第12話 冷血公爵の不器用な溺愛
翌朝、夜明けの瓶の前に、男が六人立っていた。
全員、黒い外套。
全員、腰に剣。
全員、背筋がまっすぐで、朝の東区にはまったく似合っていなかった。
私は店の扉を半分だけ開けた状態で、しばらく彼らを見つめた。
向こうも私を見ている。
黙っている。
とても黙っている。
雨上がりの石畳の上に、黒い外套の男たちが等間隔で並んでいる様子は、香水店の前というより、王都の重要犯人を護送する直前に見えた。
「……おはようございます」
私が言うと、中央に立っていた男が、きびきびと頭を下げた。
「おはようございます、リリアーナ様」
「様は不要です」
「命令でしょうか」
「お願いです」
「承知しました、リリアーナ様」
「直っていません」
男は真面目な顔をしたまま、わずかに困ったようだった。
その横で、別の男が低く囁く。
「隊長、閣下は『失礼のないように』と」
「だが店主殿は様を不要と」
「しかし閣下が」
「いや、本人の意向を」
小声の相談が始まった。
とても軍人らしい相談だった。
私は扉の隙間から顔だけ出したまま、頭痛を覚えた。
嫌な予感はしていた。
昨夜、ヴァルトは契約婚約の返事を聞きに来ると言った。その前に店の修理や警備の話もしていた。
だが、これは警備なのか。
それとも包囲なのか。
「リリアーナ!」
向かいのパン屋から、ネリが大きな籠を抱えて出てきた。
彼女は店先の黒外套たちを見るなり、足を止めた。
「……あんた、朝から何をしたんだい」
「まだ何もしていません」
「じゃあ、これから何かする予定でも?」
「今のところ、棚の整理と、昨日洗った瓶を乾かすくらいです」
「そのために兵隊が六人?」
「私も理由を知りたいところです」
黒外套の中央の男が、私とネリへ向き直った。
「我々は、レイゼン公爵閣下の命により、夜明けの瓶周辺の警戒を担当します」
ネリが目を細めた。
「警戒ねえ。うちの客が怖がってパンを買いに来なくなったら、あんたら全員に昨日の硬いパンを原価の三倍で売るよ」
黒外套たちは微動だにしなかった。
すごい。
ネリの脅しに動じない人間がいるとは。
いや、よく見ると端の一人が少しだけ喉を鳴らしている。緊張しているらしい。かわいそうに。
「ご安心ください。通行の妨げにはなりません」
「もうなってるよ。魚屋の親父があんたらを避けて、今、魚の桶を落としかけた」
通りの向こうで、魚屋の親父が「俺は平気だ!」と叫んだ。
その声が少し裏返っていた。
私は額に手を当てた。
「皆さん、少々お待ちください」
「はい」
「そのまま動かないでください」
「はい」
「いえ、動かなさすぎるのも困るのですが」
「では、どうすれば」
「……私にも分かりません」
朝から、なぜこんな会話をしているのだろう。
私は急いで身支度を整え、契約書の控えを鞄に入れた。
まだ署名はしていない。
けれど昨夜、一晩かけて考えた。
眠れなかった。
床のせいもある。契約婚約という言葉のせいもある。ヴァルトの言葉のせいもある。
君は、かわいそうな女ではない。
傷ついているが、立っている女だ。
あの言葉は、眠りの香よりずっと厄介だった。
思い出すたび、胸の奥が温かくなったり、恥ずかしくなったり、怖くなったりする。
だから私は、夜明け前に結論を出した。
契約婚約を、受ける。
ただし、私の条件で。
誰かの婚約者として所有されるのではなく、王宮の嘘を暴くための共同調査者として。
そのために、まず必要なのは――店の前に立つ黒外套六人をどうにかすることだった。
私は外へ出て、黒外套の隊長らしき男に言った。
「皆さんのお気持ちはありがたいのですが、この立ち方ではお客様が入りづらくなります」
「しかし、閣下より、店に危害を加える者を近づけるなと」
「危害を加えない方まで近づけなくなっています」
「なるほど」
隊長は真剣に頷いた。
この屋敷の人間は、皆、真剣に頷く。
ヴァルトだけではなかった。
「では、どう配置すれば」
「配置というほど大げさなものではなく……通りの角に一人。裏手の路地に一人。あとは、普通の服装で周辺にいていただくことはできますか?」
「普通の服装」
黒外套たちが互いを見る。
まるで、とても難しい命令を受けたような顔だった。
「持っていないのですか」
「任務用の外套なら」
「それは普通ではありません」
「北方では普通です」
「ここは王都東区です」
隊長は少し考え込んだ。
「私服を手配します」
「お願いします。あと、剣は見えないように」
「それは危険です」
「お客様が怯えます」
「では、見えないが抜ける位置に」
「……お任せします」
この人たちに完全な柔らかさを求めるのは、香水瓶に馬車を入れようとするくらい無理がある。
まずは、店の前に軍人が六人並ぶ状況を避けられれば十分だ。
ネリが感心したように言った。
「あんた、案外人を使うの上手いね」
「そんなつもりは」
「公爵様よりは上手いよ」
「比べる基準が」
「低い?」
「言っていません」
「顔に書いてある」
ネリはにやりと笑った。
その時、黒い馬車が通りの角に現れた。
黒外套たちが一斉に姿勢を正す。
通りの空気がまた引き締まる。
ヴァルト・レイゼン公爵が、今日も夜明けの瓶へ来た。
馬車から降りた彼は、昨日より少し顔色がよかった。とはいえ健康そうというほどではない。焦げた薔薇の匂いは、まだ胸の奥に絡みついている。ただ、白樹皮の香りがわずかに残っている。
昨夜も香を使ったのだ。
彼は店の前に立つ黒外套たちを見て、それから私を見た。
「警備を置いた」
「はい。見れば分かります」
「足りないか」
「多いです」
「そうか」
彼は即座に隊長へ視線を向けた。
「増やせ」
「違います!」
私は思わず声を上げた。
通りの人々がこちらを見る。
ミナが店の奥から顔を出した。
ネリが腹を抱えた。
ギルが馬車のそばで額を押さえている。
ヴァルトは真剣な顔で私を見る。
「多いとは、不足ではないのか」
「多すぎるという意味です」
「そうか」
「はい」
「紛らわしいな」
「一般的には紛らわしくありません」
ギルが小さく呻いた。
「閣下、だから申し上げたではありませんか。店の前に兵を並べると、店主殿に怒られますと」
「怒っているのか」
ヴァルトが私に尋ねる。
私は少し考えた。
「怒っているというより、困っています」
「そうか。困らせるつもりはなかった」
「分かっています」
それは本当だった。
ヴァルトからは悪意の匂いがしない。
あるのは、焦げた薔薇と、冷たい鉄と、真剣すぎる庇護の匂い。
彼は私の店を守ろうとしている。
ただ、その方法が砦を守るやり方なのだ。
「ヴァルト様」
「何だ」
「私は砦ではありません」
「知っている」
「夜明けの瓶も砦ではありません」
「雨漏りは砦と同じく危険だ」
「そこではなく」
「店を守るには、人員が必要だ」
「お客様が入れる余白も必要です」
ヴァルトは黙った。
考えている。
眉間に少しだけ皺が寄った。
その顔があまりにも真剣で、私は怒る気が少し抜けた。
この人は、本当に分からないのだ。
誰かを守るということは、壁を高くすることだと思っている。距離を詰めることではなく、周囲を排除することだと思っている。
きっと、そうやって生きてきた。
北方で。
戦場で。
王宮に歓迎されない場所で。
「店というのは」
私はゆっくり言った。
「人が入ってきて、少し話をして、買うか買わないか迷って、また来るかもしれないと思って帰る場所です」
「そうなのか」
「はい」
「買わない客も入れるのか」
「入ります」
「効率が悪い」
「商売には、効率だけでは測れないものがあります」
ネリが向かいから「いいこと言うじゃないか」と声を投げる。
私は聞こえないふりをした。
「だから、守ってくださるなら、遠くから。店の空気を壊さないようにお願いします」
ヴァルトはしばらく私を見ていた。
灰色の瞳。
冷たく見えるのに、今は少し迷いがある。
「分かった」
彼は言った。
「店の空気を守る」
「はい」
「難しいな」
「練習してください」
「努力する」
また努力。
けれど、今は少し笑ってしまった。
「ありがとうございます」
ヴァルトは、隊長へ向き直った。
「配置を変更する。店主の指示を優先しろ」
「はっ」
「ただし、不審者は捕らえろ」
「はっ」
「殺すな」
「はっ」
「……念のためですか」
私が言うと、ヴァルトは当然のように頷いた。
「念のためだ」
やはり、この人には細かい確認が必要だ。
契約書に追記しよう。
私は心の中で決めた。
その後、黒外套の人員は通りの角と裏手へ散った。数人はネリに無理やり古い上着を着せられ、「まだ兵隊臭いね」と辛辣に評されていた。
ヴァルトは店内へ入った。
今日の木箱は使わなかった。
修理職人が、昨日のうちに中古の椅子を一脚だけ直してくれたのだ。背もたれは少し歪んでいるが、座れる。
ヴァルトはその椅子を見て、少しだけ感心したように言った。
「椅子だ」
「はい。椅子です」
「進歩したな」
「店の成長を椅子で測らないでください」
「分かりやすい」
「否定はしません」
ミナが奥で笑いをこらえている。
私は調香台の上に契約書を広げた。
「昨夜、考えました」
ヴァルトの表情が少し引き締まる。
ギルも入口近くで姿勢を正した。
ネリはなぜか窓の外から見ている。
「ネリさん」
「壁の乾き具合を見てるだけだよ」
「その位置では契約書が見えます」
「目がいいんだよ」
諦めた。
私は契約書に目を落とした。
「契約婚約を、お受けします」
言った瞬間、胸の奥がどくりと鳴った。
言葉にすると、急に現実になる。
王太子に婚約破棄されてから、まだ何日も経っていない。
なのに今、私は別の婚約を受けると言っている。
ただし、今度は私が選んだ。
私はそれを忘れないように、契約書の端を指で押さえた。
「ただし、条件を追加します」
「言え」
ヴァルトはすぐ答えた。
その速さに少し安心する。
「まず、婚約は王宮香油と焦げた薔薇の呪いを調査するための仮契約であること。互いの合意なく婚姻には移行しないこと」
「問題ない」
「夜明けの瓶の営業を妨げないこと」
「問題ない」
「私の客に圧をかけないこと」
「努力する」
「そこは問題ないと言っていただきたいです」
「圧の範囲が分からない」
「では、努力で」
私は小さく息を吐いた。
「それから、私をかわいそうな女として扱わないこと」
「覚えている」
「ヴァルト様を、ただの冷血公爵として扱わないこと」
「それも」
「最後に」
私はペンで一行を書き足した。
『相手の生活を守る際は、相手本人の了承を得ること』
ヴァルトが読み上げる。
「相手の生活を守る際は、相手本人の了承を得ること」
「はい」
「警備のことか」
「はい」
「今朝のは、契約前だった」
「契約前だから許されるわけではありません」
「そうか」
「そうです」
ヴァルトは少し考え、頷いた。
「了承した」
彼は自分の契約書にも同じ文を加えた。
字がきれいだ。
それが少し悔しい。
いや、悔しがるところではない。
署名の前に、私はもう一つ確認した。
「この婚約を公表すれば、王宮は騒ぎます」
「ああ」
「王太子殿下も、セレーネも、私の家族も」
「ああ」
「ヴァルト様に迷惑がかかります」
「慣れている」
「そういう問題では」
「リリアーナ」
彼は私の名を呼んだ。
声が静かだった。
「私は、迷惑を恐れてここに来たのではない」
言葉が止まる。
ヴァルトは続けた。
「君の鼻が必要だ。君の調香が、私の呪いに効いた。前王妃と君の祖母の死にも、私の呪いにも、王宮香油が関わっている可能性がある。なら、調べる」
「はい」
「そのために婚約という形が必要なら使う。誰が騒ごうと、それは問題ではない」
「……強いですね」
「違う」
ヴァルトは少しだけ目を伏せた。
「長く放置しすぎた。十年だ。私は自分の呪いを、戦場の疲れや体質だと片づけてきた。王宮を疑いながら、決定的な証拠がないと言って踏み込まなかった」
彼の声に、少し苦みが混じる。
「前王妃に恩があった。なのに、私は何もしなかった」
「ヴァルト様」
「だから今度は動く」
焦げた薔薇の匂いが少し濃くなった。
悔恨。
この人の呪いは、香油だけではないのかもしれない。
後悔もまた、根になっている。
私は白樹皮を小皿に置き、彼の方へそっと寄せた。
「十年前のあなたは、十八歳だったのでしょう」
「ああ」
「十八歳の若者に、王宮の陰謀を暴けというのは酷です」
「だが」
「それを言うなら、私もです。祖母の死を疑わなかった。前王妃の葬儀で嗅いだ匂いを忘れようとした。王宮で余計なことを言うなと言われて、黙った」
私は調香台に手を置いた。
「でも、今気づきました。だから今から動きます。それでは駄目ですか」
ヴァルトは私を見た。
灰色の瞳に、ほんの少し揺れがあった。
「君は、自分に厳しいのか甘いのか分からないな」
「今、私が言おうと思いました」
「似ているのか」
「少し、嫌ですね」
「そうか」
ヴァルトの口元がかすかに動く。
笑ったのだと分かるようになってきた自分が、少し怖い。
私はペンを持った。
署名欄に、自分の名を書く。
リリアーナ・エルヴェール。
この名を、久しぶりに自分のものとして書いた気がした。
次にヴァルトが署名する。
ヴァルト・レイゼン。
黒いインクが紙に沈む。
その瞬間、契約書から立ちのぼる香りが変わった。
警戒。
合理。
焦げた薔薇。
夜明け前の冷たい空気。
そして、細く澄んだ決意。
契約婚約が、成立した。
ミナが小さく拍手しようとして、慌てて手を止めた。
ネリは窓の外で「おめでとう、でいいのかい?」と言った。
「祝い事ではありません」
私が答えると、ネリは肩をすくめる。
「婚約なんだろ?」
「契約です」
「はいはい。契約おめでとう」
「変な言葉ですね」
「今の状況全部が変だよ」
否定できなかった。
ヴァルトは契約書を丁寧に折り畳み、懐にしまった。
「これで、君は私の婚約者だ」
胸が変なふうに跳ねた。
言い方。
言い方がよくない。
「仮契約上の、です」
「分かっている」
「本当に?」
「たぶん」
「そこは確信を持ってください」
ギルが小さく咳払いした。
「閣下、婚約者としての公表文についてですが」
私は嫌な予感がした。
「公表文?」
「王宮および主要貴族家へ、婚約成立を知らせる書状を送る必要があります」
そうだった。
契約書に署名しただけでは終わらない。
社交界へ知らされる。
王宮へ。
ユリウス殿下へ。
セレーネへ。
父と母へ。
胃のあたりが重くなる。
ヴァルトが私を見る。
「嫌か」
契約書の言葉を、早速使う機会が来た。
嫌なことを嫌と言ってよい。
私は少し考えた。
「嫌です」
「なら、やめるか」
「いいえ。必要ですから、やります。ただ、嫌ではあります」
ヴァルトは頷いた。
「分かった。嫌だが、必要だからやる」
「はい」
「覚えた」
何を学習しているのだろう、この人は。
でも、少しだけ気持ちが軽くなった。
嫌だと言っても、止めるかどうか相談できる。
それだけで、こんなに息がしやすいのか。
ギルが書状の文案を取り出した。
さすがに準備がいい。
そこには、簡潔な文章が書かれていた。
『ヴァルト・レイゼン辺境公爵は、リリアーナ・エルヴェール嬢との婚約をここに公表する』
私は目を通して、首を傾げた。
「これだけですか」
「正式にはこれで足ります」
「理由は?」
「不要です」
「社交界は勝手に理由を作りますよ」
「作らせればいい」
ヴァルトが言う。
確かに。
だが、勝手に作らせれば、とんでもない話になる。
私は少し考えた。
「せめて、私が夜明けの瓶の店主であることを入れてください」
ギルが眉を上げる。
「公表文に、店主と?」
「はい。私は、レイゼン公爵に拾われたわけではありません。店主として立った上で婚約したのだと、明記したいのです」
ヴァルトが頷く。
「入れろ」
「閣下」
「彼女の条件だ」
ギルは少し驚いたようにヴァルトを見て、それから小さく笑った。
「承知しました」
修正された公表文には、こう記された。
『ヴァルト・レイゼン辺境公爵は、夜明けの瓶店主リリアーナ・エルヴェール嬢との婚約をここに公表する』
夜明けの瓶店主。
その文字を見た瞬間、胸の奥に小さな灯りがともった。
公爵令嬢でもなく。
元王太子妃候補でもなく。
妹をいじめた悪女でもなく。
夜明けの瓶店主。
私は、その肩書きで社交界へ戻る。
「これでお願いします」
私は言った。
ヴァルトは短く頷く。
「分かった」
その日の午後、店の修理はさらに進んだ。
扉の傷は埋められ、窓板は新しくなり、看板はまっすぐ掛け直された。屋根も応急処置が施された。
私は何度も費用の確認をしたが、ヴァルトはそのたびに「契約上必要な環境整備だ」と言った。
便利な言葉だ。
でも今回は、契約書に基づいている。
私は渋々納得した。
ただし、店内の棚の配置だけは自分で決めた。
職人が「この棚は壁際へ」と言った時、ヴァルトも「その方が安全だ」と言った。
私は首を横に振った。
「こちらに置きます」
「なぜ」
「朝日が当たるからです。透明な瓶を並べるなら、光が入る方が綺麗です」
「安全性は」
「下に固定具をつけます」
「ならいい」
あっさり引いた。
少し驚く。
「反対しないのですか」
「君の店だ」
その一言で、私はしばらく黙った。
君の店。
そうだ。
私の店だ。
だから棚の位置くらい、自分で決める。
「……私は」
言葉がこぼれた。
「私の人生は、いつも誰かの都合で決められてきました」
ヴァルトがこちらを見る。
「ドレスの色も、夜会の日程も、婚約も、王妃教育も、妹を許すことも、怒らないことも。全部、私が決める前に決まっていました」
私は棚に手を置いた。
古くて、まだ少し埃っぽい棚。
けれど、ここに瓶を並べる。
私が選んだ香りを。
「だから、棚の位置くらい、自分で決めたいのです」
ヴァルトはしばらく黙っていた。
そして、職人へ言った。
「この棚を、店主の指定した位置へ。固定具は最良のものを使え」
「はい!」
私は思わずヴァルトを見た。
「ありがとうございます」
「礼を言われることではない」
「いえ。言わせてください」
「分かった」
彼は本当に、少しずつ学んでいる。
守るとは、すべてを代わりに決めることではないのだと。
夕暮れが近づく頃、夜明けの瓶は昨日とは別の店のようになっていた。
まだ小さい。
まだ古い。
床の傷も、壁の色むらも、棚の歪みも残っている。
でも、扉はきちんと閉まる。窓から光が入る。看板はまっすぐかかっている。調香台の上には、磨かれた小瓶が並んでいる。
ミナが感動したように言った。
「お店みたいです」
「一応、最初から店です」
「いえ、昨日までは……ええと」
「遺跡?」
「そこまでは言ってません!」
ネリが横から言う。
「私は言ったよ」
「でしょうね」
ヴァルトは店の入口に立ち、看板を見上げていた。
夜明けの瓶。
その文字が、夕日を受けて柔らかく光る。
私は隣に立った。
「ヴァルト様」
「何だ」
「今日の香をお渡しします」
黒い小瓶を差し出す。
昨日より少し配合を変えた。氷花石を減らし、白樹皮を増やし、眠りの底が冷えすぎないように蜂蜜花をほんのわずか加えた。
「昨夜より、夢が重くならないはずです」
「助かる」
「それは正しい褒め方です」
「そうか」
彼は小瓶を受け取った。
指先が少し触れた。
冷たく、熱い。
やはり呪いはまだ深い。
でも、昨日より少しだけ、焦げた薔薇の匂いの奥に別のものがあった。
期待。
本人はきっと認めないだろう。
でも、確かにあった。
「リリアーナ」
「はい」
「明日、王宮へ婚約の書状が届く」
「はい」
「君の家にも」
息が少し詰まる。
父。母。セレーネ。
彼らがこの知らせを見て、何を思うのか。
怒るだろうか。
呆れるだろうか。
それとも、利用価値が戻ったと考えるだろうか。
怖い。
でも、戻らない。
「分かっています」
「一人で受け止める必要はない」
私は彼を見た。
ヴァルトはまっすぐ前を見ている。
私ではなく、看板を。
「契約婚約だからな。騒ぎの半分は私のものだ」
半分。
妙な言い方だった。
けれど、胸が少し軽くなった。
「では、残り半分は私が受け止めます」
「ああ」
「ただし、私の分まで家を潰さないでください」
「努力する」
「そこは約束してください」
「……約束する」
少し間があった。
やはり、潰す選択肢が頭にあったのだろう。
私はため息をついた。
「本当に油断できない方ですね」
「よく言われる」
「誰にですか」
「ギルに」
入口のそばでギルが「言います」と即答した。
ミナが笑う。
ネリも笑う。
私も、笑ってしまった。
昨日まで、この店には埃と不安と蜘蛛しかなかった。
今は、笑い声がある。
それだけで、店は少しずつ店になる。
夕暮れの光の中、ヴァルトは黒い小瓶を懐にしまった。
そして帰る前に、いつもの低い声で言った。
「明日から、君は私の婚約者として扱われる」
「仮契約上の、です」
「分かっている」
「本当に?」
「たぶん」
「ヴァルト様」
「努力する」
私は呆れて、けれど笑った。
看板が風に揺れる。
今度は、ぎい、と嫌な音はしなかった。
夜明けの瓶は、まっすぐそこにあった。
私も、たぶん。
まだ少し震えながら、そこに立っていた。




