第1話 嘘の匂いがする婚約破棄
「リリアーナ・エルヴェール。君との婚約を、今この場で破棄する」
王太子ユリウス殿下がそう言った瞬間、夜会場に甘ったるい腐臭が広がった。
ああ、嘘の匂いだ。
熟れすぎた果実を銀皿の上に置いたまま、三日ほど忘れてしまったような。香水と酒と蜜菓子の匂いに紛れているのに、それでも私の鼻だけは、はっきりとそれを拾ってしまう。
嘘。
言葉の形をした、腐った匂い。
私は思わず笑いそうになった。
笑えるはずがないのに。
王宮の大広間には、百を超える燭台が灯っていた。天井から吊るされた水晶灯は、貴族たちの宝石と同じくらい無駄に輝いている。楽団の音楽は止まり、踊っていた男女も、談笑していた夫人たちも、皆こちらを見ていた。
視線。視線。視線。
好奇心と、軽蔑と、少しばかりの期待。
誰かが転ぶところを見たい人間の匂いは、いつだって少し酸っぱい。
「……殿下」
私は、喉の奥に絡みつく何かを飲み込んだ。
情けないことに、声が少し震えた。
けれどそれは悲しみだけではない。怒りだけでもない。あまりにも馬鹿げていて、心がどこに立てばいいのか分からなかった。
「理由を、お聞かせいただけますか」
ユリウス殿下は、金の髪をわずかに揺らし、勝ち誇ったように顎を上げた。
美しい人だ。
それは間違いない。
王族らしい整った顔。柔らかな青い瞳。人々に好かれるための笑み。誰かに見られることを前提に作られた姿勢。
でも、その美しさの下から、今日はやけに安っぽい香水の匂いがした。
いや、違う。
安っぽいのは香水ではない。
それを浴びるほどつけて、自分の心の臭さをごまかそうとしている人間の方だ。
「理由だと? 君には心当たりがないと言うのか」
「あるなら、わざわざお尋ねしません」
広間のどこかで、小さく息を呑む音がした。
殿下の眉がぴくりと動く。
まずい、と思った。
こういう時、淑女なら泣くべきなのだ。あるいは顔を青くして、震える手で扇を握りしめ、「そんな、殿下」とか細い声で訴えるべきなのだろう。
でも私は、そういう振る舞いが昔から下手だった。
悲しい時ほど言葉が硬くなる。傷ついた時ほど背筋が伸びる。怖い時ほど、相手の匂いを嗅ぎ分けようとしてしまう。
だから私は、可愛くない。
知っている。
「リリアーナ、お前は……」
殿下の隣で、白銀のドレスを着た少女が肩を震わせた。
私の妹、セレーネ・エルヴェール。
今日の彼女は、月光を糸にして編んだようなドレスをまとっていた。胸元には小さな真珠。髪には淡い水色の花飾り。涙に濡れた睫毛まで、計算された絵画のように美しい。
その頬を、一粒の涙が滑り落ちる。
「お姉様……私、こんなことになるなんて、思っていなかったの」
震える声。
可憐な響き。
周囲の空気が、すぐに彼女の方へ傾いた。
ああ、上手い。
本当に上手い。
幼い頃、母の花瓶を割った時も、彼女はこうやって泣いた。私が庭師に大事にしていた薬草を抜かれた時も、彼女はこうやって泣いた。父の書斎から招待状が消えた時も、彼女はこうやって泣いた。
涙というものは便利だ。
出せる人間の言葉は、出せない人間の真実より強い。
「セレーネ」
私は妹の名を呼んだ。
セレーネはびくりと肩を震わせる。周囲から見れば、怯えた妹にしか見えないだろう。
けれど私には分かる。
彼女の涙から漂うのは、悲しみの匂いだけではなかった。
甘い。
焼き菓子の表面に砂糖を焦がしたような、甘い匂い。
優越感。
勝った、という匂い。
その下に、ほんの少しだけ酸っぱい恐れも混じっている。自分が吐いた嘘が、今さら怖くなっているのかもしれない。
だからといって、許せるわけではないけれど。
「あなたが、殿下に何をお話ししたのかしら」
「私、私は……ただ、本当のことを……」
「本当?」
私は聞き返した。
セレーネの瞳が揺れる。
殿下が一歩前に出た。
「リリアーナ! まだセレーネを責めるつもりか!」
その声に、周囲の貴族たちがざわめいた。
「まあ……」
「やはり噂は本当だったのね」
「妹君をいじめていたとか」
「王太子妃になるには、少々陰気だと思っていたのよ」
囁きは、香水よりも早く広がる。
私は一人で立っていた。
父は会場の端にいる。母もその隣にいる。二人とも私と目を合わせようとしない。
父の匂いは、苦い酒と諦め。
母の匂いは、白粉と苛立ち。
恥をかかされた、と母は思っている。娘が傷つけられたことより、公爵家の名に泥がついたことを気にしている。
胸の奥が、少しだけ冷えた。
期待など、もうずっと前に捨てたつもりだったのに。
捨てたつもりのものは、時々こうして足元から生えてくる。踏んだら痛い雑草みたいに。
「殿下」
私はユリウス殿下に向き直った。
「私は、セレーネのドレスを破っておりません。夜会の招待状を隠してもおりません。使用人に命じて悪評を流したこともありません」
「証拠はあるのか」
「ないことの証拠を出せと?」
「開き直るな」
「では、セレーネには証拠があるのですか」
セレーネの顔が、ほんのわずかに強張った。
殿下はそれを見ていない。
見ようともしていない。
「彼女が涙ながらに訴えた。それだけで十分だ」
笑いそうになった。
今度こそ、本当に。
十分。
妹が泣けば十分。
私がどれほど説明しても足りないのに、妹が涙を一粒落とせば十分。
胸の中で、何かが小さく音を立てた。壊れた音か、外れた音かは分からない。
「なるほど」
「何がなるほどだ」
「いいえ。殿下にとって、真実とはずいぶん軽いものなのだと理解いたしました」
空気が凍った。
まずい。
また、可愛くないことを言ってしまった。
でも、もう遅い。
口から出た言葉は、香水瓶からこぼれた香りと同じだ。床を拭いたところで、しばらく残る。
殿下の顔が赤くなる。
「君は昔からそうだ。人を見下したような目をして、匂いがどうだの、嘘の香りがどうだの……。気味が悪いとは思わないのか」
私は何も言わなかった。
言えなかったのではない。
言えば、もっと壊してしまうと思ったからだ。
殿下はさらに声を張った。
「王太子妃となる者に必要なのは、人を導く明るさと慈愛だ。君のように、匂いを嗅ぐことしかできない女など、王妃にふさわしくない」
誰かが吹き出した。
それにつられるように、あちこちで小さな笑い声が起きる。
匂いを嗅ぐことしかできない女。
無能令嬢。
気味の悪い娘。
昔から言われ慣れた言葉だった。慣れているはずだった。
それでも、王宮の大広間で、婚約者だった人に、妹の前で、両親の前で、貴族たちの前で言われると、思っていたより痛かった。
痛い時、人は案外、泣けない。
私は泣けなかった。
代わりに、やけに細かなことが気になった。
殿下の襟元の刺繍が少し乱れていること。
セレーネの手袋の親指の縫い目がほつれていること。
母の扇から、朝使っていた香水とは違う匂いがすること。
父がさっきから三度も咳払いをしていること。
そして。
ユリウス殿下の背後に立つ、宰相夫人の香り。
私は視線だけをそちらへ動かした。
宰相夫人クラリモンド。
年齢は母より少し上だろうか。いつも穏やかに微笑み、王妃の側近として社交界に大きな影響力を持つ女性だ。
彼女は、騒ぎを楽しむでもなく、驚くでもなく、ただ静かに私を見ていた。
その唇には、薄い笑み。
手には黒真珠の扇。
香りは、白薔薇を基調にした上品なものだった。
けれどその奥に、別の匂いがある。
焦げた花。
乾いた薬草。
そして、葬儀の朝にだけ漂う、冷えた蜜蝋の匂い。
私は息を止めた。
知っている。
この匂いを、私は知っている。
十年前。
前王妃の葬儀の日。
父に連れられて王宮を訪れた私は、白い花で埋め尽くされた礼拝堂の隅で、この匂いを嗅いだ。
まだ幼かった私は、母に言ったのだ。
この花、燃えているみたいな匂いがする、と。
母は青ざめ、私の口を手で塞いだ。
その晩、私は初めて父に叱られた。
「王宮で余計なことを言うな。お前の鼻は、家を滅ぼす」
あの時の匂い。
なぜ、今ここに。
「リリアーナ」
殿下の声で、私は現実に引き戻された。
「君には、この場でセレーネに謝罪してもらう。そして私との婚約は破棄する。今後、君が王宮に立ち入ることは許さない」
セレーネが小さく息を呑む。
勝ったと思っていた顔が、少しだけ崩れていた。
謝罪。
ここで私が謝れば、丸く収まるのだろう。
公爵家は面目を保ち、王太子は慈悲深い男として振る舞い、妹は可哀想な被害者として新しい婚約者になる。
私は悪女として、どこかの修道院へ送られる。
それが、彼らの望む筋書き。
でも。
もう、嫌だった。
誰かの筋書きの中で、黙って息をするのは。
「謝罪はいたしません」
私の声は、思ったより静かだった。
静かすぎて、自分でも驚いた。
「私は、していないことを謝るほど器用ではありませんので」
殿下の顔が険しくなる。
「まだ言うか」
「ですが、婚約破棄については承知いたしました」
私はスカートの裾をつまみ、ゆっくりと膝を折った。
礼法の教師が見たら、きっと褒めたと思う。
こういう時ばかり、体に染みついた教育は正確に働く。
「リリアーナ・エルヴェールは、王太子ユリウス殿下との婚約破棄を、謹んでお受けいたします」
広間が静まり返った。
誰かが望んだのは、私が泣き崩れる姿だったのかもしれない。
誰かが期待したのは、私が醜く妹を罵る姿だったのかもしれない。
誰かが楽しみにしていたのは、壊れる女の見世物だったのかもしれない。
けれど私は、壊れなかった。
少なくとも、見える場所では。
セレーネが、かすれた声で言った。
「お姉様……本当に、それでいいの?」
私は妹を見た。
彼女の涙はまだ乾いていない。
けれどその奥に、戸惑いの匂いがあった。
勝ったのに。
奪ったのに。
どうして姉は、思ったように泣かないのか。
そんな匂い。
「セレーネ」
「な、何?」
「欲しかったものが手に入るといいわね」
妹の顔が、さっと白くなった。
私はそれ以上何も言わなかった。
言ってしまえば、きっとただの負け惜しみになる。
殿下は不快そうに私を見下ろしている。
「退がれ。今夜はもう、君の顔を見たくない」
「承知いたしました」
私は背を向けた。
その瞬間、父と目が合った。
父は何か言いたげに口を開いたが、結局何も言わなかった。
母は扇で口元を隠している。あの人は泣いているように見せるのが得意だ。でも今は、泣いていない。怒っている。私が最後まで謝らなかったことに。
私は歩き出した。
大広間の扉までの距離が、やけに長い。
視線が背中に刺さる。囁きが靴音に絡む。香水と酒と嘘の匂いが、肺の奥まで入り込んでくる。
気持ち悪い。
吐きそう。
それでも、私は歩いた。
途中、宰相夫人クラリモンドの横を通り過ぎる。
彼女はほんの少しだけ扇を下げ、私にだけ聞こえる声で囁いた。
「お気の毒に、リリアーナ様。けれど、余計な香りを嗅ぎ分ける方は、長生きできませんのよ」
足が止まりそうになった。
けれど止めなかった。
私は彼女を見なかった。
見れば、顔に出ると思ったからだ。
ただ、その匂いだけを記憶した。
焦げた薔薇。
冷えた蜜蝋。
葬儀の朝。
前王妃の死。
そして今夜の婚約破棄。
これは、妹の嘘だけではない。
王太子の愚かさだけでもない。
もっと深い場所で、何かが腐っている。
王宮そのものが、香水で腐臭を隠している。
大広間の扉が開く。
外の廊下の空気は、少しだけ冷たかった。
私はようやく息を吸った。
その時、頬に何かが落ちた。
涙だった。
一粒だけ。
私は手袋の指先でそれを拭い、誰にも見られないように握り込んだ。
「……泣くの、遅いわよ」
自分に向かって、そう呟いた。
背後では、また音楽が始まっていた。
何事もなかったように。
王太子の婚約破棄など、夜会の余興のひとつでしかなかったように。
私は廊下を歩きながら、胸の奥で静かに決めた。
もう、誰かに嗅ぐなと言われて黙るのはやめる。
もう、気味が悪いと言われて自分の鼻を恥じるのはやめる。
嘘の匂いがするなら、嗅ぎ分ける。
腐った香りがするなら、その瓶を暴く。
たとえそれが、王宮の奥に隠されたものだとしても。
曲がり角の窓から、夜の庭園が見えた。
薔薇が咲いている。
白い薔薇。
赤い薔薇。
そして、月明かりの届かない茂みの奥に、黒く焦げたような花びらが一枚、落ちていた。
私は立ち止まる。
廊下に、またあの匂いが漂った。
焦げた薔薇の匂い。
それは、今しがた婚約破棄された私の人生が終わった匂いではなかった。
何かが始まる匂いだった。




