第14話 元婚約者は、もう遅い
三日後。
王宮へ向かう馬車の中で、私はずっと自分の手袋を見ていた。
白ではない。
淡い灰青色の手袋だ。
夜明け前の空に似た色。ヴァルトが「白は王宮の色に寄りすぎる」と言い、ネリが「黒は喧嘩を売りすぎだね」と言い、ミナが「リリアーナさんには朝の色が似合います」と言ったので、結局この色になった。
なぜ衣装選びにパン屋の女将と元下働き少女と冷血公爵が参加したのか、今でもよく分からない。
ただ、悪くない色だとは思う。
ドレスも同じ灰青を基調にしていた。華美ではないが、布は上質で、動くたびに銀糸が控えめに光る。胸元には小さな夜明け色の石を一つだけ。レイゼン公爵家から贈られた宝石はもっと大きいものがいくつも用意されたが、私はこれだけを選んだ。
大きすぎる宝石は、鎧に見える。
今日、必要なのは鎧ではない。
呼吸できる服だ。
「苦しいか」
向かいに座るヴァルトが言った。
彼は黒に近い濃紺の礼装を着ている。いつもの軍服めいた装いよりは社交向けだが、それでもどこか戦場の匂いが残っていた。胸元には銀狼の徽章。手袋は黒。外套も黒。
王宮の夜会に出る貴族というより、夜会場を制圧しに行く人に見える。
「ドレスは苦しくありません」
「なら、何が苦しい」
この人は、そういう聞き方をする。
遠回しに心配するのではなく、真っ直ぐに刺してくる。
私は窓の外へ目を向けた。
王宮の白い塔が近づいている。
あの夜、婚約破棄をされた場所。
会場中から笑われた場所。
父母が目を逸らし、妹が泣き、王太子が私を無能と呼んだ場所。
そこへ戻る。
今度は、別の婚約者の隣で。
「記憶です」
私は言った。
「王宮の匂いが近づくと、少し、体が先に思い出します」
「降りてもいい」
「降りません」
「まだ門の前だ」
「降りません」
ヴァルトは黙った。
馬車の車輪が石畳を鳴らす。
しばらくして、彼は低く言った。
「手を」
「はい?」
「震えている」
言われて初めて気づいた。
膝の上で重ねた手が、わずかに震えている。
私は慌てて指を握り込んだ。
「大丈夫です」
「それは、倒れないという意味か」
私は思わず彼を見た。
どうやら、私の便利な言葉の使い方を覚えられてしまったらしい。
「……はい」
「では、大丈夫ではないな」
「だんだん厳しくなっていませんか」
「学んだ」
「余計なことまで」
ヴァルトは少しだけ身を乗り出し、手袋をはめた右手を差し出した。
「握るか」
その言い方があまりにも実務的で、私は一瞬、緊張がほどけた。
「婚約者らしく、ですか?」
「それもある」
「他には?」
「君が少し楽になるなら」
言葉が詰まった。
こういうところだ。
この人は、飾った言葉を知らない。甘い囁きも、社交界向けの優美な口説き文句も言わない。
でも、必要な時に、必要なものを差し出す。
私は少し迷った後、その手を取った。
ヴァルトの手は冷たかった。
けれど、焦げた薔薇の匂いは今日は少し薄い。出発前に渡した香を使っているからだろう。白樹皮と氷花石、その奥に、まだ完全には消えない黒い薔薇。
「冷たいですね」
「よく言われる」
「手の話です」
「それも、たまに言われる」
私は小さく笑った。
馬車が王宮の門をくぐる。
胸が一度、強く鳴った。
けれど、ヴァルトの手を握っているからか、呼吸は途切れなかった。
王宮の玄関前には、すでに多くの馬車が並んでいた。
宝石をまとった貴婦人たち。色鮮やかな礼装の紳士たち。侍従たちの白と金。花の香水。高価な酒。磨かれた革靴。馬の汗。社交界特有の、甘くて重い空気。
私は馬車を降りた瞬間、少しだけ目眩を覚えた。
戻ってきた。
あの場所に。
ただし、今日は一人ではない。
ヴァルトが隣に立つ。
それだけで周囲の空気が変わった。
誰もがこちらを見る。
あからさまに振り返る者。扇の陰で囁く者。目を逸らす者。興味と好奇と軽蔑と恐怖が、香水のように混ざって漂う。
「あれが……」
「リリアーナ様?」
「本当にレイゼン公爵様と」
「王太子殿下に捨てられたばかりでは」
「夜明けの瓶の店主ですって」
「公爵様が香水店に通っているという噂は本当だったのね」
囁きが肌に触れる。
前回と同じ。
でも、少し違う。
あの夜は、囁きが私を刺した。
今日は、刺さる前にヴァルトの気配がそれを遮る。
彼は何も言わない。
ただ歩くだけだ。
なのに、周囲の声が半歩下がる。
冷血公爵という噂は、こういう時だけ便利だった。
「圧をかけない約束では?」
私は小声で言った。
「歩いているだけだ」
「歩き方に圧があります」
「難しいな」
「努力してください」
「している」
その真面目な返事に、少しだけ肩の力が抜けた。
大広間の扉が開く。
眩しい光があふれた。
音楽。
笑い声。
グラスの触れる音。
花の香り。
蜜蝋の燭台。
王宮の床を磨く油。
そして、奥に隠れた、腐った花の匂い。
私は一歩、足を踏み入れた。
大広間が、少し静かになった。
視線が集まる。
あの夜と同じように。
違うのは、今日の私がうつむかなかったことだ。
侍従が高らかに告げる。
「レイゼン辺境公爵、ヴァルト・レイゼン閣下。ならびにご婚約者、夜明けの瓶店主リリアーナ・エルヴェール様、ご入場です」
夜明けの瓶店主。
王宮の大広間に、その言葉が響いた。
ざわめきが走る。
公爵令嬢ではなく。
元王太子婚約者ではなく。
悪女でもなく。
夜明けの瓶店主。
私は胸を張った。
震えはまだある。
でも、立っている。
会場の奥に、ユリウス殿下がいた。
金色の髪。青い礼装。王太子として完璧に整えられた姿。
その隣に、セレーネ。
白に近い薄桃色のドレス。繊細なレース。可憐に結い上げられた髪。彼女は今日も、誰かに守られるための美しさを身にまとっていた。
殿下がこちらに気づく。
目が合った。
彼の顔から、少し血の気が引く。
驚き。
焦り。
それから、妙な苛立ち。
セレーネもこちらを見た。
その瞬間、彼女の手がユリウスの袖を掴む。
昔からの癖。
不安になると、誰かの袖を掴む。
私はその仕草を見ても、もう胸が裂けるような痛みは覚えなかった。
代わりに、鼻の奥が焼けた。
香水。
セレーネから漂う香りが、明らかに変わっている。
白百合ではない。
甘い薔薇。蜂蜜。白檀。焦げた砂糖。
そして、底に沈む黒い薔薇。
ヴァルトの呪いと同じ系統。
ただし、彼のように体内へ深く根を張っているわけではない。まだ外からまとわりついている。けれど、濃い。前に手紙から嗅いだ時より、ずっと。
セレーネ。
あなた、何をつけているの。
問いかけたい衝動を抑えた時、ユリウスがこちらへ歩いてきた。
会場の視線がさらに集まる。
避けられない。
ヴァルトがほんのわずかに前へ出ようとした。
私は小さく首を横に振った。
「私が話します」
「無理なら」
「嫌なら言います」
「分かった」
その一言が、今は支えになった。
ユリウスは私の前で足を止めた。
数日前まで婚約者だった人。
私は彼の隣に立つための礼法を、何年も学んできた。彼の好む茶の温度も、舞踏会で疲れた時に出る癖も、外交官との会話で苛立つ瞬間も知っていた。
けれど今、彼は少し遠い。
昔読んだ本の登場人物みたいに。
「リリアーナ」
ユリウスが私の名を呼んだ。
あの夜とは違う声。
怒りではなく、戸惑いを含んだ声。
「殿下」
私は礼をした。
深すぎず、浅すぎず。
元婚約者ではなく、臣下として。
そして、レイゼン公爵の婚約者として。
ユリウスの目がわずかに揺れた。
「なぜ、君がレイゼン公爵の隣にいる」
会場の囁きが、ぴたりと止まった。
その問いは、王太子としては不用意だった。
けれど、ユリウスという人間としては、いかにも彼らしい。
自分が捨てたものが、別の場所で立っている理由が分からない。
私は静かに答えた。
「招待状をいただきましたので」
「そういう意味ではない」
「では、どういう意味でしょう」
ユリウスの唇が少し歪む。
「私への当てつけか」
ざわり。
空気が動いた。
セレーネがユリウスの袖を強く握る。
ヴァルトの気配が冷える。
私は胸の奥で、何かが静かにほどけるのを感じた。
当てつけ。
そう思うのか。
私が、自分の人生を少しでも動かせば、それはすべてあなたへの当てつけになるのか。
何だ。
私は、まだ殿下の物語の脇役だと思われていたのだ。
「殿下」
私は微笑んだ。
王宮で習った笑みではない。
夜明けの瓶で、ネリに「笑うならもっと腹に力入れな」と言われた後に覚えた笑みだ。
「私はもう、あなたに当てつけるほど暇ではありません」
一瞬、完全な沈黙が落ちた。
その後、どこかで扇の陰から小さな笑い声が漏れた。
一つ。
二つ。
波紋のように広がる。
ユリウスの顔が赤くなる。
「リリアーナ」
「失礼。少し言い方が過ぎました」
私は軽く頭を下げた。
「ただ、事実です。私は今、店の営業と調香と、ヴァルト様からの依頼で忙しいのです」
「依頼?」
ユリウスの目がヴァルトへ向く。
「レイゼン公爵。これはどういうことだ」
ヴァルトは低い声で答えた。
「婚約した」
「それは聞いた。だが、なぜ彼女を」
「必要だからだ」
短い。
あまりにも短い。
ユリウスの眉がひくりと動く。
「必要?」
「ああ」
「リリアーナを?」
「ああ」
会場がまたざわついた。
私は少しだけ困った。
ヴァルト様、その言い方は誤解を招きます。
いや、婚約者としては誤解ではないのか。
でも、そういう意味ではない。
たぶん。
「ヴァルト様」
小声で呼ぶ。
「何だ」
「言葉が少なすぎます」
「そうか」
「はい」
彼は少し考えた。
そして、ユリウスに向き直る。
「彼女の鼻と調香は、王宮医師より役に立つ」
私は頭を抱えたくなった。
補足の方向が違う。
しかし、会場は別の意味で大きくざわめいた。
王宮医師より役に立つ。
冷血公爵が、婚約者を公然とそう評したのだ。
ユリウスの顔に、複雑な色が浮かぶ。
「君は……本当に、そんな力があったのか」
その言葉は、私に向けられた。
あったのか。
今さら。
私は彼を見た。
「殿下が、匂いを嗅ぐことしかできない無能と呼んだものです」
ユリウスの顔がこわばる。
言い返せない。
言い返せるはずがない。
だって、それは彼自身の言葉だから。
セレーネが慌てたように口を開いた。
「お姉様、そんな言い方……殿下は、お姉様を傷つけようとなさったわけでは」
甘い薔薇の香りが濃くなる。
彼女が動揺すると、香水の匂いまで熱を持つようだ。
私はセレーネを見る。
妹は美しかった。
でも、目の奥が少しぼやけている。
泣きそうな顔。守られたい顔。
その下に、熱を持った嫉妬。
「セレーネ」
私が名を呼ぶと、彼女の肩が震えた。
「な、何でしょう、お姉様」
「その香水は、誰から?」
セレーネの瞳が揺れた。
ユリウスが怪訝そうに彼女を見る。
「香水?」
「お姉様には関係ありませんわ」
セレーネは笑った。
可愛らしく。
でも、その笑みは少し引きつっている。
「私がどんな香水をつけようと、もうお姉様に注意される筋合いはありませんもの」
「そうね。あなたがただ楽しむためにつけているなら、私には関係ないわ」
「なら」
「でも、その香りは危険よ」
セレーネの顔色が変わった。
会場がまたざわつく。
ユリウスが一歩前に出る。
「危険とは何だ。セレーネをまた責めるつもりか」
「責めているのではありません」
「では何だ」
「確認しています」
「香りで、また人を疑うのか」
その言葉に、胸の奥が少しだけ痛んだ。
昔と同じ。
私が匂いを口にすると、誰かを責めていることになる。
誰かを疑っていることになる。
でも、もう黙らない。
「殿下」
私は静かに言った。
「匂いは、疑いではありません。手がかりです」
ユリウスは黙った。
ヴァルトが低く言う。
「彼女の鼻を軽んじるな」
声は大きくない。
けれど、大広間の空気が冷えた。
ユリウスの背筋がわずかに伸びる。
王太子であっても、レイゼン辺境公爵を無視はできない。
「……リリアーナ」
セレーネが震える声で言った。
「お姉様は、まだ私を悪者にしたいの?」
その言葉には、以前よりも強い棘があった。
甘い香りの下で、黒薔薇が熱を持つ。
「私が殿下の隣にいるのが、そんなに許せないの? だから今度は、私の香水にまで文句をつけるの?」
「セレーネ」
「お姉様はいつもそう。私の涙も、言葉も、何も信じてくれない。匂いが違う、嘘の匂いがするって。私、ずっと怖かった。お姉様の前では、息もできなかった」
周囲に、同情の匂いが広がる。
妹の言葉はうまい。
そして、完全な嘘ではない。
それが厄介だ。
セレーネは本当に、私を怖がっていたのだろう。
でも、その恐怖を使って、私を傷つけた。
「あなたが怖かったことと、私に濡れ衣を着せたことは、別の話よ」
私は言った。
セレーネの唇が震える。
「ひどい」
「ええ。少しひどいわ」
「どうしてそんなに平気な顔をしていられるの」
平気ではない。
でも、ここでそれを説明しても仕方ない。
私は妹の手首を見た。
薄桃色の手袋の隙間から、香水の匂いが強く漂っている。
手首に一滴。耳の後ろにも、おそらく。
誰かがそう教えたのだろう。
セレーネ自身に、この香りを扱う知識はない。
つまり、渡した者がいる。
私は会場を見渡した。
いた。
少し離れた場所に、クラリモンド宰相夫人。
白薔薇色のドレス。黒真珠の扇。穏やかな微笑み。
彼女は私と目が合うと、扇の陰でほんの少し笑った。
その香りは、相変わらず上品な白薔薇。
そして奥底に、冷えた蜜蝋と焦げた花。
私は理解した。
これは、セレーネの嫉妬を煽る香水だ。
王太子を縛るものでもあるかもしれない。
殿下の袖口からも、薄く同じ香りがする。
セレーネが近くにいる時間が長いせいだろうか。
それとも、彼にも直接触れさせているのか。
危険だ。
とても。
「リリアーナ」
ヴァルトが小声で言った。
私だけに聞こえる声。
「匂いが変わったか」
「はい」
「何だ」
「セレーネの香水が、あなたの呪いと同じ系統です」
ヴァルトの目が鋭くなる。
「確かか」
「完全には。でも、黒薔薇がある」
彼はクラリモンド夫人の方へ視線を向けた。
すぐに気づいたらしい。
「扇の女か」
「はい」
その時、会場の奥で侍従が声を上げた。
「王妃陛下、ご入場です」
全員が一斉に姿勢を正す。
会話は中断された。
扉の奥から、現王妃が現れる。
白金のドレス。穏やかな微笑み。周囲に漂う、清らかな白薔薇の香り。
しかし、その奥に。
私は招待状と同じ腐った花の匂いを嗅いだ。
王妃もまた、この香りの中にいる。
敵なのか。
操られているのか。
それとも、見ないふりをしているのか。
まだ分からない。
王妃は会場を見渡し、私とヴァルトの前で目を留めた。
微笑みが深くなる。
「レイゼン公爵。よく来てくださいました」
そして、私を見る。
「リリアーナ様。お久しぶりですね」
その声は優しい。
優しすぎる。
私は礼をした。
「お招きいただき、光栄にございます。王妃陛下」
顔を上げる。
王妃の香りが、ゆっくりとこちらへ流れてくる。
白薔薇。蜜蝋。沈香。
その下に、冷たい薬。
そして。
焦げる前の、黒い蕾の匂い。
まだ咲いていない呪いの匂い。
私は手袋の中で指を握った。
王宮はやはり、香水をかけすぎている。
そして今夜、その奥で何かが動いている。
私の婚約破棄は、終わった過去ではなかった。
ここからが、本当の王宮の嘘の始まりだ。




