第11話 契約婚約の提案
契約書というものは、香水の調合に似ている。
強すぎる条件を入れれば、相手の鼻につく。
甘い言葉ばかり並べれば、あとから腐る。
大事なものを入れ忘れれば、いざという時に効かない。
だから慎重に作る必要がある。
少なくとも、私はそう思っていた。
けれど、ヴァルト・レイゼン公爵は違った。
「契約婚約を結べばいい」
彼は、雨が降っているから傘を差せばいい、くらいの口調でそう言った。
私はペンを落とした。
ころん、と調香台の上を転がったペンが、祖母の日記の端で止まる。
店の中には、壁を修理する職人たちの金槌の音が響いていた。外ではネリが職人に向かって「あんた、そこ雑にやったらうちのパン一生売らないよ」と怒鳴っている。ミナは奥で洗った小瓶を布で拭いていた。
その、あまりにも日常的で騒がしい空気の中で。
冷血公爵は、婚約などという、とんでもない言葉を普通に置いた。
「……今、何と?」
「契約婚約だ」
「聞き間違いではなかったのですね」
「聞き間違いにしてもよいが、もう一度言う」
「いえ、結構です」
私はこめかみを押さえた。
昨日から、頭痛の種類が増えている。
婚約破棄された痛み。
屋敷を出た不安。
王宮陰謀の重さ。
そして今、冷血公爵による唐突な契約婚約。
人生はなぜ、もう少し順番を守ってくれないのだろう。
ヴァルトは木箱に座っていた。
昨日よりさらに丈夫な木箱だ。職人が「公爵様が座るなら」と慌てて釘を打ち足したせいで、今やこの店の中で一番信頼できる家具になっている。
彼は相変わらず黒い外套をまとい、軍服に近い濃紺の上着を着ていた。顔色は昨日より少しだけましに見える。昨夜の香が効いたのだろう。
ただし、焦げた薔薇の匂いは消えていない。
白樹皮と氷花石の香りで一晩だけ覆えたとしても、呪いは彼の内側に根を張ったままだ。
「理由を、お聞きしても?」
私は慎重に尋ねた。
ヴァルトは頷いた。
「薔薇の間へ入るには立場がいる」
「それは分かります」
「君は今、王宮から追い出された公爵令嬢だ」
「表現が直線的ですね」
「事実だ」
「事実は時々、角を丸めても罰は当たりません」
「努力する」
彼は真面目にそう言った。
私は少しだけ力が抜けた。
この人は、本気で学ぼうとしている。
ただし、方向がいつも少しずれている。
「続ける」
「はい」
「今の君が王宮へ入ろうとすれば、王太子に未練がある、妹への嫌がらせを続けるつもりだ、あるいは王宮の秘密を嗅ぎ回る悪女だと見られる」
「最後は事実に近いですね」
「悪女ではない」
「そこだけ訂正するのですか」
「重要だ」
また、そんなことを真顔で言う。
私は視線を落とし、契約書の端を指で押さえた。
今、少しだけ胸が温かくなったことを、この人には知られたくなかった。
「ですが、ヴァルト様の婚約者となれば、王宮に入る理由ができる、と」
「ああ。レイゼン公爵家は王族の遠縁だ。王宮行事への出入りもある。私の婚約者であれば、君を無視できない」
「それで、契約婚約」
「そうだ」
「なるほど」
理屈は分かる。
とても分かる。
腹立たしいほど、合理的だった。
王宮香油を調べるには、王宮へ入らなければならない。前王妃の薔薇の間も、現王妃や宰相夫人の周辺も、外からでは届かない。
けれど私は、王太子に捨てられた悪女として噂されている。
そんな私が王宮へ行けば、ただの見世物だ。
一方、ヴァルトは違う。
冷血公爵と恐れられているとはいえ、王国北方を守る重臣。王家の血にも近い。彼の隣に立てば、少なくともその場でつまみ出されることはない。
それは分かる。
分かるけれど。
「お断りします」
私は言った。
ヴァルトは少しも驚かなかった。
「理由は」
「昨日から、何度も申し上げております」
「誰かの所有物にはならない、か」
「はい」
「婚約者は所有物ではない」
「理想としては」
私は彼を見た。
「ですが、現実の社交界では違います。女は誰かの娘で、誰かの婚約者で、誰かの妻です。私は昨日まで、王太子殿下の婚約者でした。私の名前より先に、殿下の名がありました。殿下が笑えば私も微笑むべきで、殿下が間違えば私が黙って支えるべきで、殿下が私を捨てれば、私は悪女になる」
言葉が少し早くなった。
自分でも分かった。
それでも止まらない。
「エルヴェール家では父の娘でした。母の期待に沿わない娘で、セレーネの姉でした。王宮では、王妃教育を受ける婚約者でした。いつも、私の前に誰かの肩書きがありました。やっとこの店で、私は店主になれたのです」
調香台の上に置かれた小瓶が、夕方の光を受けて淡く光った。
夜明けの瓶。
傾いた看板。
雨漏りしそうな屋根。
まだ蜘蛛の残る店。
それでも、私の場所だ。
「だから、たとえ契約であっても、また誰かの婚約者になるのは怖いです」
言ってしまった。
怖い。
その言葉を。
ヴァルトは黙っていた。
彼は、すぐに慰めなかった。
説得もしなかった。
その沈黙が、少しありがたかった。
王宮の人間は、誰かが怖いと言えば、すぐに布をかける。怖くありませんよ、大丈夫ですよ、あなたのためですよ、と。
でも、布をかけられても、怖いものは消えない。
ヴァルトはそうしなかった。
ただ、私の言葉が部屋に落ちるのを待っていた。
金槌の音が外で鳴る。
ミナが奥で瓶を置く音がする。
ネリの怒鳴り声が聞こえる。
「左じゃないよ、右だよ! あんた、自分の鼻はどっちについてんだい!」
職人が何か言い返す。
日常の音。
怖いと口にしても、世界は壊れなかった。
少しだけ、それに救われた。
ヴァルトが口を開いた。
「では、怖くない形を考える」
「え?」
「君が嫌がるなら、その条件は使えない」
「……使えない、ですか」
「ああ」
「普通、そこは『無理にとは言わない』とか『君の気持ちを尊重する』では」
「それも含む」
「含め方が雑です」
「すまない」
彼は本当に少し困った顔をした。
私は、思わず笑いそうになる。
冷血公爵は、女心が分からないというより、人の感情を戦場の地図のように扱おうとして失敗しているのかもしれない。
危険地帯。補給線。撤退経路。突破口。
そして今、私の「怖い」を前にして、彼は迂回路を探している。
「契約書を作る」
ヴァルトは言った。
「すでに共同調査の契約書は作りかけていますが」
「婚約の方だ」
「まだ受けるとは」
「受けるかどうか判断する材料として」
彼は懐から折り畳まれた紙を取り出した。
私は警戒した。
「まさか、もう用意しているのですか」
「昨夜、考えた」
「早いですね」
「眠れたからな」
その一言で、怒る気が少し削がれた。
眠れたから考えられた。
彼にとっては、それほど大きなことなのだ。
ヴァルトは紙を広げた。
そこには、彼らしい整った字で、いくつも条件が書かれていた。
私は読み始めた。
一つ目。
『リリアーナ・エルヴェールは、夜明けの瓶の店主としての営業を継続する。ヴァルト・レイゼンはこれを妨げない』
まともだ。
二つ目。
『リリアーナ・エルヴェールの私物、調香道具、日記、書類に、ヴァルト・レイゼンは本人の許可なく触れない』
まともだ。
かなりまともだ。
三つ目。
『レイゼン公爵家の屋敷に滞在する必要が生じた場合も、リリアーナ・エルヴェールは自室に鍵をかける権利を有する』
まともすぎて、少し怖い。
四つ目。
『食事の同席を強制しない』
私は顔を上げた。
「ここ、なぜ入れたのですか」
「婚約者なら食事を共にするものだとギルが言った」
「ギルさんが」
「君は嫌がる可能性があると思った」
「嫌とは限りませんが」
「そうか」
「でも、強制されないなら助かります」
「なら残す」
彼は淡々と答えた。
私は続きを読んだ。
『社交行事への出席は、双方が必要と認めた場合のみ行う』
『婚約は王宮香油および焦げた薔薇の呪いの調査を目的とする仮契約であり、双方の合意なく婚姻へ移行しない』
『リリアーナ・エルヴェールは、嫌なことを嫌と言ってよい』
そこで、私は止まった。
文字を見つめたまま、しばらく動けなかった。
嫌なことを、嫌と言ってよい。
当たり前のことのようで、私にとっては当たり前ではなかった。
嫌だと言えば、我慢が足りないと言われた。
怖いと言えば、気味が悪いと言われた。
傷ついたと言えば、周りも傷ついていると言われた。
嫌だと言う権利など、持っていないと思っていた。
ヴァルトの字は、無骨なほど真っ直ぐだった。
「これは」
声が少し掠れた。
「誰が考えたのですか」
「私だ」
「本当に?」
「なぜ疑う」
「いえ、少し……意外で」
「君は嫌なことを言うのが苦手に見える」
私は瞬きした。
「私が?」
「ああ」
「私はよく、言い方がきついと言われます」
「嫌なことを嫌と言うのと、相手を刺して距離を取るのは違う」
言葉が胸に刺さった。
けれど、不思議と腹は立たなかった。
図星だったからだろう。
私は相手を拒む時、正しい言葉で刺そうとする。
刺せば近づかれずに済む。
傷つけられる前に、相手を止められる。
嫌です、とただ言えばいい場面で、私はつい理屈を並べる。
だって、ただ嫌だと言うだけでは、聞いてもらえなかったから。
「……ヴァルト様は、人を見るのが下手なのか上手いのか分かりません」
「私も分からない」
「自覚はあるのですね」
「多少」
私は思わず小さく笑った。
その時、奥からミナが顔を出した。
「あの……お茶、入れました」
彼女は盆を持っていた。
茶器は揃いではない。昨日ネリから借りたカップと、棚の奥に残っていた古い茶碗が混ざっている。王宮なら絶対に出せない組み合わせだ。
ミナはヴァルトを見て、少し怯えながらも、頑張って言った。
「公爵様、どうぞ」
「ありがとう」
ヴァルトが短く礼を言うと、ミナは目を丸くした。
公爵が下働きの少女に礼を言った。
それだけで彼女には驚きなのだろう。
ミナは私にもカップを置き、小声で言った。
「リリアーナさん」
「何?」
「その契約書、すごく細かいですね」
「ええ」
「でも、細かい方がいいと思います」
ミナは盆を胸元に抱えた。
「私、伯爵家に入った時、契約書なんて読めませんでした。何をしていいか、何をされてはいけないかも分からなくて。だから、料理長に夜呼ばれても、仕事だから仕方ないのかと思って」
彼女は少しだけ唇を噛んだ。
「でも、決まりがあれば、これは違うって言えたかもしれません」
私はミナを見た。
彼女は以前より、ほんの少しだけ背筋が伸びている。
まだ怯える。まだ声は小さい。
でも、自分の言葉で考えようとしている。
「そうね」
私は契約書に視線を戻した。
「決まりは、縛るものにもなるけれど、守るものにもなる」
祖母の日記。
前王妃の手紙。
ヴァルトの条件。
言葉も香りも、使い方次第なのだ。
ヴァルトが茶を一口飲み、ほんの少し眉を動かした。
私は見逃さなかった。
「苦かったですか」
「いや」
「嘘です」
「少し苦い」
ミナが慌てた。
「す、すみません! 茶葉の量が分からなくて」
「問題ない」
「でも」
「北方の軍用茶よりましだ」
ギルが入口で小さく噴き出した。
ミナは、それが褒め言葉なのか判断できず、私を見る。
私は首を横に振った。
「ミナ、参考にしてはいけない基準です」
「はい」
店の空気が少し緩んだ。
それが不思議だった。
婚約の話をしているのに。
王宮の陰謀に近づこうとしているのに。
呪いを受けた公爵が目の前にいるのに。
茶が苦いとか、木箱がきしむとか、外でネリが職人を叱っているとか。
そういうどうでもいいものが混じるだけで、人は息がしやすくなる。
ヴァルトは、契約書を私の方へ押した。
「他に必要な条件は」
私はペンを取った。
しばらく考える。
店の営業を妨げない。
私物に触れない。
食事を強制しない。
婚姻へ勝手に進めない。
嫌なことを嫌と言っていい。
十分すぎるほど、配慮されている。
けれど、一つ足りない。
私は一番下に書き足した。
『リリアーナ・エルヴェールを、かわいそうな女として扱わないこと』
ヴァルトがその行を読んだ。
「かわいそうな女」
「はい」
「君は、かわいそうではないのか」
ミナが息を呑んだ。
ギルが小さく「閣下」と呻く。
私は、少しだけ笑ってしまった。
普通ならひどい聞き方だ。
けれどヴァルトの声には嘲りがない。純粋に、意味を確認しているだけだった。
「かわいそうな部分はあります」
私は答えた。
「婚約破棄されました。家族にも信じてもらえませんでした。店には落書きされました。床で寝たので背中も痛いです」
「寝台を」
「買いません。まだ」
「そうか」
「ですが、それだけで私を決めないでください。かわいそうだから守る、かわいそうだから助ける、かわいそうだから隣に置く。そういう扱いは嫌です」
私はペンを置いた。
「私は傷つきました。でも、傷ついただけの女ではありません」
ヴァルトは、長い間その一文を見ていた。
店の外で、職人が「終わりました!」と声を上げる。
ネリが「まだ角が甘い!」と怒鳴る。
それでも、ヴァルトは動かなかった。
やがて彼は言った。
「分かった」
「本当に?」
「努力する」
「また努力」
「できると言い切るのは嘘になる」
私は黙った。
そういうところが、ずるい。
この人は、できないことをできると言わない。
完璧な慰めを言わない。
だから、彼の言葉は少し不格好でも、信じたくなってしまう。
「では、私からも条件を足す」
ヴァルトが言った。
「何でしょう」
「私を、ただの冷血公爵として扱わないこと」
私はペンを持つ手を止めた。
ギルが驚いたようにヴァルトを見る。
ヴァルト本人は、相変わらず静かな顔だった。
「怖い男だと思われるのは慣れている。利用されるのも、避けられるのも、恐れられるのも慣れている。だが、君は私の呪いを嗅ぐ。なら、私を見る時、噂だけで決めないでほしい」
その言葉は、思ったより深く胸に落ちた。
冷血公爵。
王国北方の盾。
血の匂いがする男。
ヴァルトもまた、誰かの名前で閉じ込められていたのかもしれない。
私が、匂いしか分からない無能令嬢と呼ばれたように。
「書きます」
私は契約書に書き足した。
『ヴァルト・レイゼンを、ただの冷血公爵として扱わないこと』
書き終えてから、顔を上げる。
目が合った。
灰色の瞳は、冷たい。
けれど、もうただ冷たいだけではないと分かる。
その奥には、眠れない夜と、燃える薔薇と、誰にも弱さを見せてこなかった男の疲労がある。
「これで、対等でしょうか」
「近い」
「近い?」
「まだ私の方が爵位が高い」
「そういう意味ではありません」
「冗談だ」
私は目を瞬いた。
「今の、冗談だったのですか」
「たぶん」
「たぶん」
ギルが入口で天井を見上げている。
ミナは困惑している。
私は耐えきれず、少し笑った。
ヴァルトも、本当にわずかに口元を緩めた。
その瞬間、焦げた薔薇の匂いが少しだけ薄くなった気がした。
気のせいかもしれない。
でも、記録しておこうと思った。
笑うと呪いが薄まる可能性。
いや、書いたら本人に怒られるだろうか。
私は契約書を二枚に写し、署名欄を作った。
「まだ、正式に受けるとは言っていません」
「そうか」
「でも、条件としては検討できます」
「前進だな」
「そうですね」
私はペンを置いた。
「一晩、考えさせてください」
「分かった」
「それから、もし受けるとしても、これは恋愛の婚約ではありません」
「理解している」
「王宮調査のための契約です」
「ああ」
「周囲が何を言っても、必要以上に親しげに振る舞う必要はありません」
「それは困る」
「なぜですか」
「婚約者らしく見えないと、王宮で疑われる」
私は黙った。
もっともだ。
だが、困る。
「婚約者らしく、とは」
「分からない」
「分からないのに言ったのですか」
「ギルに聞く」
ギルが入口で固まった。
「閣下、私に恋愛方面を振らないでください」
「なぜ」
「私も分かりません」
「役に立たないな」
「戦場なら役に立ちます!」
ミナが小さく笑った。
私もつられて笑った。
ヴァルトは真面目な顔で考え込む。
「では、本で調べる」
「恋愛指南書ですか」
「あるのか」
「たぶん」
「買う」
「買わなくていいです」
「必要では?」
「必要ですが、たぶん別の意味で危険です」
ネリが外から顔を出した。
「抱き寄せるとか、見つめ合うとか、そういうやつだろ。あんたたちには早いよ」
「ネリさん、聞いていたのですか」
「壁が直ったか確認してただけだよ。耳がついてただけさ」
「便利な耳ですね」
ヴァルトはネリを見る。
「婚約者らしく見える方法を知っているか」
ネリは口元を引きつらせた。
「公爵様、女将に聞くことじゃないよ」
「誰に聞けばいい」
「さあね。まずは相手の嫌がることをしないことだね」
「契約書に書いた」
「なら半分できてる」
「残り半分は」
「知らないよ。自分で考えな」
ヴァルトは真剣に頷いた。
「分かった」
この人は、下町のパン屋の女将の助言を王命のように受け取るのか。
私は頭痛がしそうだった。
でも、なぜか嫌ではなかった。
夕方、職人たちが帰り、店の壁と扉はひとまず修理された。看板も傾きが少し直り、赤い落書きの跡は薄い色で塗り直された。
完全に新しくなったわけではない。
けれど、昨日よりずっと店らしい。
ヴァルトは帰り際、契約書の写しを丁寧に折り畳んだ。
「明日、返事を聞きに来る」
「はい」
「嫌なら嫌と言え」
「契約前から適用されるのですか」
「練習だ」
「……分かりました」
彼は店を出ようとして、ふと足を止めた。
「リリアーナ」
「はい」
「君は、かわいそうな女ではない」
胸が詰まった。
ヴァルトは少し考えて、続けた。
「傷ついているが、立っている女だ」
私は、すぐに返事ができなかった。
その言葉には、同情の匂いがなかった。
憐れみもない。
ただ、見たままを言っている。
それが、少しだけ泣きたくなるほど嬉しかった。
「……ありがとうございます」
「合っていたか」
「はい」
「ならよかった」
ヴァルトは黒い外套を翻し、馬車へ向かった。
ギルが小さく私に頭を下げ、後に続く。
馬車が去ると、店の前に夕暮れの静けさが戻った。
ミナが隣に立つ。
「リリアーナさん」
「何?」
「公爵様、怖いですけど……怖いだけじゃないですね」
「ええ」
私は契約書の控えを見下ろした。
契約婚約。
たった数日前、王太子に婚約破棄されたばかりの私が、今度は冷血公爵との婚約を検討している。
人生とは、本当に雑だ。
けれど、今度は違う。
これは誰かに押しつけられた婚約ではない。
私が条件を読み、線を引き、嫌だと言う権利を持った上で選ぶものだ。
選べるなら。
同じ婚約でも、匂いは違う。
私は契約書を祖母の日記の隣に置いた。
紙から立ちのぼる香りは、まだ少しぎこちない。
警戒。
合理。
焦げた薔薇。
そして、ほんの少しの信頼。
夜明け前の空気に似ている。
冷たくて、心細くて。
でも、確かに朝へ向かっている匂いだった。




