第17話 匂いしか分からない無能令嬢
毒香事件の後、王宮の夜は終わらなかった。
侯爵夫人は別室へ運ばれ、王宮医師と侍女たちが付き添った。幸い、呼吸は戻っている。命は取り留めるだろうという報告が、しばらくして広間へ届いた。
その瞬間だけ、場の空気は少し緩んだ。
だが、緩んだのはほんの一瞬だった。
人が死ななかったからといって、毒が消えるわけではない。
むしろ、死ななかったからこそ、誰もが次に考える。
誰がやったのか。
なぜやったのか。
そして、誰に罪を着せるのが一番都合がいいのか。
王宮の人間は、そういう計算だけは早い。
私とヴァルトは、大広間の脇にある小さな応接室へ通された。
通された、というより、半ば隔離されたと言うべきかもしれない。
部屋には王妃陛下、王宮医師長、王宮礼拝局の高官、夜会管理の侍従長、そして数名の貴族が集められていた。
ユリウス殿下とセレーネもいる。
セレーネは香水を落とすため、一度別室へ行かされた。手首は洗われ、手袋も替えられている。髪にも香りが残っていたため、侍女が濡れた布で何度も拭いたらしい。
戻ってきた彼女は、ひどく憔悴していた。
可憐な薄桃色のドレスはそのままなのに、顔だけが子どものように頼りなくなっている。
私はそれを見て、胸の奥が少し痛んだ。
憎しみは消えない。
でも、あの子は今、確かに怖がっている。
そのことまで嘘にしてしまえば、私の鼻はただの刃物になってしまう。
応接室には、白薔薇の香りがまだ漂っていた。
壁際の香炉は消されている。けれど、絨毯やカーテン、貴族たちの衣服に香りが染み込んでいる。
その奥から、毒扇の残香がわずかに立つ。
甘い薔薇。
蜂蜜。
白檀。
焦げた砂糖。
灰色根の苦味。
そして、もっと奥にある王宮礼拝香の基礎。
全部が混じって、気分が悪くなるような空気だった。
「リリアーナ様」
王宮医師長が口を開いた。
先ほど侯爵夫人の処置をしていた医師より年上で、髪に白いものが混じっている。口ひげは丁寧に整えられ、いかにも自分の地位を知っている男の顔をしていた。
「あなたは、あの扇に毒が仕込まれていると断言なさいましたね」
「断言したつもりはありません。毒香だと判断しました」
「同じことです」
「同じではありません」
医師長の眉が動く。
私は静かに続けた。
「毒が仕込まれている、という言い方では、塗布毒、粉毒、飲み薬、接触毒、いくつも含まれます。今回のものは、香りとして吸い込ませる形でした。ですから毒香と申し上げました」
医師長は、少しだけ不快そうに唇を引き結んだ。
私は知っている。
こういう人は、訂正されるのを嫌う。
特に、自分が下に見ている相手からの訂正を。
「では、その毒香とやらを、あなたはなぜ瞬時に見抜けたのですか」
質問の形をしている。
だが、中身は疑いだった。
部屋の空気が固くなる。
セレーネが顔を上げた。ユリウス殿下も私を見る。
王妃陛下は黙っている。
クラリモンド夫人はいない。
いや、正確にはこの部屋にはいない。けれど、扉の向こうか、廊下の先か、どこかでこの会話を聞いている気がした。
あの白薔薇の香りは、壁を隔てても消えない。
「香りで分かりました」
私は答えた。
医師長は鼻で笑った。
「香りで、ですか」
「はい」
「侯爵夫人の呼吸が鈍った原因を、香りだけで?」
「呼吸の鈍り、唇の色、扇から立つ匂い、広間の礼拝香との共通点。それらを合わせて判断しました」
「つまり、あなたは医学的な検査もなしに、毒だと断じた」
「処置が遅れれば、侯爵夫人は危険でした」
「それは結果論でしょう」
「結果として助かりました」
「だから正しかったと?」
「少なくとも、間違ってはいませんでした」
医師長の顔が赤くなる。
王宮礼拝局の高官が、低い声で割って入った。
「そもそも、礼拝香に毒の基礎香が混ぜられていたという話も、リリアーナ様の嗅覚によるものでしょう。王宮の礼拝香は厳重に管理されております。香水店の店主が、香りを嗅いだだけで異物混入を主張するなど、あまりに乱暴ではありませんか」
礼拝局の高官。
細い顔に、油を塗ったような髪。指には大きな指輪。白い法衣の袖口から、沈香と蜜蝋の匂いがする。
そして、恐怖の匂いも。
この人は怒っている。
だが、それ以上に恐れている。
礼拝香に問題があったとなれば、自分の立場が危うくなるからだ。
「乱暴かどうかは、灰を調べれば分かります」
私は言った。
「調べる?」
「はい。今夜広間で焚かれた礼拝香の灰、未使用の香油、香炉に残った煤。それらを比較してください。通常の礼拝香にはない焦げた甘さと黒蜜花に似た残香が出るはずです」
高官の頬がぴくりと動いた。
「王宮礼拝香の成分は機密です」
「人が倒れています」
「それでも機密は機密です」
「では、侯爵夫人が亡くなっていたとしても同じことを?」
部屋が静まり返った。
高官の顔が青くなる。
私は言いすぎたかもしれないと思った。
けれど、言わなければならなかった。
王宮では、機密や体面や序列が、人の命より前に来ることがある。
それが普通になっている。
私はもう、それを普通だと思いたくなかった。
王妃陛下が、ゆっくりと口を開いた。
「リリアーナ様。あなたの言葉は、時に鋭すぎますね」
「申し訳ございません」
「けれど、侯爵夫人の命を救う助けになったことは事実です」
王妃の声は静かだった。
医師長と礼拝局高官が黙る。
王妃は続けた。
「ただし、王宮内で毒香が使われたとなれば、慎重な調査が必要です。あなたの嗅覚だけを根拠に、誰かを責めることはできません」
「承知しております」
私は頭を下げた。
「ですので、証拠を調べるべきだと申し上げています」
王妃の微笑みは戻らなかった。
香りの温度は、相変わらず低い。
しかし、そこに微かな苛立ちと、もっと微かな迷いが混じっている。
王妃は何かを恐れている。
この事件そのものか。
それとも、事件の先にあるものか。
「君は」
ユリウス殿下が口を開いた。
その声は、先ほどより低かった。
私は彼を見る。
数日前まで婚約者だった人。
今は、セレーネの隣に立っている人。
彼は私を見つめ、眉を寄せていた。
「君は、本当にそんな力を持っていたのか」
部屋の空気が、また変わった。
その質問には、単なる疑いだけではないものが含まれていた。
驚き。
悔い。
困惑。
そして、少しの恥。
彼は知らなかったのだ。
いや、知ろうとしなかったのだ。
私が何を感じ、何を見抜き、何を隠していたのか。
幼い頃から、私の鼻は気味が悪いと言われてきた。
王宮でも、エルヴェール家でも。
ユリウス殿下も、何度か私の言葉を聞いていたはずだ。香りがおかしい、あの方は体調が悪い、あの花は不自然に甘い、と。
でも彼は、そのたびに顔をしかめた。
また匂いの話か、と。
王太子妃に必要なのは、もっと広い視野だ、と。
そして最後には、夜会の場でこう言った。
匂いを嗅ぐことしかできない女など、王妃にふさわしくない。
私は静かに息を吸った。
「殿下」
「……何だ」
「これは、殿下が無能と呼んだものです」
ユリウスの顔がこわばる。
セレーネが小さく息を呑んだ。
私は続けた。
「私は昔から、香りで人の体調や感情の乱れを感じることがありました。嘘や悪意、病の兆し、薬の違和感も。すべてが分かるわけではありません。間違うこともあります。けれど、香りは多くを教えてくれます」
言葉にするほど、胸の奥が少しずつ痛んだ。
この力を、私は長く嫌ってきた。
気味悪がられたから。
余計なことを言うなと叱られたから。
セレーネに怖いと言われたから。
母に困った顔をされたから。
父に家を滅ぼす鼻だと言われたから。
ユリウスに無能と笑われたから。
でも、今夜。
この鼻で、人の命を少しだけ引き戻した。
なら、もう隠すだけではいられない。
「私は、匂いしか分からない無能令嬢です」
部屋が静まる。
自分でその言葉を口にすると、思っていたよりも痛かった。
でも、続けた。
「ですが、その匂いで、侯爵夫人の毒香を見つけました。その匂いで、セレーネの香水と扇の共通点を見つけました。その匂いで、礼拝香にも異物が混じっている可能性を見つけました」
私は顔を上げた。
「無能かどうかは、どうぞ結果でご判断ください」
誰もすぐには言葉を返さなかった。
ユリウス殿下は、まるで初めて私を見たような顔をしていた。
セレーネは泣きそうだった。
王妃陛下は、表情を消している。
医師長は気まずそうに視線を逸らした。
礼拝局高官は唇を噛んでいる。
その沈黙を破ったのは、ヴァルトだった。
「彼女を疑うなら、まず私を疑え」
低い声。
静かで、重い。
部屋の全員がヴァルトを見た。
彼は私の隣に立っていた。
少し前ではない。
隣。
ただし、その存在感は壁のようだった。
「レイゼン公爵」
王妃が呼ぶ。
ヴァルトは王妃へ礼をしたが、視線は下げなかった。
「彼女は私の婚約者だ」
その言葉に、胸が跳ねた。
仮契約上の、と言いそうになって、私は口を閉じた。
今は違う。
今は、その言葉が盾になる。
「彼女が毒香を仕込んだと疑うなら、私がそれを許したことになる。私の名とレイゼン家を含めて疑うがいい」
医師長が慌てた。
「い、いえ、公爵閣下、そのような意味では」
「では、どういう意味だ」
「我々はただ、事実確認を」
「なら証拠を調べろ。香りを見抜いた者を責める前に、毒が仕込まれた物を調べるのが筋だ」
礼拝局高官が口を開いた。
「しかし、礼拝香の調査には正式な手続きが」
「人が倒れた」
ヴァルトの声がさらに冷える。
「手続きで毒は消えない」
誰も言い返せなかった。
私は隣に立つ彼を見上げた。
冷血公爵。
そう呼ばれる人。
けれど今の冷たさは、怖いだけではなかった。
腐ったものを冷たい刃で切り開こうとする温度だった。
王妃が小さく息を吐いた。
「分かりました。今夜の礼拝香、香炉の灰、侯爵夫人の扇、すべて封じて保管させます。王宮医師長、礼拝局、そしてレイゼン公爵立ち会いのもと、調査を行います」
礼拝局高官が青ざめる。
「王妃陛下」
「異論が?」
「……ございません」
王妃は私を見る。
「リリアーナ様。あなたにも、香りの確認をお願いすることになるでしょう」
「承知いたしました」
「ただし」
王妃の声が少しだけ硬くなる。
「調査が終わるまで、あなたの判断も絶対ではありません」
「はい。私も、自分の鼻だけで人を裁くつもりはありません」
それは本心だった。
香りは手がかりだ。
証拠ではあるが、すべてではない。
人は香りだけでできているわけではない。
嘘と本音と誤解と恐怖と、言い損ねた言葉でできている。
セレーネが小さな声で言った。
「お姉様」
私は彼女を見る。
セレーネは迷ったように唇を開き、閉じた。
それを二度繰り返した後、ようやく言った。
「私……その香水が危ないなんて、本当に知らなかったの」
「そうでしょうね」
「どうして、分かるの」
「あなたは毒を扱う時、もっと顔に出るから」
「やっぱり侮辱してますよね?」
「事実よ」
「お姉様!」
セレーネの声に、ほんの少し元気が戻った。
ユリウス殿下が、複雑な顔で私たちを見ている。
たぶん、彼は初めて見たのだ。
私とセレーネが、こういう会話をするところを。
姉妹なのに、彼の前ではいつも、セレーネは泣き、私は黙っていた。あるいは、私が正論を言い、セレーネが傷ついた顔をした。
でも本当は、もっと面倒だった。
姉妹というものは、もっとくだらなくて、腹立たしくて、少しだけ見捨てきれない。
「セレーネ様」
王妃が静かに言った。
セレーネはびくりとする。
「あなたの香水についても、後ほど確認が必要です。どなたから受け取ったのか、落ち着いてからお話しなさい」
「……はい」
セレーネは俯いた。
その返事には、恐怖が混じっていた。
誰を恐れているのか。
王妃か。
ユリウスか。
私か。
それとも、香水を渡したクラリモンド夫人か。
まだ分からない。
いや、分かっていても、彼女が言わなければ証拠にならない。
応接室での話し合いは、そこでいったん区切られた。
侯爵夫人の容態確認、証拠品の封印、礼拝香の管理記録の確認。王宮の夜は急に実務へと変わった。
貴族たちは帰され、関係者だけが残ることになった。
私とヴァルトも、王宮に留まるよう求められた。
「レイゼン公爵、リリアーナ様」
王妃が言った。
「今夜は王宮の客室をご用意します。夜も遅く、調査にもすぐ対応していただきたいので」
「不要です」
ヴァルトが即答した。
王妃の目がわずかに細くなる。
「公爵。これは王宮としての配慮です」
「彼女は王宮で婚約破棄されたばかりだ。休む場所として適切ではない」
部屋の空気が固まった。
ユリウスの顔が痛ましげに歪む。
セレーネは俯いた。
私は一瞬、息を止めた。
ヴァルトは遠回しに言わない。
王妃の前でも。
王宮の中でも。
その率直さは危うい。けれど、今は胸の奥を守られた気がした。
王妃は静かに言った。
「では、レイゼン公爵邸へ?」
「夜明けの瓶へ戻る」
さらに空気が固まった。
礼拝局高官が信じられないという顔をする。
王宮から帰る先が、公爵邸ではなく香水店。
それを聞いた王宮貴族たちの困惑が、手に取るように分かった。
私は小さく言った。
「ヴァルト様、私の店に泊まる場所は」
「ないな」
「はい」
「では、私は外にいる」
「いけません」
「なぜ」
「公爵様が店の外で夜を明かしたら、翌朝、東区が歌を十曲作ります」
ヴァルトは少し黙った。
「それは困るのか」
「かなり」
「では、考える」
王妃の前で何を話しているのだろう。
私は少しだけ頭が痛くなった。
けれど王妃は、なぜかそのやり取りをじっと見ていた。
冷たい微笑みの奥で、何かを測るように。
「……よろしいでしょう」
王妃は言った。
「ただし、明朝には再び王宮へ。調査のため、呼び出しを送ります」
「承知いたしました」
私は礼をした。
ヴァルトも短く頷く。
応接室を出る時、ユリウス殿下が私を呼び止めた。
「リリアーナ」
振り返る。
彼は何かを言おうとして、迷っていた。
謝罪か。
疑問か。
後悔か。
そのどれでも、今は聞きたくなかった。
「殿下」
私は先に言った。
「侯爵夫人が助かったことを、まず喜ぶべき夜です」
ユリウスは言葉を失った。
私は礼をして、そのまま歩いた。
廊下に出ると、王宮の夜気が肌に触れた。
大広間よりは香りが薄い。
それでも、白薔薇と蜜蝋は染みついている。
廊下の角を曲がったところで、誰かが待っていた。
クラリモンド宰相夫人だった。
黒真珠の扇を手に、薄い笑みを浮かべている。
ヴァルトが私の前へ出ようとした。
私は小さく首を振った。
夫人はそれを見て、楽しそうに目を細めた。
「お見事でしたわ、リリアーナ様」
「何のことでしょう」
「侯爵夫人を救ったこと。セレーネ様を庇ったこと。そして、ご自分を疑う者たちを黙らせたこと」
「黙ってはいません。皆様、明日また話されるでしょう」
「ふふ。確かに」
夫人は扇で口元を隠した。
「あなたは本当に、セラフィナ様によく似ていらっしゃる」
「祖母をご存じだったのですね」
「ええ。少しだけ」
白薔薇の香りが、廊下に薄く広がる。
その奥に、焦げた花。
私は目を逸らさなかった。
夫人は私のすぐ横を通り過ぎる直前、声を落とした。
「あなたの祖母も、余計な匂いを嗅ぎすぎました」
背筋が凍る。
ヴァルトの気配が一瞬で冷えた。
だが、クラリモンド夫人はもう歩き出している。
追及するには遅い。
彼女は振り返らず、優雅に廊下の奥へ消えていった。
私はその場に立ち尽くした。
祖母も。
余計な匂いを。
嗅ぎすぎた。
それは、ただの脅しではなかった。
告白に近い。
証拠にはならない。
でも、香りが覚えている。
私は拳を握った。
「リリアーナ」
ヴァルトが呼ぶ。
「大丈夫ではありません」
私は先に言った。
「ですが、倒れません」
「そうか」
「はい」
「では、帰ろう」
「どこへ?」
「君の店へ」
その言い方に、少しだけ息が戻った。
王宮ではなく。
公爵邸でもなく。
夜明けの瓶へ。
私の店へ。
廊下の窓の外には、夜の庭園が広がっている。
あの婚約破棄の夜、私はこの王宮から追い出された。
けれど今夜は、自分の足で出て行く。
証拠を持って。
疑いを持って。
そして、祖母の死に繋がる言葉を胸に抱えて。
王宮の白薔薇の香りが、背後で静かに揺れた。
私は振り返らなかった。




