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第13話 王妃からの招待状

 契約婚約の知らせは、香水より早く王都に広がった。


 朝、レイゼン公爵家の使者が王宮と主要貴族家へ書状を運んだ。


 昼前には、東区の魚屋が知っていた。


 昼過ぎには、ネリのパン屋で焼きたてパンを買いに来た女たちが、私の店の方をちらちら見ながら「本当に?」「あの冷血公爵様と?」「王太子殿下に捨てられたばかりなのに?」と囁いた。


 夕方には、子どもたちが店の前で妙な歌を作っていた。


「冷血公爵、木箱に座るー」

「捨てられ令嬢、瓶を売るー」

「二人で王宮、燃やしに行くー」


「最後の歌詞はやめなさい」


 私は店の扉を開けて注意した。


 子どもたちは、ぱっと散った。


 逃げ足だけは一流だ。


 通りの向こうからネリが笑う。


「なかなかいい歌じゃないか」


「王宮を燃やす予定はありません」


「香りでは燃やしそうだけどね」


「それも困ります」


「しかし、まあ、ずいぶん派手にやったもんだねえ」


 ネリは焼きたての丸パンを紙袋に詰めながら、私の方を見た。


「婚約破棄された令嬢が、数日で冷血公爵の婚約者。王都の噂好きには、ごちそうだよ」


「胃もたれしてくださればいいのですが」


「無理だね。貴族の噂で腹を壊す連中は、そもそも噂を食わない」


 うまいことを言っているような、そうでもないような。


 私は店の中へ戻った。


 修理された棚には、まだ少ないながらも小瓶が並び始めている。ミナが朝から丁寧に瓶を磨いてくれたおかげで、夕方の光を受けたガラスは思ったより綺麗だった。


 眠りの香。

 落ち着く香。

 手紙に染み込ませる香。

 そして、ヴァルトの呪いを和らげるための試作香。


 店らしくなってきた。


 まだ、商品より謎と厄介事の方が多いけれど。


 調香台の上には、今日届いた手紙が三通置かれていた。


 一通目は、父から。


 二通目は、母から。


 三通目は、名前のない封筒。


 父の手紙は短かった。


『直ちに屋敷へ戻り、説明せよ。レイゼン公爵との婚約とは何事か。エルヴェール家の許可なく、このような重大な決定をするなど認められん』


 紙からは、怒りと焦りの匂いがした。


 それから、ほんの少しの恐怖。


 父は怒っている。


 けれど、それ以上に焦っている。


 王太子に捨てられた娘は、公爵家にとって恥だった。

 だが、その娘がレイゼン辺境公爵の婚約者になった途端、扱いは変わる。


 捨てるには惜しい駒になった。


 私は手紙を畳んだ。


「……家族って、香りの変わり方が早いのね」


 ミナが奥から顔を出す。


「リリアーナさん?」


「何でもないわ」


 母の手紙は、父より長かった。


 長く、柔らかく、読んでいるだけで肩が重くなる文章だった。


『リリアーナ、あなたが傷ついているのは分かっています。けれど、あまり意地を張らないで。レイゼン公爵様がどのようなおつもりか分かりませんが、あなたはまだ若いのです。あの方は怖い噂も多い方ですし、利用されているだけではないかと心配しています。どうか一度、母と話しましょう。セレーネもあなたのことを気にしています』


 心配の匂い。


 嘘ではない。


 それが厄介だった。


 母はたしかに心配している。


 でも、その心配の下には、母自身の不安が混じっている。


 王宮での立場。

 セレーネの婚約。

 社交界の目。

 そして、母が「扱いづらい」と思っていた娘が、自分の知らないところで力を持ち始めたことへの戸惑い。


 心配と支配は、時々よく似た香りを持つ。


 私は母の手紙も畳んだ。


 三通目の封筒には、差出人がなかった。


 紙は安物ではない。


 香りは、王宮の侍女が使う控えめな石鹸。封蝋はない。誰かが人目を避けて届けさせたものだ。


 中には短い文章があった。


『お姉様、本当にレイゼン公爵様と婚約なさったのですか。殿下はとても驚いていらっしゃいます。私は、お姉様が心配です。あの方は怖い方だと聞きます。お願いです。変な意地でご自分を傷つけないでください。

セレーネ』


 妹の字だ。


 丸く、可愛らしく、少し幼い。


 文章だけなら、姉を心配する妹の手紙だった。


 だが紙から漂う香りが違った。


 白百合。

 甘い薔薇。

 蜂蜜。

 そして、底に沈む焦げた砂糖のような匂い。


 黒薔薇。


 私は息を止めた。


 セレーネが、あの香水を使っている。


 昨日、彼女から薄く漂っていた焦げ臭さが、今は手紙にまで移るほど濃くなっている。


 誰が渡したのか。


 考えるまでもない。


 クラリモンド宰相夫人。


「リリアーナさん、顔色が悪いです」


 ミナがそっと近づいてきた。


 手には磨きかけの小瓶を持っている。


「大丈夫ですか?」


「大丈夫ではないけれど、倒れないわ」


「最近、そればっかりです」


「便利なの」


「便利な言葉は、あまり信用しない方がいいってネリさんが言ってました」


「ネリさん、余計な教育をしているわね」


 私はセレーネの手紙を調香台に置いた。


 ミナは無理に覗き込もうとはしなかった。


 そういうところが、彼女はとても賢い。


「妹からですか」


「ええ」


「心配しているんですか?」


「言葉では」


「香りでは?」


 私は少しだけミナを見る。


 彼女は慌てて首をすくめた。


「す、すみません。聞いていいことか分からなくて」


「いいの。あなたもだいぶ、この店の会話に慣れてきたのね」


「いいことなんでしょうか」


「たぶん」


 ミナは小さく笑った。


 私は手紙を軽く指で押さえた。


「香りでは、不安と嫉妬。それから、何かに煽られている匂いがする」


「煽られている?」


「火に油を注がれているような感じ。もともとあった感情が、香りで大きくなっている」


 ミナは眉を寄せた。


「それって……怖いですね」


「ええ。とても」


 セレーネは嘘をついた。私を陥れた。私の婚約者を奪った。


 その事実は消えない。


 でも、もし今、彼女の嫉妬や不安が香水で煽られているのなら。


 妹は加害者であり、同時に、王宮香油の被害者でもあるのかもしれない。


 面倒だ。


 人間は本当に面倒だ。


 完全な悪人でいてくれれば、憎むだけで済むのに。


 セレーネは、私を傷つけた妹で、同時に誰かに操られつつある十八歳の少女でもある。


 許す気はない。


 今はまだ。


 でも、放っておく気にもなれなかった。


 私は新しい紙を取り出し、手紙に残る香りを記録した。


『セレーネの手紙。白百合、甘い薔薇、蜂蜜、焦げた砂糖。底に黒薔薇。香水由来の可能性。嫉妬・不安の増幅』


 書き終えた時、店の扉が叩かれた。


 こん、こん。


 丁寧な音。


 しかし、その音だけで、私は嫌な予感がした。


 ミナが扉へ向かおうとする。


「待って」


 私は止めた。


 扉の向こうから漂う香り。


 王宮の紙。

 高級な封蝋。

 百合と白薔薇。

 冷たい蜜蝋。


 王宮からの使者だ。


 私は背筋を伸ばした。


「私が出ます」


 扉を開けると、王宮侍従が二人立っていた。


 白と金の制服。


 見慣れているはずなのに、今は少し遠い世界の服に見えた。


 一人は若い侍従。もう一人は年配の侍従で、表情をほとんど動かさない。二人とも、王宮の教育を受けた完璧な礼をした。


「夜明けの瓶店主、リリアーナ・エルヴェール様でいらっしゃいますね」


 その呼び方に、少しだけ胸が鳴った。


 夜明けの瓶店主。


 王宮侍従の口から、その肩書きが出た。


「はい。私です」


「王妃陛下より、招待状をお届けに上がりました」


 王妃。


 店内の空気が変わった。


 ミナが奥で固まっている。


 向かいのパン屋から、ネリがこちらを見ている気配がする。あの人の耳は本当に便利だ。


 年配の侍従が、銀の盆に乗せた封筒を差し出した。


 封蝋には、現王妃の紋章。


 白薔薇と王冠。


 私は受け取る前に、ほんの一瞬だけためらった。


 封筒から漂う香りが、前王妃の手紙と似ていた。


 白薔薇。

 蜜蝋。

 沈香。

 そして、奥に隠れた腐った花の匂い。


 焦げた薔薇とは少し違う。


 けれど、同じ箱にしまわれていた香りだ。


 王宮が、こちらを呼んでいる。


 侍従は表情を変えずに言った。


「三日後、王妃陛下主催の慈善夜会がございます。レイゼン辺境公爵閣下のご婚約者として、リリアーナ様にもぜひご出席いただきたいとの仰せです」


 慈善夜会。


 名目としては、戦災孤児や病院への寄付を募るための夜会だ。王妃主催で年に数度開かれる。


 そこには王族、貴族、王宮関係者が集まる。


 つまり。


 ユリウス殿下も、セレーネも、クラリモンド夫人もいる可能性が高い。


 私は封筒を受け取った。


「確かに頂戴いたしました」


「ご返答は、明日正午までに」


「分かりました」


 侍従たちは礼をして去った。


 私は扉を閉め、しばらくその場に立っていた。


 封筒が重い。


 紙一枚のはずなのに、まるで石のようだった。


 ミナが小さく言う。


「王妃様から、ですか」


「ええ」


「行くんですか?」


 私は答えなかった。


 封筒を調香台に置き、封を切る。


 中の招待状は美しかった。


 王宮の書記官による流麗な文字。白薔薇を模した透かし模様。端に金の装飾。


 文章は丁寧だった。


『レイゼン辺境公爵閣下ならびにご婚約者リリアーナ・エルヴェール嬢を、王妃主催慈善夜会へご招待申し上げます』


 ご婚約者。


 目が、その文字に止まる。


 王宮は、認めたのだ。


 少なくとも表向きは。


 王太子に捨てられた悪女ではなく、レイゼン公爵の婚約者として、私を招待した。


 だが、それは好意ではない。


 招待状から漂う香りが教えている。


 これは、花束ではなく網だ。


 美しい糸で編まれた、王宮の網。


「リリアーナ」


 低い声が聞こえた。


 扉の前に、ヴァルトが立っていた。


 いつ来たのだろう。


 いや、店の周囲には彼の部下がいる。王宮使者の来訪を聞いて、すぐ来たのかもしれない。


 黒い外套に、冷たい雨の匂い。


 今日は少し曇っている。王宮からの招待状が届いた日にふさわしい、嫌な空だった。


「ヴァルト様」


「王宮からか」


「はい」


 私は招待状を差し出した。


 彼は受け取り、目を通す。


 表情は変わらない。


 ただ、焦げた薔薇の匂いがわずかに濃くなる。


「王妃主催の慈善夜会か」


「三日後です」


「早いな」


「ええ」


「行く必要はない」


 即答だった。


 私は少し瞬きした。


「契約婚約は、王宮へ入るためのものでは?」


「準備不足だ。王妃側が先に場を用意した。こちらを試す気だろう」


「でしょうね」


「罠かもしれない」


「罠でしょうね」


「なら行くな」


 彼の声は、先ほどより少し硬かった。


 命令ではない。


 けれど、強い拒絶。


 私はヴァルトを見る。


「怖いのですか?」


 ギルが、入口の外で息を呑んだ気配がした。


 ヴァルトは怒らなかった。


「怖い」


 短く言った。


 その正直さに、私の方が少し戸惑う。


「君が傷つくことが」


 言葉が続いて、胸が止まりかけた。


 ヴァルトは、自分でも言いすぎたと思ったのか、視線をわずかに外した。


「王宮は、君に優しくない」


「知っています」


「前回、君はあそこで婚約破棄された」


「よく覚えています」


「また行く必要はない」


 彼の声には、庇護の匂いがあった。


 朝、店の前に兵を六人並べた時と同じ。守ろうとしている。悪意はない。


 でも、私は首を横に振った。


「行きます」


「リリアーナ」


「怖いです」


 先に言った。


 自分で。


「怖いです。王宮へ戻るのは。あの夜会場の空気も、扇の陰の笑い声も、ユリウス殿下の顔も、セレーネの涙も。全部、思い出したくありません」


 指先が少し震える。


 ミナが心配そうにこちらを見ている。


 でも、私は言い続けた。


「でも、怖いまま逃げたら、私は一生、あの夜会場に置いていかれたままになります」


 王太子に婚約破棄された夜。


 笑われた私。

 信じてもらえなかった私。

 宰相夫人の焦げた薔薇の囁きを聞いた私。


 あの夜の私を、あそこに置き去りにしたままではいられない。


「それに、招待状の香りが前王妃の手紙と似ています」


 ヴァルトの目が鋭くなった。


「本当か」


「はい。白薔薇、蜜蝋、沈香。その奥に、腐った花の匂い。焦げた薔薇ほど強くはありませんが、王宮香油の系統です」


「王妃自身が関わっている可能性は」


「あります。けれど、操られている可能性もあります」


 セレーネの手紙が頭をよぎる。


 王妃も、香油の影響を受けているのかもしれない。


 あるいは、知っていて使っているのかもしれない。


 それを確かめるには、近づくしかない。


「ヴァルト様」


「何だ」


「私は、招待状を受けます」


「……」


「ただし、一人では行きません」


 ヴァルトは静かに私を見た。


 私は真っ直ぐ返す。


「契約書に書きましたよね。隣に立つと」


「君が書いたのは冗談だと言っていた」


「今、本気にしました」


 ヴァルトの口元がわずかに動いた。


 笑ったのか、呆れたのか。


 たぶん両方。


「都合がいいな」


「ええ。私も少しずつ学んでいます」


「誰に」


「主にネリさんに」


 向かいからネリが「いい教育だろ」と声を飛ばしてきた。


 聞こえていたのか。


 やはり便利な耳だ。


 ヴァルトは外へ一度視線を向け、また私を見た。


「分かった」


 彼は言った。


「では、私が隣に立つ」


 その言葉は、二度目だった。


 一度目より、胸に深く入った。


 私は招待状を見下ろした。


 王妃の封蝋。


 白薔薇。


 腐った花。


 王宮は、私を呼んでいる。


 ならば、行く。


 もう、無能令嬢としてではない。


 王太子に捨てられた女としてでもない。


 夜明けの瓶の店主として。

 レイゼン公爵の契約婚約者として。

 祖母と前王妃が嗅ぎ残した香りを追う者として。


「返事を書きます」


 私はペンを取った。


 ミナが慌てて紙を用意する。


 ヴァルトは調香台の向こうに立ち、静かに見守っていた。


 返答は短くした。


『王妃陛下の慈悲深きお招き、謹んでお受けいたします。

レイゼン辺境公爵婚約者

夜明けの瓶店主

リリアーナ・エルヴェール』


 書き終えた瞬間、手が少し震えた。


 けれど、文字は乱れていなかった。


 ヴァルトがその文面を見る。


「夜明けの瓶店主を入れたのか」


「はい」


「よいと思う」


「褒め言葉ですか」


「かなり」


 私は少し笑った。


 その時、扉の外で風が吹き、看板が静かに揺れた。


 まっすぐ直された看板は、もう嫌な音を立てない。


 夜明けの瓶。


 その文字の向こうに、遠く王宮の白い塔が見える。


 美しく、冷たく、何も腐っていないような顔をしている。


 でも私は知っている。


 香水をかけすぎた場所ほど、奥に腐臭を隠している。


 そして三日後、私はそこへ戻る。


 今度は、嗅ぎ分けるために。


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