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第16話 毒香事件

 侯爵夫人の呼吸が戻るまで、広間の誰もまともに声を出せなかった。


 あれほど音楽と笑い声で満ちていた王宮の大広間が、今は奇妙な静けさに包まれている。


 窓は開け放たれ、夜風が白薔薇の飾りを揺らしていた。燭台の炎が細く震え、床に落ちた扇は陶器の器に封じられている。


 甘い毒の匂いは、まだ消えていない。


 薔薇。

 蜂蜜。

 白檀。

 焦げた砂糖。

 そして、灰色根の苦味。


 私は侯爵夫人のそばに膝をついたまま、彼女の呼吸を数えていた。


 浅い。


 けれど、最初よりは深い。


 王宮医師がようやく落ち着きを取り戻し、夫人の脈を診ている。彼は先ほど私に食ってかかった男だが、今は余計なことを言わなかった。ヴァルトがすぐ後ろに立っているせいかもしれない。


 いや、たぶんそれだけではない。


 医師自身も分かったのだ。


 夫人を救うには、香りを遠ざける必要があったと。


「呼吸は戻りつつあります」


 医師が硬い声で言った。


「ただし、まだ動かしてはなりません。別室へ運ぶのは、もう少ししてからです」


「解毒は?」


 ヴァルトが尋ねる。


「飲み薬を用意します。しかし、吸入毒となると……」


 医師の視線が、ちらりと私へ向いた。


 悔しそうだった。


 でも、私を見るしかないという顔でもあった。


「毒香です」


 私は言った。


「扇に染み込ませた香りを、会話中に少しずつ嗅がせる形です。直接飲ませた毒ではありません。呼吸を鈍らせ、意識を曇らせる。量が多ければ、そのまま眠るように亡くなっていたかもしれません」


 周囲から、ざわめきが広がった。


「眠るように……?」

「では、暗殺ではないか」

「この慈善夜会で?」

「王妃陛下の御前で、何ということを」


 王妃陛下は、少し離れた場所に立っていた。


 白い顔。


 白いドレス。


 白薔薇の香り。


 そのすべてが美しいのに、やはり温度がない。


 ただ、先ほどよりも香りの奥に乱れがあった。


 冷えた薬草の下に、細い不安。


 王妃は完全に事態を把握していたわけではない。


 少なくとも、侯爵夫人が倒れる瞬間を望んでいた匂いではない。


 だが、それだけで無関係とは言えなかった。


 見ないふりをした者も、毒を置いた者の隣にいる。


「毒香……」


 ユリウス殿下が呟いた。


 彼の隣で、セレーネが真っ青になっている。


 彼女は何度も首を横に振っていた。


「違います。私じゃありません。私、本当に何も知りません。殿下、信じてください」


「落ち着け、セレーネ」


「だって、皆が……皆が私を見ているのですもの」


 実際、皆がセレーネを見ていた。


 私も見ていた。


 彼女の手首から漂う香りが、毒扇の香りに似ていたからだ。


 会場にいる者の多くは、私ほど香りを嗅ぎ分けられない。


 それでも、甘い薔薇の余韻は感じているはずだ。


 セレーネの香水と、倒れた侯爵夫人の扇。


 似ている。


 その印象だけで、噂には十分だった。


 貴婦人の一人が震える声で言った。


「セレーネ様の香り……先ほどから、同じ薔薇のような」


「まさか」


「でも、侯爵夫人は先ほどセレーネ様とご挨拶を」


「王太子殿下の新しいご婚約者が、なぜ侯爵夫人を?」


「違います!」


 セレーネの悲鳴が、広間に響いた。


 彼女はユリウスの袖を両手で掴んだ。


「違います、殿下。私、侯爵夫人に何かする理由なんてありません。私、本当に……本当に知らないの。私の香水は、ただいただいただけで」


 言いかけて、セレーネは口を閉じた。


 遅い。


 今の言葉は、周囲に聞こえた。


 いただいた。


 誰から?


 その疑問が会場に広がる。


 ユリウスも気づいた。


「いただいた?」


「あ……」


「セレーネ、その香水は誰からもらった」


「それは……」


 セレーネの視線が一瞬、クラリモンド夫人の方へ揺れた。


 本当に一瞬だった。


 だが、私は見た。


 ヴァルトも見た。


 クラリモンド夫人は、少し離れた場所で心配そうに眉を寄せていた。


 完璧な表情。


 哀れな少女を案じる優しい貴婦人。


 香りも、表面だけなら白薔薇そのもの。


 けれど扇の奥から、冷えた蜜蝋がにじんでいる。


「セレーネ」


 ユリウスの声が少し強くなる。


「誰から香水をもらった」


「……私」


 セレーネは唇を震わせた。


「言えません」


「なぜ」


「だって、そんな……その方にご迷惑が」


「今、侯爵夫人が倒れたのだぞ!」


 ユリウスが声を荒らげた。


 セレーネの体がびくりと震える。


 甘い薔薇の香りが、さらに濃くなった。


 黒い蕾が熱を持つ。


 まずい。


 このまま責めれば、セレーネの感情が香水に煽られる。


 怒り、恐怖、嫉妬、自己防衛。


 すべてが混ざれば、彼女は本当に何を言い出すか分からない。


「殿下」


 私は立ち上がった。


 会場中の視線が私へ向く。


 セレーネも、涙で濡れた目をこちらへ向けた。


 助けを求める目ではない。


 警戒と恐怖。


 そして、ほんの少しの怒り。


 またお姉様が私を責める。


 そう思っている顔だった。


 私は妹を見て、静かに言った。


「セレーネは、この毒香を作っていません」


 広間がざわめいた。


 セレーネの目が見開かれる。


 ユリウスも驚いた顔で私を見た。


「リリアーナ……?」


「誤解なさらないでください。私は妹を無条件に庇うほど、心が広くありません」


 セレーネが傷ついたように唇を震わせた。


 だが、私は続けた。


「けれど、事実は事実です」


 私は封じられた扇を指した。


「これは、複数の香料と毒草を時間差で立ちのぼるように調整したものです。最初は薔薇と蜂蜜で不審を隠し、その後、灰色根の苦味が呼吸を鈍らせる。白檀で残り香を長持ちさせ、焦げた砂糖の香りで特定の香水に似せている」


 王宮医師が眉をひそめた。


「時間差で?」


「はい。扇を開いた直後に強く毒が出るのではなく、会話中に少しずつ効くようにしてあります。扇を使う貴婦人の所作をよく知っている者の仕込みです」


 私はセレーネを見た。


「セレーネには無理です」


「お姉様……」


 セレーネの声が震える。


 私は言った。


「妹は愚かですが、この毒を扱えるほど器用ではありません」


 会場が凍った。


 誰かが扇を落としそうになった音がした。


 ユリウスは口を開いたまま固まっている。


 セレーネの顔には、安堵と屈辱が同時に浮かんだ。


「お、お姉様、それ、庇っているのですか? それとも侮辱しているのですか?」


「両方よ」


「両方!?」


「毒を作っていないと言っているのだから、今は受け取りなさい」


「そんな受け取り方、あります!?」


 セレーネが思わず言い返した。


 その瞬間、彼女の声からほんの少しだけ恐怖が抜けた。


 周囲の空気も、わずかに緩む。


 馬鹿げた会話だ。


 毒香事件の最中に、姉妹でこんなやり取りをするなど。


 でも、人は完全に正しい言葉だけでは呼吸できない。


 セレーネは涙を浮かべたまま、悔しそうに私を睨んだ。


「私、愚かではありません」


「この場でそこを争うの?」


「だって」


「後にしなさい」


「……はい」


 素直に頷いた自分に気づき、セレーネはさらに悔しそうな顔をした。


 私は少しだけ息を吐いた。


 妹が憎くないわけではない。


 でも今、彼女を犯人に仕立てる流れに乗れば、本当の毒は消える。


 クラリモンド夫人が望んでいるのは、それだ。


「リリアーナ」


 ユリウスが一歩近づいた。


 彼の声には戸惑いがあった。


「では、セレーネは本当に関係ないのか」


「関係はあります」


 私が答えると、セレーネがまた固まった。


「香水です。セレーネのつけている香水と、毒扇の基礎香が似ています。誰かが同じ系統の香りを使い、彼女へ疑いを向けようとした可能性があります」


「同じ系統……」


 ユリウスはセレーネの手首へ視線を向ける。


 セレーネは反射的に手を隠した。


「これは、ただの香水です」


「誰からもらった」


「……」


 また黙る。


 ユリウスの顔に苛立ちが浮かぶ。


 私はそれを遮った。


「今ここで問い詰めても、正確な答えは出ないでしょう」


「なぜ君が仕切る」


 近くにいた貴族の男が、苛立った声で言った。


 たしか王宮礼拝局に近い家の者だったはずだ。


「王宮医師でもない、ただの香水屋が」


 その言葉に、胸が少しだけ痛んだ。


 ただの香水屋。


 数日前なら、私はその言葉に傷ついて黙ったかもしれない。


 けれど今は、違う。


「はい。ただの香水屋です」


 私はまっすぐ答えた。


「ですので、香りの話をしています」


 男が言葉に詰まった。


 ヴァルトの口元が、ほんの少し動いた気がした。


 笑ったのなら、後で指摘しよう。


 私は床に視線を落とした。


 侯爵夫人が倒れた場所。


 扇が落ちた位置。


 その少し先に、灰が落ちている。


 燭台の灰ではない。


 香炉の灰だ。


 今夜の慈善夜会では、広間の四隅に小さな香炉が置かれていた。王妃主催の夜会でよく焚かれる礼拝香。来場者を落ち着かせるため、清らかな祈りの香とされている。


 だが、私は入場した時から気になっていた。


 広間全体に、白薔薇と蜜蝋の香りが薄く漂っていたこと。


 招待状と同じ、腐った花の奥香があったこと。


 そして今、毒扇の香りと微かに結びついていること。


「ヴァルト様」


「ああ」


 彼は私が言う前に、視線を床の灰へ向けていた。


 さすがに早い。


「灰を」


 私が言うと、彼はギルに目配せした。


 ギルがすぐに布を取り出し、床の灰を直接触れないように包む。


 王宮医師が困惑した。


「それはただの灰では?」


「ただの灰なら、薔薇と蜜蝋の香りだけがします」


 私は包まれた灰に顔を近づけすぎないようにしながら、香りを確認した。


 白薔薇。

 蜜蝋。

 沈香。

 黒蜜花。

 そして、扇と同じ焦げた砂糖の基礎香。


 繋がった。


「毒香は、扇だけではありません」


 私は言った。


 会場中が静まる。


「広間の礼拝香にも、同じ基礎香が混ぜられています」


 王妃の表情が初めて大きく変わった。


 ほんの少しだが、微笑みが消えた。


「礼拝香に?」


「はい。扇の毒を自然に感じさせるため、広間全体に似た香りを薄く漂わせていたのです。これなら、扇から立つ甘さにも誰も違和感を持ちません」


 貴婦人の一人が口元を押さえた。


「では、私たちもそれを吸っていたのですか?」


「毒としては薄いです。すぐに命に関わる量ではありません。ですが、感情を揺らす成分が含まれています」


「感情を?」


 ユリウスが顔を上げる。


 私は頷いた。


「黒蜜花に似た香りがあります。怒り、不安、嫉妬、恐怖を強める可能性がある。長く嗅げば、判断も鈍るでしょう」


 セレーネの顔が青ざめた。


 彼女は自分の手首を見つめている。


 自分が最近、どれほど不安定になっていたか、思い当たったのかもしれない。


 ユリウスもまた、苦い顔をした。


 彼の袖口からも、薄くセレーネの香水が移っている。


 彼自身も、香りの影響を受けている可能性がある。


 それを今ここで言えば、王太子の面子は潰れる。


 そして、場はさらに混乱する。


 だから私は飲み込んだ。


 今は、侯爵夫人の命と毒香の出所が先だ。


「王妃陛下」


 私は王妃へ向き直った。


 大広間の空気が張り詰める。


「今夜の礼拝香を管理したのは、どなたでしょうか」


 王妃は私を見た。


 その瞳は静かだった。


 けれど香りが乱れている。


 冷たい薬草の下で、不安が広がる。


「王宮礼拝局と、夜会管理の侍従たちです」


「香油の原液に触れられる者は限られていますか」


「当然です。王宮の礼拝香は、王家の儀式にも使われるもの。誰でも扱えるものではありません」


「では、この毒香を仕込める者も限られます」


 私の言葉に、広間がざわめいた。


 王宮礼拝局。

 夜会管理。

 王妃周辺。

 宰相家。


 そこまで届く者。


 私ははっきりとは言わなかった。


 まだ証拠が足りない。


 だが、向けるべき視線は分かっていた。


 クラリモンド夫人は、少し離れた場所で静かに立っている。


 心配そうに。


 優雅に。


 まるで、自分には何も関係がないという顔で。


 私は彼女を見た。


「宰相夫人」


「はい、リリアーナ様」


 彼女はすぐに返事をした。


 その声は柔らかい。


「今夜の礼拝香に、お心当たりは?」


「まあ」


 クラリモンド夫人は扇を胸元に当てた。


「私のような者が、王宮礼拝香に口を出せるはずがございませんわ」


 嘘の匂いは薄い。


 さすがだ。


 完全な嘘ではない言い方をしている。


 口を出せるはずがない。

 それは、直接命令していないという意味かもしれない。


 だが、出入りしていないとは言っていない。

 香油を渡していないとも言っていない。

 誰かを使っていないとも言っていない。


「そうですか」


 私は言った。


「では、後ほど礼拝局の記録を確認させていただく必要がありますね」


 クラリモンド夫人の笑みが、ほんの少し深くなる。


「香水店の店主が、王宮の記録を?」


「レイゼン公爵の婚約者として」


 私は答えた。


 初めて、その肩書きを自分から使った。


 ヴァルトが隣でわずかに動いた。


 驚いたのかもしれない。


 あるいは、少し満足したのかもしれない。


 クラリモンド夫人は、目を細めた。


「まあ。頼もしいこと」


「ありがとうございます」


「けれど、あまり余計な香りを嗅ぎ回ると、疲れてしまいますわよ」


 その言葉は、以前と同じだった。


 余計な香り。


 祖母にも、きっとそう言ったのだろう。


 私はまっすぐ彼女を見た。


「疲れたら、店で眠りの香を焚きますので」


 クラリモンド夫人の扇が、また一瞬だけ止まった。


 ヴァルトが今度こそ少し笑った。


 場違いだ。


 毒香事件の最中に笑うなど。


 でも、私は少しだけ心強かった。


 侯爵夫人は侍従たちにより、ようやく別室へ運ばれることになった。王宮医師は今度は私に意見を求めてから動いた。


「扇は密閉したまま。夫人の衣服にも残香があります。着替えを。部屋には強い香りを入れないでください」


「……分かりました」


 医師は悔しそうに頷いた。


 少しだけ、彼への印象が変わった。


 悔しがりながらでも命を優先できるなら、まだましだ。


 セレーネはユリウスに支えられながら立っていた。


 顔は蒼白。


 涙は頬に残っている。


 彼女は私を見た。


「お姉様」


「何」


「私……本当に、知らなかったの」


「今はそう判断しているわ」


「今は?」


「新しい事実が出れば、判断は変わります」


「お姉様って、本当にそういうところ……」


 セレーネは泣きながら、少しだけ怒った顔をした。


「少しは優しくしてくださってもいいじゃない」


「毒香事件の最中に?」


「そうだけど!」


「では、これだけ言うわ」


 私は妹を見る。


「その香水は、今すぐ外しなさい。手袋も替えて。髪にも香りが移っているなら、洗う必要がある」


 セレーネは唇を震わせた。


「……命令?」


「助言」


「お姉様の助言って、命令みたい」


「あなたの泣き言は、時々武器みたいよ」


 セレーネが目を見開いた。


 ユリウスが気まずそうに私たちを見る。


 私はため息をついた。


「言い合いは後にしましょう。今は、あなたが次の毒香の的にされないようにする方が先よ」


「私が?」


「あなたは、疑いを向けるための駒にされかけた」


 セレーネの顔から、また血の気が引いた。


 ようやく、少し分かったらしい。


 自分が勝者の席にいるのではなく、誰かの盤上に置かれていることに。


 王妃が広間全体へ向けて、静かに告げた。


「今夜の夜会は、ここで中断いたします。皆様、混乱を招かぬよう、侍従の案内に従ってください。侯爵夫人のご容態については、追って知らせます」


 王妃の声は落ち着いていた。


 そのおかげで、場は一応の秩序を取り戻した。


 だが、香りはもう隠せない。


 恐怖。

 疑念。

 怒り。

 好奇心。

 責任逃れ。


 王宮の白薔薇の下から、さまざまな腐臭が立ちのぼっている。


 私は密閉された扇と、包まれた灰を見た。


 証拠は二つ。


 まだ弱い。


 けれど、確かにある。


 ヴァルトが低く言った。


「これで王宮は動かざるを得ない」


「ええ」


「君も疑われる」


「でしょうね」


「私が前に立つ」


「隣に立つ契約では?」


 ヴァルトは少し黙った。


 そして、言い直した。


「隣に立つ。必要なら、少し前にも立つ」


「少しだけなら」


「ああ」


 その会話に、私は少しだけ笑った。


 笑える状況ではない。


 でも、笑わなければ息が詰まる。


 クラリモンド夫人は、去っていく貴族たちの間に立ち、最後まで美しい微笑みを崩さなかった。


 私と目が合う。


 彼女は扇を開く。


 白薔薇の香り。


 冷えた蜜蝋。


 焦げる前の黒い蕾。


 そして、ほんの少しだけ。


 楽しんでいる匂い。


 私はその匂いを、絶対に忘れないように胸へ刻んだ。


 王宮の香水瓶は、まだ割れていない。


 けれど、ひびは入った。


 今夜、そのひびから最初の毒がこぼれたのだ。


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