第10話 妹セレーネは勝ったはずだった
勝ったはずだった。
セレーネ・エルヴェールは、王宮の客室に用意された姿見の前で、何度もそう自分に言い聞かせた。
勝った。
お姉様に。
いつも冷静で、何を考えているのか分からなくて、こちらが笑っても泣いても、心の奥まで見透かすような目で見てきた、あのリリアーナに。
王太子殿下は、私を選んだ。
王宮夜会の場で、お姉様との婚約を破棄して、私の手を取ってくださった。
なら、私は幸せなはずだ。
鏡の中の自分は、確かに美しかった。
淡い水色のドレスは、王宮の侍女が用意してくれたものだ。胸元には小粒の真珠。袖には薄い銀糸の刺繍。髪はいつもより高く結い上げられ、耳元では母から譲られた真珠の耳飾りが揺れている。
誰が見ても、王太子の隣に立つ令嬢にふさわしい。
母は朝から何度もそう言った。
「セレーネ、背筋を伸ばして。あなたはもう、ただの公爵令嬢ではないのよ」
「笑みは控えめにね。嬉しさを出しすぎては駄目。リリアーナのこともあるのだから」
「でも、あまり沈んだ顔もよくないわ。殿下がお気になさるでしょう」
どちらなの、と言いたくなった。
嬉しそうにしてはいけない。
でも暗い顔もいけない。
姉を思いやる妹でありながら、殿下に愛される令嬢でいなければならない。
難しい。
けれど、セレーネはそういう難しさには慣れていた。
幼い頃から、セレーネは「普通で可愛い娘」でいることを求められてきた。
姉は変わっているから。
姉は扱いにくいから。
姉は人の気持ちが分からないから。
だから、あなたは普通でいてね。
あなたは笑っていてね。
あなたは皆を困らせないでね。
母は優しくそう言った。父はセレーネが笑うと安心した。使用人たちは、姉の後に妹を見るとほっと息を吐いた。
だからセレーネは笑った。
笑えば愛された。
泣けば守られた。
困った顔をすれば、誰かが代わりに言葉を選んでくれた。
お姉様と違って、セレーネ様は可愛らしい。
お姉様と違って、セレーネ様は素直だ。
お姉様と違って、セレーネ様は王宮向きだ。
その言葉を聞くたび、胸の奥が甘くなった。
同時に、少し苦しくなった。
だって、いつも最初にいるのは、お姉様だったから。
比べられるためには、まず姉が必要だった。
セレーネは鏡の中の自分を見つめた。
「……勝ったのよ」
声に出すと、なぜか部屋の中に響いた自分の声が薄っぺらく聞こえた。
勝った。
でも、何に?
姉は屋敷を出た。
修道院に送られるはずだったのに、祖母の古い香水店へ行ったという。
王都の端の、小さな店。
最初それを聞いた時、セレーネは笑いそうになった。
公爵家の令嬢が商売?
香水店?
みっともない。
そう思った。
そう思いたかった。
けれど、その日の午後には、王宮の侍女たちが廊下で噂していた。
「例のリリアーナ様、東区で香水店を開かれたそうよ」
「しかも、ヘイス伯爵家の厨房の問題を香り文で暴いたとか」
「レイゼン公爵様が、その店にいらしたって本当?」
「木箱に座ったらしいわよ」
「冷血公爵が? 木箱に?」
侍女たちは必死に声を潜めていたが、セレーネには聞こえた。
聞こえてしまった。
その瞬間、胸の奥がざわついた。
お姉様は、泣いているはずだった。
王太子殿下に捨てられ、家にもいられなくなり、誰にも相手にされず、暗い部屋で一人きりになっているはずだった。
そうでなければ困る。
だって、そうでなければ。
セレーネは何のために姉から殿下を奪ったのか、分からなくなってしまう。
「セレーネ」
扉の向こうから声がした。
王太子ユリウス殿下の声だ。
セレーネは慌てて表情を整えた。
泣きすぎた目元は侍女が冷やしてくれた。今日は少し儚げに見えるはずだ。昨夜のことでまだ胸を痛めている妹。けれど、殿下のそばにいたいと願う健気な令嬢。
大丈夫。
いつも通りにすればいい。
「はい、殿下」
扉が開き、ユリウスが入ってきた。
今日の殿下は、昨日の夜会より少し疲れて見えた。金の髪は整えられているし、青い上着もよく似合っている。けれど目元には薄い影がある。
「体調はどうだ」
優しい声。
セレーネは胸を押さえるようにして微笑んだ。
「少し眠れませんでした。でも、大丈夫です。殿下こそ、お疲れではありませんか?」
「ああ。昨夜は色々あったからな」
色々。
セレーネの指先が、膝の上でそっと握られる。
色々とは何だろう。
私とのこと?
お姉様との婚約破棄?
社交界の噂?
それとも、王妃陛下や宰相からの叱責?
聞きたい。
でも、聞けば重い女になる。
セレーネは少しだけ目を伏せた。
「お姉様のこと……私、本当に、こんなことになるとは思っていなかったのです」
その言葉は、もう何度も口にした。
母にも。父にも。殿下にも。自分にも。
こんなことになるとは思っていなかった。
半分は嘘だ。
半分は、本当だ。
姉が責められればいいと思った。
殿下が姉から離れればいいと思った。
自分を選んでくれればいいと思った。
でも、姉があんな顔をするとは思っていなかった。
泣き崩れず、怒鳴らず、ただ静かにすべてを受け入れて、最後に「欲しかったものが手に入るといいわね」と言うなんて。
あの言葉が、ずっと耳に残っている。
欲しかったもの。
手に入った。
なのに、どうしてこんなに胸が落ち着かないのだろう。
ユリウスはセレーネの前に座った。
「君のせいではない」
そう言ってくれる。
いつものように。
セレーネは少しほっとした。
けれど次の言葉で、その安堵は揺らいだ。
「ただ……リリアーナに、あんな力があったとは知らなかった」
セレーネは顔を上げた。
「力?」
「香りで、色々と分かるのだろう。ヘイス伯爵家の件も、レイゼン公爵の来店も、彼女の鼻が関係しているらしい」
殿下の声には、ほんの少しだけ興味が混じっていた。
その匂いを、セレーネは嗅ぎ分けることはできない。
けれど、分かった。
分かってしまった。
殿下が今、お姉様のことを考えている。
昨日までは、気味悪いと言っていたのに。
匂いを嗅ぐことしかできない女など、王妃にふさわしくないと言ったのに。
たった一日で。
たった一日で、どうして。
「お姉様の鼻は、昔から変でしたもの」
セレーネは笑った。
笑ったつもりだった。
けれど、少し声が高くなった。
「何でも分かったような顔をなさって。私、子どもの頃から怖かったのです。泣いても、嘘だと思われている気がして。何を言っても、香りで分かると言われたら、何も言えなくなってしまって」
「そうだったな」
ユリウスは頷いた。
けれど、どこか上の空だった。
セレーネの胸が締めつけられる。
「殿下?」
「ああ、すまない」
ユリウスは目を瞬いた。
「昨夜、リリアーナが言ったことを思い出していた」
「お姉様が?」
「真実とはずいぶん軽いものなのだと理解した、と」
セレーネの喉がきゅっと鳴った。
その言葉を、殿下は覚えている。
お姉様の言葉を。
私の涙よりも。
私の訴えよりも。
あの冷たい言葉を。
「ひどいことをおっしゃいましたよね」
セレーネは微笑んだ。
「殿下をあんなふうに責めるなんて。私、聞いていて胸が痛みました」
「そうだな。ひどい言い方だった」
ユリウスはそう言った。
でも、その声には怒りが少なかった。
「だが……少し、考えさせられた」
何を?
そう叫びそうになった。
考えないで。
お姉様のことなんて考えないで。
殿下を責めた姉の言葉など、忘れて。
私を見て。
私を選んだのでしょう。
私が泣いたから。
私が苦しんだから。
私が可哀想だったから。
なのに、どうして今さら姉を思い出すの。
セレーネは膝の上の手を強く握った。
爪が食い込む。
「殿下は……後悔なさっているのですか?」
声が震えた。
それは演技ではなかった。
ユリウスは驚いたように目を見開いた。
「違う。そういう意味ではない」
「でも、お姉様のことを」
「セレーネ」
ユリウスは慌てて身を乗り出した。
「私は君を選んだ。それは変わらない」
その言葉に、セレーネは縋りついた。
選んだ。
私を。
殿下は私を選んだ。
それがすべて。
それ以外は、全部余計な匂い。
「……本当ですか?」
「ああ」
「お姉様の方が、役に立つとお思いになったりは」
「役に立つ?」
ユリウスは少しだけ眉をひそめた。
失敗した。
セレーネはすぐに首を横に振る。
「いえ、違うんです。ただ、皆が急にお姉様の話をするから。冷血公爵様までお姉様の店へ行ったと聞いて、私、怖くて」
「レイゼン公爵が彼女の店へ行ったのは気になる」
セレーネの胸がまた沈む。
「なぜですか」
「彼は王宮にほとんど近づかない。社交界にも興味がない。そんな男が、婚約破棄されたばかりのリリアーナの店へ行った。偶然とは思えない」
「お姉様が、誘ったのでは?」
「リリアーナが?」
ユリウスは少しだけ笑った。
「彼女はそういうことができる女ではないだろう」
できる女ではない。
殿下はそう言った。
でも、その声には馬鹿にする響きがなかった。
むしろ、妙な信頼があった。
セレーネは唇を噛みそうになり、慌てて微笑みに戻した。
「殿下は、お姉様のことをよくご存じなのですね」
「長い婚約だったからな」
何気ない一言。
それが、セレーネには刺さった。
長い婚約。
そうだ。
殿下とお姉様は、ずっと婚約者だった。
子どもの頃から。
王宮の行事でも。
舞踏会でも。
王妃教育でも。
セレーネは、その外側から見ていた。
殿下の隣に立つ姉を。
少しも嬉しそうではないのに、当然のようにそこにいる姉を。
あの場所が欲しかった。
姉がつまらなそうに立っている場所が、欲しくてたまらなかった。
ようやく手に入れたのに。
まだ、殿下の記憶の中には姉がいる。
「セレーネ?」
ユリウスがこちらを覗き込む。
セレーネは慌てて目を潤ませた。
「ごめんなさい。少し、不安になってしまって」
「無理もない。昨夜のことは、君にも負担だった」
彼は優しい。
優しいはずなのに、今日の優しさは少し遠い。
セレーネはユリウスの手にそっと触れた。
「殿下、私は殿下を信じています」
「ああ」
「ですから、殿下も私を信じてくださいませ」
「もちろんだ」
その返事は早かった。
でも、早すぎる返事ほど、時々中身が薄い。
セレーネはそのことを、姉からではなく、母から学んだ。
母は父に何度も言っていた。
もちろんですわ。
大丈夫ですわ。
心配いりませんわ。
そう言う時ほど、母は裏で侍女に厳しい指示を出していた。
言葉は便利だ。
姉は匂いが正直だと言ったかもしれない。
でも、セレーネは知っている。
言葉でしか手に入らないものもある。
守られる立場。
同情。
愛情。
勝者の席。
ユリウスが部屋を出た後、セレーネはしばらく動けなかった。
鏡の中の自分はまだ美しい。
けれど、さっきより顔色が悪い。
勝ったはずなのに。
どうして、負けた時みたいに息が苦しいのだろう。
その時、背後の扉が静かに叩かれた。
「セレーネ様」
侍女の声ではない。
もっと滑らかで、甘く、低い声。
セレーネは振り返った。
扉の前に立っていたのは、宰相夫人クラリモンドだった。
黒真珠の扇を手にした、王宮で最も優雅な女性。
母よりも落ち着いていて、王妃陛下よりも近づきやすく、それでいて誰も逆らえない人。
セレーネは慌てて膝を折った。
「クラリモンド様」
「まあ、そのように畏まらないで。今日はあなたを励ましに来ただけですの」
クラリモンドは微笑んだ。
その微笑みは、母のものより上手かった。
母の笑みには、時々焦りが滲む。
クラリモンドの笑みには、それがない。
いつでも、相手より一段高い場所から、柔らかい布をかけるように笑う。
「お顔の色が優れませんわね」
「少し、眠れなくて」
「無理もございません。あれだけのことがあったのですもの。あなたはお優しいから、リリアーナ様のことを気に病んでいらっしゃるのでしょう」
お優しい。
その言葉に、セレーネの胸が少し軽くなる。
そうだ。
私は優しい。
だから苦しいのだ。
姉を傷つけたくなかったから。
でも、殿下を愛してしまったから。
仕方なかったから。
「私……悪いことをしたのでしょうか」
セレーネは小さく言った。
クラリモンドはゆっくりと首を横に振った。
「恋をしただけですわ」
「恋……」
「ええ。人を愛することは罪ではありません。むしろ、心のままに誰かを愛せるのは、とても美しいこと」
その言葉は甘かった。
甘くて、温かくて、セレーネが欲しかった形をしていた。
「でも、お姉様は」
「リリアーナ様は、お強い方です」
クラリモンドは窓辺へ歩き、外の庭園へ視線を向けた。
「けれど、強い方というのは、時に周囲を傷つけるものです。正しさは美徳ですが、正しすぎる人のそばでは、普通の人間は息ができません」
セレーネは、息を呑んだ。
それだ。
それが言いたかった。
姉のそばにいると、息ができない。
泣いても、笑っても、怒っても、全部見透かされる。
嘘だと責められる。
本当のことを言っても、別の匂いがすると言われる気がする。
セレーネはいつも、姉の前では自分が偽物になる気がしていた。
「私、お姉様が怖かったんです」
「ええ」
「でも、そんなことを言うと、私が弱いみたいで」
「弱くてよいのです」
クラリモンドはセレーネのそばへ戻り、そっと手を取った。
「女性は、弱さを知らなければ愛されません。強さだけでは、殿方は近づけませんもの」
それは、母もよく言っていた。
けれどクラリモンドが言うと、まるで王宮の法のように聞こえた。
「ユリウス殿下は、私を愛してくださっているのでしょうか」
口にした瞬間、セレーネは自分の声がひどく幼いことに気づいた。
それでも、止められなかった。
「今日、殿下はお姉様の話ばかりなさるのです。お姉様に力があったのか、とか、レイゼン公爵様がなぜお姉様の店に行ったのか、とか……私を選んでくださったのに。私の前で、お姉様のことを考えていらっしゃるのです」
言えば言うほど惨めだった。
でも、クラリモンドは笑わなかった。
「殿方は、失ったものを後から惜しむことがあります」
セレーネの胸が凍った。
「失ったもの……?」
「でも、それは愛ではありません。ただの惜しみです。自分のものだと思っていた宝石が、他人の手で輝き始めた時、急に価値に気づく。よくあることですわ」
他人の手で輝き始めた。
姉が?
あのリリアーナが?
王都の端のぼろい香水店で?
冷血公爵に必要とされて?
セレーネの胸に、熱いものが湧いた。
嫌だ。
嫌だ、嫌だ。
お姉様は、捨てられたのだ。
私が選ばれたのだ。
なのに、どうしてお姉様がまた輝くの。
どうして殿下の目に入るの。
どうして、私が勝った後まで、お姉様は私の場所を奪おうとするの。
「セレーネ様」
クラリモンドの声が、耳元に優しく落ちた。
「殿下のお心を不安に思う必要はありません。あなたは、愛されるにふさわしい方です。ただ、少しだけお手伝いが必要な時もある」
「お手伝い?」
「ええ」
クラリモンドは懐から小さな箱を取り出した。
黒い木箱だった。
蓋には、金色の薔薇の模様。
セレーネは一瞬、その箱から目を離せなくなった。
綺麗。
けれど、どこか怖い。
「これは、王宮でも限られた方にしか渡されない特別な香水です」
クラリモンドが蓋を開ける。
中には、小さな香水瓶が入っていた。
薄紅色の液体。透明な瓶。金の栓。底には、黒い薔薇の紋様が沈むように刻まれている。
「美しい……」
「あなたに似合うと思って」
「私に?」
「ええ。白百合のようなあなたには、少し薔薇を足すとよいでしょう。殿方は、清らかさだけではなく、忘れられない余韻にも惹かれますから」
セレーネは瓶を受け取った。
手のひらに収まるほど小さいのに、妙に重い。
蓋を開けると、甘い香りがした。
薔薇。
蜂蜜。
白檀。
それから、ほんの少し焦げた砂糖のような香り。
セレーネには、それが危険なものだとは分からなかった。
ただ、胸の奥がじわりと温かくなる。
いや、熱くなる。
さっきまでの不安が、別の形に変わっていく。
殿下を取られたくない。
お姉様に負けたくない。
私を見てほしい。
私だけを。
「これをつければ、殿下は……」
「殿下のお心が、あなたの魅力を思い出しやすくなるだけですわ」
「魅力を」
「香りは、人の記憶に寄り添うものです。あなたがそばにいる時、殿下が安心なさる。あなたを見ると、胸が温かくなる。そのお手伝いをするだけ」
それは悪いことではないように聞こえた。
恋する令嬢が、少し美しく見える香水をつける。
ただそれだけ。
「でも、お姉様は……こういう香りを、嫌がるかもしれません」
口にしてから、セレーネは自分で驚いた。
なぜ今、姉のことを考えたのだろう。
クラリモンドの目が、ほんの一瞬だけ細くなった。
けれどすぐに、いつもの微笑みに戻る。
「リリアーナ様は、何でも疑う方ですもの。けれど、あなたはあなたの幸せを考えればよいのです」
「私の、幸せ」
「ええ。あなたは勝ったのですから」
勝った。
その言葉が、瓶の香りと一緒に胸へ染み込む。
勝った。
そうだ。
私は勝った。
だから、この場所を守らなければならない。
殿下の隣。
王宮での立場。
皆の同情。
母の期待。
父の安堵。
お姉様に勝った証。
全部、私のもの。
クラリモンドはセレーネの髪を優しく撫でた。
「今夜、ほんの少しだけお使いなさい。手首に一滴。耳の後ろに一滴。それだけで十分です」
「はい」
「つけすぎてはいけませんよ。香りは、過ぎれば毒になりますから」
クラリモンドは笑った。
冗談のように。
セレーネもつられて笑った。
けれど、その言葉は部屋の中に長く残った。
香りは、過ぎれば毒。
クラリモンドが去った後、セレーネは一人で香水瓶を見つめた。
瓶の底の黒薔薇は、光の角度で見えたり消えたりする。
まるで、瓶の中で眠っている小さな影のようだった。
セレーネは手首に一滴だけ垂らした。
甘い香りが立ちのぼる。
胸が熱くなる。
頭の奥で、誰かが囁く。
負けたくない。
取られたくない。
お姉様なんて、大嫌い。
大嫌い。
大嫌いなはずなのに。
どうして、あの人が王都の端で笑っているかもしれないと思うだけで、こんなに苦しいの。
その夜、セレーネは夢を見た。
夜会場。
王太子ユリウス殿下の隣に、自分が立っている。
誰もが祝福している。
母が泣き、父が頷き、貴婦人たちが微笑む。
幸せな夢。
そのはずだった。
けれど、広間の扉が開く。
リリアーナが入ってくる。
濃紺のドレスではない。
王妃になる者が着る、白と金の衣装。
その隣には、黒い外套の男。
冷血公爵ヴァルト。
姉はセレーネを見て、静かに言う。
「欲しかったものが手に入って、よかったわね」
その瞬間、セレーネの足元に薔薇が咲いた。
白い薔薇。
赤い薔薇。
そして、黒く焦げた薔薇。
香りが喉に絡みつく。
甘い。
甘すぎる。
息ができない。
「やめて……」
夢の中で、セレーネは叫んだ。
「私を見ないで、お姉様」
リリアーナは何も言わない。
ただ、あの静かな目で見ている。
嘘も、本音も、嫉妬も、全部嗅ぎ分ける目で。
「見ないで!」
セレーネは目を覚ました。
寝台の上で、荒く息をしていた。
手首から、薔薇の香りがする。
甘い。
甘いのに、どこか焦げている。
窓の外はまだ夜だった。
セレーネは手首を胸に抱き寄せる。
怖い。
けれど、瓶を手放せなかった。
これがあれば、殿下は私を見てくれる。
これがあれば、私は負けない。
これがあれば。
お姉様に、もう奪われない。
セレーネは寝台の中で、香水瓶を握りしめた。
その小さな瓶の底で、黒い薔薇が月明かりを吸い込むように、静かに沈んでいた。




