第2話 妹の涙は、甘すぎる
王宮の廊下は、夜会場よりもずっと寒かった。
壁に掛けられた燭台の火は、きちんと磨かれた銀の受け皿の上で揺れている。足元には深い赤の絨毯。歩くたび、靴音は吸い込まれて消えた。
先ほどまで背中に突き刺さっていた視線も、嘲笑も、囁きも、ここまでは追ってこない。
そのはずなのに、耳の奥にはまだ残っていた。
匂いを嗅ぐことしかできない女。
王妃にふさわしくない。
気味が悪い。
慣れている言葉だった。
幼い頃から、何度も聞いた。直接言われたこともあれば、扉の向こうで囁かれたこともある。母の友人たちが扇で口元を隠しながら、「上のお嬢様は少し変わっていらっしゃるのね」と言った時の、あの白粉と紅茶の混ざった匂いまで覚えている。
でも、慣れていることと、痛くないことは違う。
私は廊下の角を曲がり、人気のない窓辺で立ち止まった。
夜風が細く入り込んでいる。
王宮の庭園には薔薇が咲いていた。季節外れの白薔薇。王宮では、季節など金と魔法でどうにでもなるのだろう。花も人も、見栄えがよければそれでいい。
私は窓枠に指先を置いた。
手袋越しでも、石の冷たさが分かる。
「……大丈夫」
誰に言うでもなく呟いた。
大丈夫。
私は立っている。
泣き崩れていない。
叫んでもいない。
セレーネの頬を叩きもしなかった。
だから大丈夫。
そう思おうとした時だった。
「リリアーナ様」
背後から声がした。
振り返ると、王宮侍従が一人、硬い顔で立っていた。若い男だ。まだ二十代の前半だろうか。整った身なりをしているが、喉元から緊張の匂いがした。
「エルヴェール公爵閣下がお呼びです」
父が。
そう聞いた瞬間、胃のあたりが重くなる。
呼ばれるだろうとは思っていた。
思っていたけれど、心のどこかで期待していたのかもしれない。父が私を連れて帰る前に、せめて一度だけ「大丈夫か」と聞いてくれるのではないかと。
愚かだ。
私はさっき、自分で自分に大丈夫だと言ったばかりなのに。
「どちらへ?」
「控えの間に。王太子殿下と、セレーネ様もお待ちです」
胸の奥で、先ほど外れた何かが、今度は小さく軋んだ。
父だけではない。
殿下も、妹も。
つまりこれは、家族の呼び出しではない。裁きの続きだ。
「分かりました」
私は頷き、侍従の後に続いた。
王宮の控えの間は、大広間から少し離れた場所にある。貴族が気分を悪くした時や、王族が内々の話をする時に使われる部屋だ。
扉の前に立つと、中から声が聞こえた。
「……ですから、あの子は昔からそういうところがあるのです。悪気はないのかもしれませんが、人の気持ちを考えずに物を言う癖が」
母の声だった。
思わず足が止まる。
悪気はない。
人の気持ちを考えない。
便利な言葉だと思う。
私が何かを指摘すれば、悪気はないけれど無神経。
セレーネが嘘をつけば、怖かっただけ。
私が黙れば可愛げがない。
セレーネが泣けば優しい子。
世界はずいぶん前から、妹に都合よくできていた。
侍従が扉を叩く。
「リリアーナ様をお連れいたしました」
「入れ」
父の声。
低く、硬い。
私は息を吸った。
扉が開く。
控えの間には、父と母、王太子ユリウス殿下、そしてセレーネがいた。
父は暖炉のそばに立っている。背筋は伸びているが、指先が苛立たしげに肘掛け椅子の背を叩いていた。母は長椅子に座り、扇で口元を隠している。セレーネは殿下の隣で、両手でハンカチを握りしめていた。
涙の匂い。
白百合の香水。
蜂蜜菓子のような甘い優越感。
私は妹を見た。
セレーネはすぐに目を伏せる。
「お姉様……」
またその声。
か細くて、震えていて、誰かに守ってもらうことを前提にした声。
昔から苦手だった。
なぜなら、その声を聞くたびに、周囲の人間が私を見る目を変えるからだ。
「リリアーナ」
父が口を開いた。
「まず、殿下とセレーネに謝罪しなさい」
やはり。
私は父を見る。
エルヴェール公爵。王国でも古い家門の当主。家の誇りと体面を何より重んじる人。
その父が今、私を見る目には、心配も悲しみもなかった。
あるのは、怒り。
恥をかかされた怒り。
「お父様」
「言い訳は聞かん」
「まだ何も言っておりません」
「その口だ!」
父の声が部屋に響いた。
セレーネがびくりと肩を震わせる。殿下が彼女をかばうように一歩前へ出る。
ああ。
今の怒声は私に向けられたものなのに、守られるのは妹なのだ。
不思議なものだ。
「お前はいつもそうだ。余計なひと言で事を荒立てる。なぜ黙っていられない」
「黙っていれば、濡れ衣を認めたことになります」
「今さらそれが何だ!」
父は疲れたように額を押さえた。
「王太子殿下が判断なさったのだ。セレーネも傷ついている。お前が少し頭を下げれば済む話だった」
「少し頭を下げれば、私は妹をいじめたことになるのですか」
「家のためだ」
その言葉は、短かった。
でも、何よりも重かった。
家のため。
昔から、父はよくそう言った。
私がセレーネに刺繍糸を譲った時も、家のため。
私が嫌がる夜会に出された時も、家のため。
私が殿下との婚約を受け入れた時も、家のため。
では、私は何のためにいるのだろう。
家のための道具か。
家のための香炉か。
都合の悪い匂いを黙って燃やし尽くすための、蓋つきの瓶か。
「お父様は」
私はゆっくりと尋ねた。
「私がセレーネをいじめたと、本当にお思いですか」
父はすぐに答えなかった。
その沈黙が、答えだった。
母が小さくため息をつく。
「リリアーナ、今はそういうことを言っている場合ではないのよ」
「では、どういう場合でしょうか」
「あなたが大人になる場合です」
母は困ったように眉を下げた。
その顔が、私は嫌いだった。
まるで私が聞き分けのない子どもで、母だけが正しい大人であるかのような顔。
「セレーネはね、本当に苦しんでいたの。姉であるあなたに冷たくされて、ずっと我慢していたのよ」
「私が、何をしたというのですか」
「そうやって詰め寄るところよ」
母の声は少し震えていた。
怒りだ。
悲しみではない。
「あなたは昔から、相手の気持ちを先回りして決めつけるでしょう。匂いで分かるなどと言って、人の心に土足で踏み込む。セレーネがどれほど傷ついたか、考えたことがあるの?」
私は言葉を失った。
考えたことがないわけではない。
むしろ、考えすぎるほど考えてきた。
セレーネが本当に泣いている時と、嘘泣きの時。
母に甘える時の安心の匂い。
父に褒められた時の誇らしさ。
私を見る時の、怯えと苛立ち。
全部分かった。
分かってしまった。
だから私は、なるべく黙った。
妹が嘘をついても、家の中なら飲み込んだ。
母が私を面倒だと思っていても、気づかないふりをした。
父がセレーネの方を扱いやすいと思っていることも、見ないふりをした。
それでも足りなかったのか。
黙っても駄目で、話しても駄目なら、私はどうすればよかったのだろう。
「お母様」
私の声は、少し掠れていた。
「私は、そんなに邪魔でしたか」
母の扇が止まった。
セレーネが顔を上げる。
父が眉をひそめる。
聞いてはいけないことを聞いたのだと、空気で分かった。
でも、もう言ってしまった。
母は何かを言おうとして、唇を開き、閉じた。
「……邪魔などとは言っていないでしょう」
「言葉では」
「リリアーナ」
「言葉では、誰もおっしゃいません。でも匂いで分かります。お母様は、私が部屋に入るといつも少し息を止める。お父様は、私と話す前に必ず酒を飲む。セレーネは、私が褒められると甘い香水をつけすぎる」
「やめなさい!」
母が叫んだ。
扇が床に落ちる。
部屋が静まり返った。
母自身も驚いたようだった。自分がそんな声を出すとは思っていなかったのだろう。
セレーネが、震える声で言う。
「お姉様……そういうところが怖いの」
私は妹を見た。
「怖い?」
「だって、何でも分かっているみたいに言うんだもの。私が何を考えているか、私より先に決めるでしょう? 私が泣いても、嘘だって目で見るでしょう? 私、お姉様の前では、どう泣けばいいかも分からなかった」
それは、予想していなかった言葉だった。
セレーネの匂いが揺れている。
甘い優越感の下に、濁った不満と、本物の怖さがあった。
全部が嘘ではない。
それが余計に厄介だった。
「だから、私がいじめたことにしたの?」
「そんな言い方しないで!」
「では、どういう言い方をすればいいの」
「私は……私は、ただ……」
セレーネは言葉を探すように唇を噛む。
殿下がその肩を抱いた。
「もういい、セレーネ。君がこれ以上傷つく必要はない」
妹は殿下の胸元に顔を寄せる。
その動きはあまりにも自然だった。
私は、そこでようやく気づいた。
セレーネの白百合の香水の下に、ユリウス殿下と同じ香りがある。
王宮で使われる高価な香油。
朝ではなく、夜につける香り。
衣服の表面ではなく、肌に近い場所に残る匂い。
つまり、二人は今日が初めてではない。
ずっと前から、近かったのだ。
胸の奥が、今度は冷えるのではなく、すっと空洞になった。
恋をしていたかと聞かれれば、きっと私は答えに詰まる。
王太子との婚約は政略だった。幼い頃から決められていて、愛を育てるより先に義務があった。
けれど、裏切られて何も感じないほど、私は人形ではなかった。
「殿下」
私はユリウス殿下を見た。
「セレーネとは、いつからですか」
殿下の表情が変わった。
一瞬だけ、焦りの匂いが強くなる。
「何の話だ」
「質問の意味は、お分かりのはずです」
「下品な勘繰りをするな」
「では、否定なさるのですね」
殿下は黙った。
セレーネの指先が、殿下の袖をぎゅっと握る。
分かりやすい。
分かりやすくて、滑稽なくらいだった。
私は小さく息を吐いた。
「そうですか」
「リリアーナ、君は本当に……」
殿下は苦々しげに言った。
「そういうところだ。君は人を追い詰める。逃げ場をなくす。セレーネは違う。彼女は私を責めない。私の弱さを受け入れてくれる」
「殿下の弱さとは、婚約者の妹と親しくなったことですか」
「君と話していると疲れる!」
殿下の声が荒くなった。
「いつも正しさを突きつけてくる。匂いがどうだ、嘘がどうだ、理屈がどうだと。私は王太子だぞ。なのに君は、まるで私を裁くような目で見る」
「裁かれるようなことを、なさらなければよかったのでは」
「またそれだ!」
殿下は額に手を当て、苛立たしげに笑った。
「可愛げがない。君には、少しも可愛げがない」
可愛げ。
それもまた、聞き飽きた言葉だった。
女は正しくあるより、可愛くある方が愛される。
知っている。
でも私は、可愛く嘘をつけなかった。
可愛く泣けなかった。
可愛く許せなかった。
「申し訳ありません」
私は静かに言った。
殿下が少しだけ驚いた顔をする。
「私には、殿下のお望みになる可愛げはございませんでした」
「リリアーナ……」
「ですが、それはもう殿下には関係のないことです。婚約は破棄されたのですから」
セレーネがまた泣いた。
今度の涙は、少し苦かった。
勝ったはずなのに、思ったより気持ちよくない。
そんな匂いがする。
母が拾い上げた扇を握りしめながら言った。
「リリアーナ、あなた本当に、最後までそうなのね。どうして一言、謝れないの」
「何に対してですか」
「皆を困らせたことによ!」
母の声には、悲鳴に近いものが混じっていた。
「あなたが少し柔らかくしていれば、こんな大事にはならなかった。セレーネも泣かずに済んだ。殿下も人前で婚約破棄などなさらずに済んだ。あなたはいつも、自分だけが傷ついた顔をするけれど、周りだって傷ついているのよ」
私は母を見た。
母の言葉には嘘がなかった。
少なくとも、母は本気でそう思っている。
それが、一番きつかった。
私は悪意で傷つけられているのではない。
母は本当に、自分たちも被害者だと思っている。
私が我慢しなかったから。
私が黙らなかったから。
私が可愛くなかったから。
この場の全員が困っているのだと。
「……分かりました」
私は言った。
父が少しだけ表情を緩める。
謝ると思ったのだろう。
「私がいると、皆様を困らせるのですね」
「リリアーナ、そういう意味では――」
「いいえ。よく分かりました」
私は一歩下がり、深く礼をした。
「今夜はこれで失礼いたします」
「待ちなさい。話は終わっていない」
父が言った。
「明朝、屋敷で改めて話す。今後のお前の処遇も含めてな」
処遇。
娘に使う言葉ではないと思った。
けれど、父にとって今の私は娘ではなく、公爵家の不祥事なのだろう。
「承知いたしました」
私はそう答えた。
部屋を出ようとした時、セレーネが小さく呼んだ。
「お姉様」
振り返る。
妹は殿下の隣に立ったまま、こちらを見ていた。
その顔は、勝者のものではなかった。
泣き疲れた子どもの顔に、少し似ていた。
「私……本当は、お姉様にそんな顔をしてほしかったわけじゃないの」
私はしばらく黙っていた。
何と答えればいいのか分からなかった。
だから、正直に言った。
「セレーネ。あなたは昔から、欲しいものを手に入れた後で、こんなはずじゃなかったという顔をするのね」
妹の唇が震えた。
「ひどい」
「そうね」
私は頷いた。
「今のは、ひどかったわ」
でも取り消さなかった。
扉を開ける。
廊下に出る寸前、殿下の声が背中に届いた。
「君は変わらないな、リリアーナ」
私は振り返らずに答えた。
「殿下も」
扉が閉まった。
廊下に出ると、ようやく肺に空気が入った。
でも、気分は悪かった。
勝ったわけではない。
言い返せたからといって、傷が塞がるわけでもない。
むしろ、言葉にした分だけ、胸の中が荒れていた。
私は控えの間から離れ、人気の少ない回廊へ向かった。
夜会の音楽は遠い。
窓の外では、庭園の薔薇が月明かりに照らされている。
白薔薇の甘い匂い。
濡れた石畳の匂い。
そして、また。
焦げた薔薇の匂い。
私は足を止めた。
廊下の奥に、古い礼拝堂へ続く扉がある。
今は使われていないはずの場所。十年前、前王妃の葬儀が行われた礼拝堂。
幼い私は、あの日もこの廊下に立っていた。
白い花で埋められた棺。
泣かない王。
青ざめた父。
私の口を塞いだ母の手。
そして、冷えた蜜蝋と焦げた花の匂い。
――この花、燃えているみたいな匂いがする。
そう言った私に、母は震えた。
なぜだろう。
なぜ、あの時母はあんなに怯えたのだろう。
なぜ、父は私に「王宮で余計なことを言うな」と言ったのだろう。
今なら分かる。
あれは、ただの葬儀の匂いではなかった。
前王妃の死には、何かがある。
そして今夜、私の婚約破棄の場にも同じ匂いがあった。
偶然ではない。
きっと。
廊下の向こうから、誰かの足音が近づいてきた。
私は身を隠すように柱の陰へ寄る。
現れたのは、宰相夫人クラリモンドだった。
彼女は一人ではない。黒い上着を着た男と並んで歩いている。顔はよく見えない。王宮の者ではなさそうだ。少なくとも、正規の侍従の歩き方ではない。
クラリモンド夫人は、低い声で言った。
「今夜のことは、予定通りです。あの娘は王宮から離れます」
あの娘。
私のことだ。
男が何かを囁く。
クラリモンド夫人は小さく笑った。
「ええ。鼻の利く娘は厄介ですもの。祖母と同じで」
心臓が、どくんと音を立てた。
祖母。
私の祖母。
亡くなる前まで、王都で小さな香水店を営んでいた人。
私に初めて香草の名前を教えてくれた人。
私の鼻を「贈り物」と言ってくれた、たった一人の人。
その祖母の名が、なぜここで出るのか。
男が去る。
クラリモンド夫人はしばらく廊下に立ち、ゆっくりと扇を開いた。
その香りがこちらへ流れてくる。
焦げた薔薇。
冷えた蜜蝋。
前王妃の葬儀。
祖母。
私の婚約破棄。
点だったものが、まだ線にはならない。けれど、確かに同じ匂いで繋がっている。
私は柱の陰で、息を殺した。
クラリモンド夫人がふと、こちらを見たような気がした。
目が合ったわけではない。
でも、唇がわずかに上がる。
「……鼠かしら」
私は動けなかった。
汗が背中を伝う。
クラリモンド夫人はそれ以上近づかず、踵を返した。
足音が遠ざかる。
完全に消えてから、私はようやく息を吐いた。
指先が震えていた。
怖い。
悔しい。
気持ち悪い。
でも、それ以上に。
知りたい。
私は、今日この夜に婚約者を失った。
家族にも見捨てられた。
妹には泣かれ、殿下には捨てられ、母には責められ、父には処遇と言われた。
けれど今、私の胸の奥で一番強く燃えているのは、悲しみではなかった。
怒りでもない。
疑問だった。
なぜ、私だったのか。
なぜ、祖母だったのか。
なぜ、前王妃は死んだのか。
そして、なぜ王宮は十年経った今も、焦げた薔薇の匂いを隠し続けているのか。
私は手袋の中で、拳を握った。
廊下の窓に映った私は、ひどい顔をしていた。
青ざめて、唇は乾いて、目だけが妙に冴えている。
とても、可愛げのある令嬢には見えない。
私はその顔を見て、小さく笑った。
「ちょうどいいわ」
可愛げなど、今夜すべて置いていけばいい。
私はもう、王太子妃にはならない。
誰かの理想の娘にも、都合のいい姉にも、黙って笑う婚約者にもならない。
ならば残るのは、匂いを嗅ぐことしかできない私だけ。
それでいい。
その鼻で、暴いてやる。
まずは明日。
屋敷で行われるという、家族会議からだ。
どうせ父は私をどこかへやろうとする。母は泣き、セレーネは謝るふりをし、私はまた責められる。
でも、今夜までの私とは違う。
私はもう、黙って瓶の中に閉じ込められる気はない。
王宮の外へ出る。
祖母が残したものを探す。
この焦げた薔薇の匂いの正体を、必ず嗅ぎ分ける。
廊下の奥で、夜会の音楽が高く跳ねた。
まるで誰かの笑い声のようだった。
私は背を向け、歩き出した。
もう、戻らない。
少なくとも、同じ私では。




