第15話 王妃の微笑みは冷たい
王妃陛下は、美しい人だった。
昔から、そう言われている。
私も幼い頃から何度も聞いた。
白薔薇のような王妃。
月光のように静かな王妃。
微笑むだけで場の空気を清める方。
確かに、目の前に立つ王妃は美しかった。
白金の髪は緩やかに結い上げられ、首元には真珠と白い宝石が飾られている。ドレスは雪のような白。銀糸の刺繍が燭台の光を受けて、まるで薄氷の上を光が滑っているように見えた。
だが、香りは美しさほど清らかではなかった。
白薔薇。
蜜蝋。
沈香。
冷たい薬草。
その奥に、濡れた石棺のような匂い。
生きている人の香りなのに、温度がない。
それが、ひどく気になった。
「お久しぶりですね、リリアーナ様」
王妃は穏やかに言った。
声は柔らかい。
けれど、その柔らかさは焼きたてのパンのような温かさではない。絹の布で刃物を包んだような柔らかさだった。
「王妃陛下には、ご機嫌麗しく」
私は礼をした。
王妃教育で叩き込まれた所作が、体に残っている。
腹立たしいほど、自然に。
王妃は私を見つめ、微笑みを深くした。
「まあ。以前より、ずいぶん落ち着かれましたね」
以前より。
その言葉に、会場の空気が少し動いた。
以前。
つまり、私が王太子ユリウス殿下の婚約者だった頃。
王妃陛下から見れば、私はかつて未来の嫁候補だった。今は、婚約破棄されたのち、別の公爵の婚約者となって戻ってきた女だ。
この場にいる誰もが、それを分かっている。
そして皆、その話題に触れたがっている。
王妃は、あえて触れた。
優しい顔で。
「落ち着かざるを得ない日々が続きましたので」
私は答えた。
扇の陰で、何人かが息を呑む。
王妃の目がほんの少し細くなった。
「お辛かったでしょう」
「はい」
私は正直に答えた。
王妃の微笑みが、わずかに固まる。
たぶん、私はここで「いいえ、すべて私の未熟ゆえでございます」と言うべきだったのだろう。あるいは「ご心配には及びません」と。
だが、辛かったものは辛かった。
契約書に書いた。
嫌なことは嫌と言ってよい。
傷ついたことは、なかったことにしなくていい。
私は王妃を見た。
「ですが、今は自分の店がございます」
「夜明けの瓶、でしたね」
「はい」
「王都で噂になっていますよ。眠れない者を眠らせ、嘘を香りでほどく店だとか」
「噂はいつも、少しだけ香料を足されます」
「まあ。面白いことをおっしゃるのね」
王妃は笑った。
上品で、軽やかで、会場の者たちが安心する笑み。
だが、その笑みからは匂いがほとんどしなかった。
楽しい時、人はほんの少し体温が上がる。笑いには空気を緩める匂いがある。
王妃の笑いには、それがない。
まるで、笑うという所作だけを正確になぞっているようだった。
ヴァルトが隣で静かに立っている。
彼は王妃に礼をしただけで、余計な言葉を発しない。
それでも、彼の存在感は強い。
周囲の貴族たちは王妃と私の会話を聞きながらも、ちらちらと彼を見ていた。
冷血公爵が、どの瞬間に怒るのかを気にしているのだろう。
失礼な話だ。
まあ、私も少しだけ気にしている。
王妃はヴァルトへ視線を移した。
「レイゼン公爵も、お元気そうで何よりです」
「陛下にはご心配をおかけしました」
ヴァルトは短く返す。
王妃は目を細めた。
「王宮へお顔を出されるのは久しぶりですね。北方はそれほどお忙しいのかしら」
「北方は、王都より嘘が少ないので」
私は危うく咳き込みそうになった。
会場が凍る。
ギルが遠くで額を押さえているのが見えた気がした。
王妃は、少しだけ間を置いてから笑った。
「相変わらず、率直なお方」
「よく言われます」
「でしょうね」
王妃の声は穏やかだった。
だが、香りにわずかな金属が混じった。
苛立ち。
ほんの少し。
すぐに白薔薇で覆われたが、確かにあった。
この人は、完全に何も感じていないわけではない。
香りが鈍いだけだ。
あるいは、鈍らされている。
「リリアーナ様」
王妃は再び私を見た。
「よろしければ、少しお話ししませんか。あなたの香水店のこと、とても興味がありますの」
断れるはずがない。
王妃陛下からの誘いだ。
だが、ヴァルトが一歩だけ近づいた。
「私も同席します」
王妃の微笑みが止まる。
「まあ、公爵。女性同士の話にまで?」
「私は彼女の婚約者です」
「仮契約上の」と、思わず訂正しそうになった。
だが、今は黙った。
ヴァルトの声には、圧があった。
店の前に兵を並べた時ほどではないが、王宮の空気を半歩押し返すには十分な圧。
王妃はしばらく彼を見つめた後、優しく笑った。
「ええ、もちろん。仲のよろしいこと」
仲がよい。
その言葉に周囲が反応する。
私は手袋の中で指を握った。
これは契約。
調査のための婚約。
そう分かっているのに、王妃にそう言われると、なぜか胸の奥が少し落ち着かなくなる。
ヴァルトは平然としていた。
あるいは、平然としているように見えた。
王妃に案内され、私たちは広間の脇に設えられた小さな談話席へ移動した。
白い花で飾られた一角。
銀の茶器。
薄い菓子。
王妃の側近たち。
そして少し離れた場所に、クラリモンド宰相夫人がいた。
黒真珠の扇を手に、こちらを見ている。
セレーネはユリウスの隣に戻っていた。
だが、彼女の視線は何度もこちらへ向かう。手首の香水が、彼女の動揺に合わせて熱を持つように香っていた。
王妃は席に着き、私にも椅子を勧めた。
ヴァルトは座らない。
私の斜め後ろに立った。
護衛か。
婚約者か。
それとも、壁か。
少なくとも、王妃は面白くなさそうだった。
「リリアーナ様。夜明けの瓶は、あなたのお祖母様のお店だったとか」
「はい。祖母セラフィナが若い頃に営んでいた店です」
「懐かしい名ね」
王妃は茶器へ視線を落とした。
「セラフィナ様の香りは、王宮でも評判でした。少し癖のある方でしたけれど」
少し。
たぶん、かなり癖のある人だった。
だが、王妃の前なので言わなかった。
「祖母をご存じだったのですか」
「ええ。直接親しくお話ししたことは少なかったけれど、前王妃様が時折、彼女の香りをお使いでした」
前王妃。
やはり。
私は表情を変えないようにした。
「前王妃陛下が」
「ええ。あの方は、王宮の定めた香りより、少し野の香りが混じるものを好まれましたから」
その言い方には、懐かしさがあった。
けれど、ほんの少しの苦みも。
王妃と前王妃。
今の王妃は、先王妃の後にその座へ上がった人だ。
王宮でその話題は繊細だ。誰もが口にする時、白い手袋をはめるように慎重になる。
「野の香りは、お嫌いですか」
私は尋ねた。
王妃は少し目を丸くし、それから微笑んだ。
「嫌いではありません。ただ、王宮には王宮にふさわしい香りがあります」
「王宮にふさわしい香り」
「ええ。清らかで、揺るぎなく、誰もが安心する香り」
私は茶器の湯気に混じる白薔薇を嗅いだ。
清らか。
揺るぎない。
誰もが安心する。
そのために、誰かの怒りや悲しみや疑いを鈍らせているのだとしたら。
それは、清らかと呼べるのだろうか。
「リリアーナ様」
王妃はゆっくりと言った。
「あなたは、才能をお持ちのようですね」
「才能と言えるほどのものかは」
「謙遜なさらないで。レイゼン公爵の不調にも、何か手を貸しているとか」
私はヴァルトを見そうになり、堪えた。
どこまで知られている?
夜明けの瓶へ彼が通っていること。香を作っていること。呪いのことは、さすがに知られていないはず。
いや、王宮は嗅ぎつけているかもしれない。
私の鼻とは違うやり方で。
「眠りの香をいくつか試していただいております」
私は答えた。
嘘ではない。
全部でもない。
王妃は満足そうに頷いた。
「素晴らしいことです。人を癒やす香り。心を穏やかにする香り。王宮にも、そうした力が必要です」
嫌な流れだ。
ヴァルトがわずかに動いた気配がした。
私もそれを感じながら、黙って続きを待った。
「リリアーナ様。もし望むなら、王宮に戻る道を用意できますよ」
王妃は優しい声で言った。
「戻る、とは」
「王宮専属調香師として」
周囲の側近たちが、わずかに反応した。
王宮専属調香師。
それは名誉ある立場だ。
王族や高位貴族の香りを扱い、儀式用香油や礼拝香の管理にも関わることができる。表向きには、香りを扱う者として最高位の一つ。
だが、同時に王宮の管理下に入るということでもある。
「あなたの店は素敵でしょう。けれど、王都の端では不便も多いはず。落書きや嫌がらせもあったと聞いています」
王妃は私を気遣うように眉を寄せた。
「王宮であれば、安全です。必要な香料も、道具も、人員も揃えられます。あなたの力を、正しく使う場があるのです」
甘い。
とても甘い誘いだった。
安全。
香料。
道具。
人員。
正しく使う場。
数日前の私なら、喉から手が出るほど欲しかったかもしれない。
王宮に認められる。
無能ではなかったと証明される。
父母も、社交界も、私を見る目を変えるだろう。
だが。
香りが違う。
王妃の言葉からは、花の香りがする。白薔薇と蜜蝋の、整えられた香り。
その下に、閉じた窓の匂いがある。
外へ出られない部屋。
誰かに鍵を管理される場所。
王宮専属調香師という名の、美しい檻。
「ありがたいお申し出でございます」
私は言った。
王妃の微笑みが少し深くなる。
「では」
「ですが、私は今、夜明けの瓶の店主です」
笑みが止まった。
ほんの一瞬。
でも、確かに。
「王宮にお仕えするには、まだ店を開いたばかりで経験が足りません」
「経験なら、王宮で積めばよいのですよ」
「恐れながら」
私は顔を上げた。
「私の店には、王宮まで来られない方々がいらっしゃいます。眠れない下働きの少女、夫婦の嘘に苦しむ方、誰にも相談できない悩みを抱えた方。そうした人たちの香りを、私は店で受け止めたいのです」
王妃は私を見ていた。
瞳は穏やか。
でも、香りにまた金属が混じる。
「あなたは、王宮より下町を選ぶのですか」
「王宮を選ばない、というより」
私は少し考えた。
言葉を間違えてはいけない。
ここは王宮だ。
相手は王妃陛下。
だが、怯えて曲げる必要もない。
「私は、私の店を選びます」
沈黙。
会場の音楽が遠く聞こえる。
王妃の側近たちが、かすかに息を呑む。
ヴァルトの気配が、私の背後で静かに強くなった。
王妃はしばらく私を見つめた後、ふっと笑った。
「強くなられたのね」
「強くなったかは分かりません。ただ、店主になりました」
「店主、ね」
王妃は茶器を手に取った。
白い指。完璧な所作。
けれど、茶を飲む動きがほんの少しだけ遅い。
考えている。
あるいは、苛立ちを飲み込んでいる。
「では、今夜は楽しんでいってくださいな。あなたの店の香りの話も、また聞かせて」
「はい」
王妃との対話は終わった。
表向きには和やかに。
だが、私には分かる。
彼女は私を囲い込もうとした。
そして失敗した。
その事実は、王妃自身だけでなく、周囲の側近やクラリモンド夫人にも伝わったはずだ。
席を辞した後、ヴァルトが低く言った。
「よく断った」
「怖かったです」
「そう見えなかった」
「それは、王妃教育の成果です」
「嫌な成果だな」
「本当に」
私は小さく笑った。
だが、すぐに笑いは消えた。
クラリモンド夫人が近づいてきたからだ。
黒真珠の扇を手に、白薔薇のような微笑みを浮かべて。
「リリアーナ様」
「宰相夫人」
「素晴らしいお返事でしたわ。王妃陛下のお誘いを、あのようにお断りになるなんて」
「失礼があったなら、お詫びいたします」
「いいえ。とてもあなたらしいと思いましたの」
その声は甘い。
だが、甘さの奥に冷えた蜜蝋がある。
私は彼女の扇を見た。
黒真珠。
前王妃の紙片にあった言葉。
黒真珠の扇を持つ女を信じてはならない。
「お祖母様に似ていらっしゃるわ」
クラリモンド夫人は囁くように言った。
「香りにうるさくて、正直で、少しだけ……危うい」
ヴァルトが一歩近づいた。
クラリモンド夫人は、まるで怖がっていない。
「レイゼン公爵様。婚約者をお守りになる姿、とても頼もしいこと」
「用件は」
「ご挨拶ですわ」
「済んだ」
ばっさり切った。
周囲で聞いていた貴婦人が、扇の陰で目を丸くする。
クラリモンド夫人は笑った。
「相変わらず、北方の風は冷たいですわね」
「王宮の香よりはましだ」
また。
私は心の中でギルに謝った。
今、遠くで頭を抱えているかもしれない。
クラリモンド夫人の目が、ほんの少しだけ冷えた。
けれどすぐに私へ向き直る。
「リリアーナ様。セレーネ様と仲直りはなさいました?」
「まだです」
「まあ、正直」
「香水店ですので」
「ふふ。けれど、姉妹ですもの。多少の行き違いは、香りのように時間が経てば薄れるものですわ」
「薄れる香りと、染みつく香りがあります」
クラリモンド夫人の笑みが深くなる。
「では、染みついたものはどうなさるの?」
「原因を探します」
「洗い落とすのではなく?」
「洗って落ちるなら、まず洗います。落ちないなら、なぜ染みついたのか調べます」
「怖い方」
「よく言われます」
私は彼女を見る。
「宰相夫人も、香りにお詳しいのでしょうか」
「女は皆、香りには詳しいものですわ」
「黒薔薇の香りにも?」
クラリモンド夫人の扇が、一瞬だけ止まった。
本当に一瞬。
だが、止まった。
ヴァルトも気づいた。
クラリモンド夫人はすぐに微笑んだ。
「黒薔薇? 珍しい香りですわね」
「ええ。最近、よく嗅ぐのです」
「流行の兆しかもしれませんわ」
「危険な流行ですね」
私がそう言った時だった。
広間の中央で、甲高い悲鳴が上がった。
音楽が乱れる。
ざわめきが割れるように広がる。
「奥様!」
「誰か、医師を!」
「侯爵夫人が!」
私は反射的にそちらを向いた。
人垣の向こうで、年配の貴婦人が床に崩れ落ちていた。
扇が手から滑り、白い大理石の床に落ちる。
その扇から、強烈な甘い匂いが立ち上った。
薔薇。
蜂蜜。
白檀。
そして、喉を刺すような苦い薬。
毒。
香りに混ぜられた毒だ。
私は考えるより先に動いていた。
「ヴァルト様!」
「ああ」
彼はすぐ人垣を割るように進んだ。
圧をかけない約束は、今だけ棚上げでいい。
人命がかかっている。
「道を開けろ」
ヴァルトの声に、貴族たちが慌てて下がる。
私は倒れた侯爵夫人のそばに膝をついた。
顔色が悪い。唇が紫がかっている。呼吸が浅い。首元に汗。手が震えている。
医師が来るまで待っていたら遅い。
「窓を開けてください!」
私は叫んだ。
近くの侍従が戸惑う。
「で、ですが」
「今すぐ!」
自分でも驚くほど強い声が出た。
侍従が慌てて動く。
「扇を遠ざけて。触るなら布越しに。誰も直接嗅がないでください」
侯爵夫人の侍女が泣きながら言う。
「奥様は、先ほどまで何とも……」
「この扇はどなたから?」
「分かりません。贈り物だと……席に置かれていて……」
席に置かれていた。
誰かが仕込んだ。
私は扇へ顔を近づけすぎないようにしながら、香りを読む。
毒草。
眠り薬。
呼吸を鈍らせる灰色の根。
そして、香りを甘く包む薔薇と蜂蜜。
ただの毒ではない。
毒香。
嗅がせるための毒だ。
「水ではなく、濡らした布を。口元ではなく、鼻の下に軽く。当てすぎないで」
「分かりました!」
ミナがいれば、すぐ動いてくれただろう。
そんなことを一瞬思ってしまい、自分で驚いた。
ここは王宮だ。
でも、私の頭はすでに夜明けの瓶の店主として動いていた。
王宮医師が駆けつける。
「どきなさい!」
「毒香です」
私は言った。
医師が眉をひそめる。
「何?」
「扇に毒香が染みています。呼吸を鈍らせる成分です。甘い香りに紛れていますが、灰色根の苦味があります。換気を。強い香を近づけないでください。水を飲ませるのはまだ危険です」
「素人が何を」
「その素人の鼻で分かりました」
医師が怒りかけた瞬間、ヴァルトが低く言った。
「彼女の指示に従え」
「しかし、公爵閣下」
「命が惜しいなら従え。侯爵夫人の命も、自分の地位も」
医師の顔色が変わる。
私はヴァルトを見上げた。
少し怖い。
でも今は助かる。
「扇を封じる器が必要です。ガラスか陶器。密閉できるもの」
「持ってこい」
ヴァルトの一言で侍従が走る。
侯爵夫人の呼吸はまだ浅い。
私は自分の髪飾りに少しだけ染み込ませていた白樹皮の香りを指先で取り、夫人の鼻先から少し離して漂わせた。
強すぎてはいけない。
毒香を押し返すのではなく、呼吸の道を作る。
「ゆっくり。吸いすぎないで。大丈夫です。今、空気を戻します」
侯爵夫人に聞こえているかは分からない。
けれど、私は言い続けた。
人は、意識が薄れていても、声の温度を感じることがある。
ミナに眠りの香を作った時に、それを知った。
やがて侯爵夫人の呼吸が、わずかに深くなった。
唇の紫が少し薄くなる。
周囲から安堵の息が漏れた。
だが、私の背筋は冷えたままだった。
扇の毒香。
その甘さの奥に、別の香りがある。
セレーネの香水と同じ。
黒薔薇ではない。
けれど、同じ瓶から分けられたような基礎香。
薔薇、蜂蜜、白檀、焦げた砂糖。
私はゆっくり顔を上げた。
少し離れた場所で、セレーネが真っ青な顔をして立っていた。
彼女の手首から漂う香り。
倒れた侯爵夫人の扇から立つ香り。
似ている。
似すぎている。
ユリウスもそれに気づいたのか、セレーネを見た。
「セレーネ……?」
「違います」
セレーネは震える声で言った。
「私じゃありません。私、何も」
その言葉の香りは、混乱と恐怖。
嘘の甘さは薄い。
彼女は本当に、毒香までは知らない。
だが、会場はそう見てくれるだろうか。
クラリモンド夫人は、少し離れた場所で扇を閉じた。
その微笑みは、悲しげですらあった。
まるで、哀れな妹がまた愚かなことをしたと言いたげに。
私は理解した。
この毒香事件は、侯爵夫人を狙っただけではない。
セレーネに疑いを向けるためでもある。
そして、その先に私を巻き込むため。
私は床に落ちた扇を見た。
甘い毒の匂いが、まだ薄く漂っている。
王宮の夜会は、再び私を裁きの場にしようとしている。
でも、今度は違う。
私はもう、黙って責められるだけの令嬢ではない。
ヴァルトが隣に膝をついた。
「分かるか」
私は頷いた。
「ええ」
「誰だ」
「まだ、誰とは言えません」
私は扇を見つめた。
「でも、この毒香は、セレーネの香水と同じ系統です」
ヴァルトの目が冷える。
会場のざわめきが、再び膨れ上がる。
セレーネが泣きそうな顔で首を横に振る。
ユリウスが混乱し、王妃の微笑みが消え、クラリモンド夫人だけが静かに扇を開いた。
私は息を吸った。
薔薇と蜂蜜と毒と嘘。
今夜、王宮の腐臭は、隠しきれないところまで立ちのぼり始めていた。




