に自分で選びます」
「お嬢様」
「黒は駄目かしら」
「え?」
「婚約が死んだ翌朝には、ちょうどいいでしょう」
マリナの顔が青くなった。
冗談のつもりだった。
いや、冗談にしたかっただけかもしれない。言った自分でも、少し嫌な言い方だと思った。
「ごめんなさい。困らせたわね」
「い、いえ……」
マリナは目を泳がせる。
その匂いに、ほんの少しだけ同情が混じっていた。
同情。
嫌いな匂いではない。
ただ、今の私には少し痛い。
結局、私は深い紺色のドレスを選んだ。喪服ほど重くなく、朝の服にしては硬い。胸元に余計な飾りはなく、袖口だけに銀糸の刺繍がある。
母なら「可愛げがない」と言うだろう。
ちょうどいい。
鏡の前に立つと、目の下に薄い影ができていた。
私は髪を結い上げながら、鏡の中の自分に向かって呟いた。
「泣くなら、昨日泣いておくべきだったわね」
返事はない。
鏡の中の女は、いつものように静かな顔をしている。
可哀想なくらい、静かな顔を。
書斎へ向かう廊下には、朝の光が差し込んでいた。
庭では庭師が薔薇の手入れをしている。厨房からは焼きたてのパンの匂い。使用人たちの気配はいつもより少ない。皆、こちらの様子を窺っているのだろう。
屋敷中が知っている。
昨夜、公爵令嬢リリアーナが王太子から婚約破棄されたことを。
そして、妹セレーネが次の婚約者になるかもしれないことを。
噂というものは、王宮から屋敷まで馬車より速く走る。
書斎の前に立つと、中から父の咳払いが聞こえた。
私は扉を叩いた。
「リリアーナです」
「入れ」
扉を開ける。
書斎には、父と母とセレーネがいた。
父は大きな机の向こうに座っている。机の上には書類が整然と並べられ、銀のペーパーナイフが真っ直ぐ置かれていた。父は物を真っ直ぐ置くのが好きだ。人の人生も、できればそうしたいのだろう。
母は窓際の椅子に座っている。薄い藤色の朝用ドレス。顔色は少し悪いが、それでも化粧は完璧だった。
セレーネは母のそばに立っている。
白いドレスではなく、淡い桃色のドレスを着ていた。昨夜の被害者らしい白ではなく、家族会議で守られる末娘らしい色。
目元は赤い。
泣いたのだろう。
どれくらい本当に泣いたのかは、匂いで分かる。
悲しみ三割。
不安三割。
優越感二割。
残りは、昨日とは違う妙な焦げ臭さ。
私はそこで、ほんの少し眉を動かした。
セレーネから焦げた薔薇の匂いがする。
薄い。
でも、確かにある。
昨日より強い。
香水を変えたのか。
それとも、誰かに何かを渡されたのか。
「座りなさい」
父の声で、私は思考を戻した。
「失礼いたします」
椅子に座る。
セレーネは座らない。母の隣に立ったままだ。母がその手を軽く握っている。
まるで、これから裁かれるのが妹であるかのようだ。
「昨夜の件だ」
父が口を開いた。
「お前は王宮で、公爵家の名に泥を塗った」
最初の一言がそれだった。
私は膝の上で手を組む。
「婚約破棄を申し渡されたのは私ですが」
「口答えをするな」
「事実を申し上げただけです」
「その事実とやらで、今まで何度人を不快にさせてきた」
父の目は疲れていた。
怒りの下に、面倒くささがある。
扱いづらいものを前にした時の匂い。
子どもの頃、私が「このお茶、薬の匂いがする」と言って母の客人を怒らせた時も、父は同じ匂いをさせていた。
「リリアーナ」
母が静かに言った。
「今日は責めたいのではないの」
嘘だ。
私は心の中で呟いた。
母の言葉はいつも柔らかいが、匂いは硬い。甘く包んだ棘のような匂いがする。
「あなたを守るために、これからのことを決める必要があるのよ」
「私を守るため、ですか」
「そうよ」
「何から?」
母が黙った。
父が眉をひそめる。
「世間からだ」
「世間は、私が悪いと信じています。殿下とセレーネの言葉で」
「だからこそ、お前はしばらく王都を離れる必要がある」
来た。
私は背筋を伸ばした。
「離れる、とは」
「南方の修道院に話を通す」
父は用意していた書類を一枚取った。
「エルヴェール家が支援している古い修道院だ。環境は悪くない。半年、いや一年ほど静養すれば、噂も落ち着くだろう」
静養。
きれいな言葉だ。
けれど、その匂いは檻に似ていた。
私は書類を見つめる。
すでに準備されている。
つまり、昨夜から今朝にかけて決めたことではない。少なくとも、父はもっと早くから可能性を考えていた。
私を王都から遠ざける選択肢を。
「修道院へ行け、ということですね」
「そうだ」
「いつまでですか」
「噂が収まるまでだ」
「殿下とセレーネの婚約が正式に整うまで、ではなく?」
セレーネの肩が揺れた。
母が鋭く私を見る。
「リリアーナ」
「違うのですか」
父は唇を固く結んだ。
その沈黙は、昨夜と同じだった。
答えたくない時、父は黙る。
でも私は、その沈黙の匂いを知っている。
肯定だ。
「お姉様」
セレーネが震える声で言った。
「私、そんなつもりじゃ……」
「では、どんなつもりだったの」
私は妹を見た。
セレーネは母の手を強く握る。
「私、ただ……殿下に相談しただけなの。お姉様が怖いって。お姉様が私を見る目がつらいって。そしたら殿下が、もう我慢しなくていいって言ってくださって……」
「なるほど」
「そんな冷たい言い方しないで」
「冷たく聞こえるのは、温かい嘘を混ぜていないからでしょう」
セレーネの瞳が潤む。
母がすぐに妹の肩を抱いた。
「リリアーナ、今の言い方はないでしょう」
「では、どう言えばよかったのですか」
「あなたは本当に……!」
母はそこで言葉を詰まらせた。
まただ。
母はいつも、最後まで言わない。
言えば残酷になると分かっているから。
でも、途中で止めた言葉ほど、匂いは強く残る。
面倒な子。
可愛くない子。
どうして普通にできないの。
どうしてセレーネのように笑えないの。
全部、言葉にしなくても分かる。
分かってしまう。
「私は修道院へは行きません」
静かに言った。
部屋の空気が変わった。
父の指が、机を叩く。
「何?」
「修道院へは行きません」
「お前に選ぶ権利があると思っているのか」
「あります」
初めて、父の目を正面から見た。
心臓はうるさい。
手のひらは汗ばんでいる。
怖くないわけではない。父に逆らうことなど、ほとんどなかった。私はずっと、この家の中で波風を立てないようにしてきた。
でも、昨日の夜に分かったのだ。
波風を立てないように生きても、嵐は向こうから来る。
なら、せめて自分の足で立っていたい。
「私はもう王太子殿下の婚約者ではありません。王妃教育を受ける必要もありません。王宮行事に出る必要もありません。でしたら、私の今後は私が決めます」
「公爵家の娘だろう!」
「昨日、公爵家のために頭を下げろと言われました。ですが、公爵家は私のために一度も立ってくださいませんでした」
父の顔色が変わった。
母が息を呑む。
セレーネは、私を見ていた。
泣いていなかった。
ただ、驚いている。
私がこんなふうに言うとは思っていなかったのだろう。
私自身、少し驚いていた。
言葉は一度出始めると、止まらなかった。
「昨夜、殿下は私を無能だとおっしゃいました。匂いを嗅ぐことしかできない女だと。お父様もお母様も、反論なさいませんでした」
「王太子殿下にその場で逆らえるわけがないだろう」
「私には逆らえとおっしゃったのに?」
「リリアーナ!」
父が立ち上がった。
椅子が床を擦る音がした。
昔なら、それだけで私は黙った。
父の怒声。母のため息。妹の涙。
この三つが揃えば、私は必ず折れた。
でも今日は、折れなかった。
「私は、王都の端にある祖母の店へ行きます」
そう言った瞬間、母の顔が強張った。
父も動きを止める。
セレーネだけが、意味が分からないという顔をした。
「祖母の店?」
セレーネが呟く。
母が慌てて口を開く。
「リリアーナ、その話は」
「母方の祖母が遺した香水店です。鍵は私が預かっています」
「なぜ、あなたが」
「祖母が亡くなる前に、私へ」
本当は、祖母が亡くなった直後、古い小箱の中から見つけたものだった。小さな鍵と、私の名が書かれた封筒。母はその存在を知らないと思っていた。
けれど、今の反応を見る限り、知っていたのかもしれない。
「商売など許さん」
父が低く言った。
「公爵家の娘が店に立つ? 香水を売る? そんな恥さらしな真似を、本気で言っているのか」
「はい」
「恥を知れ」
「昨日、すでに十分恥をかきました」
父の口元が震えた。
我ながら、言い方が悪い。
でも、もう言い直さない。
きれいな言葉に包んだところで、どうせ誰も私の本心を聞いてはくれない。
「リリアーナ」
母の声は、今度は少し震えていた。
「お願いだから、意地を張らないで。あなたは今、傷ついているの。だからそんな極端なことを言うのよ。修道院で少し休めば、きっと気持ちも落ち着くわ」
「落ち着いたら、何が変わるのですか」
「それは……」
「殿下との婚約は戻らない。セレーネへの疑いも消えない。私が悪女だという噂だけが残る。なら、修道院で一年静かにして戻ってきた私は、何になりますか」
母は答えられなかった。
だから私が答えた。
「傷物の令嬢です。どこかの年老いた貴族の後妻にでも出されるのでしょう」
「そんなこと……」
「考えていないとは、おっしゃらないで」
母の香りが揺れた。
図星だったのだろう。
父が重々しく言う。
「それも、お前を守るための選択肢だ」
「守る、という言葉は便利ですね」
「リリアーナ!」
父の怒声に、セレーネが泣き出した。
いや、泣こうとした。
涙は出ていない。
でも、母はすぐに彼女を抱き寄せる。
「セレーネ、大丈夫よ」
大丈夫と言われたいのは、私の方だった。
そう思ってしまった自分が、情けなかった。
私は立ち上がった。
「お話が以上でしたら、荷物をまとめます」
「許可していない」
「許可を求めておりません」
父の顔が、怒りで赤くなる。
「お前は、この家を出てどうやって生きるつもりだ。金はどうする。身分はどうする。王太子殿下に捨てられた娘が、一人で王都に残れると思うのか」
「思います」
「世間を知らない娘が」
「知りません。ですから、知りに行きます」
父は言葉を失った。
セレーネが、震える声で言った。
「お姉様、本当に出て行くの?」
私は妹を見た。
彼女の顔には、不安があった。
私がいなくなることへの不安。
自分が望んだ通りになってしまうことへの不安。
そして、殿下と結ばれる喜びの奥に、なぜか置いていかれるような焦り。
人間の心は面倒だ。
誰かを押し出した手で、その人の袖を掴もうとすることがある。
「ええ」
「私……そんなつもりじゃなかった」
また、それだ。
私は小さく笑った。
「セレーネ。あなたはいつも、結果を見てから『そんなつもりじゃなかった』と言うのね」
「だって、本当に……!」
「なら、覚えておいた方がいいわ」
私は、なるべく穏やかに言った。
「人は、そんなつもりじゃなくても、人を壊せるの」
セレーネの顔が白くなる。
母が私を睨んだ。
「なぜそんなひどいことを言うの」
「ひどいことをされたからです」
部屋が静まり返った。
言ってしまった。
ひどいことをされた。
たったそれだけの言葉を、私は今まで言えなかった。
自分が傷ついたと認めるのは、負けることのような気がしていた。
でも違う。
傷ついたと認めなければ、傷をつけた人間は、いつまでも「そんなつもりじゃなかった」と言える。
「私は傷つきました」
私は続けた。
「殿下に捨てられたことも、セレーネに嘘をつかれたことも、お父様とお母様が私を信じなかったことも。全部、傷つきました」
母の目が揺れる。
父は黙っている。
セレーネの涙が、今度は本当に落ちた。
匂いは、甘くなかった。
苦い。
でも、それを見ても私は、抱きしめてあげることはできなかった。
今はまだ、無理だった。
「失礼いたします」
私は礼をして、書斎を出た。
背中に父の声が飛ぶ。
「リリアーナ! この家を出れば、二度と簡単には戻れんぞ!」
私は扉の前で立ち止まった。
振り返らずに言う。
「簡単に戻れる場所なら、家と呼べたのかもしれませんね」
今度こそ、扉を閉めた。
廊下に出ると、膝が少し震えた。
強くなったわけではない。
ただ、引き返せなくなっただけ。
私は壁に手をつき、息を整えた。
そこへ、低い声がした。
「お嬢様」
顔を上げると、老執事のバルナバが立っていた。
白髪をきっちり撫でつけ、背筋を伸ばした老紳士。祖父の代からこの屋敷に仕えている人だ。昔から私には必要以上に話しかけない。けれど、私が庭で迷子になった時、誰より先に見つけてくれたのはこの人だった。
「バルナバ」
「お荷物の準備を、お手伝いいたします」
驚いた。
「父に叱られますよ」
「この歳になりますと、叱られることにも飽きてまいります」
真顔で言うので、私は少しだけ笑ってしまった。
笑うと、胸が痛んだ。
「……ありがとうございます」
「お礼は、無事にお出になってからで結構です」
バルナバは歩き出す。
私はその後を追った。
自室に戻ると、マリナが青い顔で待っていた。話はもう広まっているらしい。彼女は泣きそうな顔で立ち尽くしていたが、バルナバが一言「鞄を」と言うと、慌てて動き出した。
持っていくものは少なかった。
数着の服。
祖母の古い調香道具。
少しの装身具。
そして、小箱の中に隠していた鍵。
小さな真鍮の鍵だ。
飾り気はない。けれど持つと、どこか懐かしい香りがする。
祖母の店の匂い。
乾いた薬草。
古い木棚。
琥珀色の樹脂。
瓶に閉じ込められた花。
子どもの頃、祖母は私の頭を撫でながら言った。
「リリアーナ。人はね、言葉ではいくらでも嘘をつく。でも香りは、最後の最後で正直なの」
その祖母の声が、今も耳に残っている。
私は鍵を握りしめた。
「お嬢様」
バルナバが静かに言った。
「お出になる前に、ひとつだけ」
「何でしょう」
彼は扉の方を確認し、声を落とした。
「奥様の香水には、お気をつけください」
心臓が跳ねた。
「母の?」
「昨夜から、奥様のお部屋に王宮より届け物がございました。香水瓶でございます」
「誰からですか」
「差出人は、クラリモンド宰相夫人」
焦げた薔薇の匂いが、記憶の中で濃くなる。
母の扇から昨日、朝と違う香りがした。
セレーネからも今朝、同じ焦げ臭さがした。
やはり。
私の婚約破棄は、家族だけの問題ではない。
誰かが、この家に香りを流し込んでいる。
「バルナバは、その香水を嗅ぎましたか」
「老いぼれの鼻では、上等な薔薇の香りとしか」
彼はそこで、ほんの少しだけ顔をしかめた。
「ただ、あまり心地よいものではございませんでした。香りというより、命令に近い」
命令。
その表現に、背筋が冷えた。
「なぜ私に教えてくださるのですか」
バルナバは少し黙った。
そして、窓の外を見る。
「先代奥様――あなた様のお祖母様にも、同じことをお伝えできていればと、何度も思いました」
私は息を呑んだ。
「祖母を知っているのですか」
「少しだけでございます。詳しいことは、私の口からはまだ」
「まだ?」
「お嬢様が、あの店へ辿り着かれましたら、いずれ分かることもございましょう」
老執事は深く頭を下げた。
「どうか、ご自身の鼻をお疑いになりませんよう」
胸の奥が熱くなった。
この屋敷で初めて、誰かが私の鼻を否定しなかった。
気味が悪いとも、黙れとも、余計なことを言うなとも言わなかった。
それだけで、崩れそうになる。
でも、今泣いたら荷造りが進まない。
だから私は、笑った。
「ありがとう、バルナバ」
「お気をつけて」
「ええ」
「それから」
「まだありますか」
老執事は真面目な顔で言った。
「店の屋根は、たしか雨漏りいたします」
思わず目を瞬いた。
「……そこも重要ですね」
「はい。貴族社会より先に、屋根が敵になる可能性がございます」
私は今度こそ、少し声を出して笑った。
マリナも泣きそうな顔のまま、くしゃりと笑った。
荷物は小さな鞄二つに収まった。
私の二十年は、鞄二つで足りるらしい。
そう思うと寂しかったが、同時に少し身軽だった。
玄関ホールへ向かうと、母が階段の上に立っていた。
セレーネもその後ろにいる。
父はいない。
たぶん、見送りに来る気はないのだろう。あるいは、自分が折れる前に部屋に閉じこもったのかもしれない。
母は私の鞄を見て、顔を歪めた。
「本当に行くのね」
「はい」
「あなたは昔から、言い出したら聞かない子だった」
「お母様は昔から、私が何かを言い出す前に聞かない方でした」
母の唇が震えた。
セレーネが小さく言う。
「お姉様……私、謝ればよかったの?」
私は妹を見上げた。
「謝りたいの?」
セレーネは答えられなかった。
それで十分だった。
「答えが見つかったら、その時に聞くわ」
セレーネは泣きそうな顔をした。
でも、今度は泣かなかった。
私は玄関の扉へ向かう。
扉が開く。
朝の光が差し込んだ。
外の空気は冷たい。けれど、屋敷の中よりずっとましだった。
湿った土。
馬車道の埃。
遠くのパン屋から流れてくる焼きたての匂い。
どこかの家の煙突から上がる薪の香り。
王都の匂い。
自由というには、まだ少し汚れている。
でも、檻の中の花よりはずっといい。
私は一歩、外へ出た。
背後で母が言った。
「リリアーナ」
立ち止まる。
「……体には、気をつけなさい」
その言葉に嘘はなかった。
だから、少しだけ胸が痛んだ。
「はい。お母様も」
振り返らなかった。
振り返れば、戻りたくなるかもしれない。
戻りたいのではなく、戻れたら楽だと思ってしまうかもしれない。
それが怖かった。
門の外には、辻馬車が待っていた。バルナバが手配してくれたのだろう。
私は鞄を抱え、馬車に乗り込んだ。
御者が行き先を尋ねる。
私は真鍮の鍵を握りしめた。
「王都東区、職人街の外れへ。古い香水店があります」
「店の名前は?」
名前。
私は少し考えた。
祖母の店の看板は、まだ残っているだろうか。
幼い記憶の中で、木製の看板が風に揺れている。
夜明け色の小瓶が描かれた、小さな店。
「夜明けの瓶」
口にした瞬間、胸の奥で何かが静かに灯った。
馬車が動き出す。
エルヴェール公爵家の屋敷が、少しずつ遠ざかっていく。
私は窓から外を見なかった。
代わりに、鞄の中の調香道具をそっと撫でた。
私は婚約者を失った。
家も、家族も、名誉も、ほとんど失った。
残ったのは、匂いを嗅ぐことしかできない私と、祖母の鍵だけ。
けれど、不思議と胸の奥に小さな熱があった。
王宮の焦げた薔薇。
クラリモンド夫人の香水。
母と妹に届いた瓶。
祖母の死。
全部、嗅ぎ分けてみせる。
そのために、まずは屋根の雨漏りと戦わなければならない。
そう思うと、ほんの少しだけ笑えた。
馬車は朝の王都へ走り出す。
私の人生は昨日、夜会場で終わったのではない。
ようやく、私自身の手に戻ってきたのだ。




