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第18話 祖母の死に隠された香り

 夜明けの瓶に戻った時、店の前にはネリが立っていた。


 腕を組み、前掛け姿のまま、暗い通りの真ん中で仁王立ちしている。


 その後ろには、ミナもいた。


 ミナは厚手の shawl を肩にかけ、両手で小さな灯りを抱えている。目元が赤い。たぶん、待っている間に何度も泣きそうになったのだろう。


 黒い馬車が店の前で止まると、ネリはまず馬車を見た。


 次に、降りてきたヴァルトを見た。


 最後に、私を見た。


「遅い」


 第一声がそれだった。


 私は馬車の踏み台から降りながら、少しだけ笑ってしまった。


「ただいま戻りました」


「ただいまじゃないよ。夜会ってのは、パンの焼き上がりより時間が読めないもんなのかい」


「途中で侯爵夫人が毒香で倒れまして」


「……は?」


 ネリの目が据わった。


 ミナの灯りが揺れる。


「ど、毒香って、毒ですか? 香りの毒ですか? それ、リリアーナさん、大丈夫なんですか? 吸ってませんか? 倒れてませんか? 息できますか?」


「ミナ、質問が多いわ」


「だって!」


 ミナは今にも泣きそうな顔で近づいてきた。


 私は手袋を外し、彼女に手を見せる。


「大丈夫。私は倒れていないわ」


「本当に?」


「ええ」


「また『大丈夫ではないけど倒れません』じゃないですか?」


「……少し近いわね」


「やっぱり!」


 ミナが半泣きになった。


 ネリが眉間に皺を寄せる。


「で? 公爵様。うちの店主を王宮に連れていって、毒だの何だのに巻き込んだ責任は?」


 うちの店主。


 その言い方が、胸に少しだけ沁みた。


 ヴァルトは、ネリの勢いにもまったく動じず、短く答えた。


「重い」


「分かってるならいいよ」


「今後は警戒を増やす」


「店の前に兵隊を並べたら、また蹴るよ」


「蹴るのか」


「気持ちの上ではね」


「では、見えない位置に置く」


「そうしな」


 この二人の会話は、妙に成立する。


 王宮の貴族が見たら卒倒するだろう。パン屋の女将が辺境公爵へ説教し、辺境公爵が真面目に受けている。


 でも、今の私には、その光景がひどくありがたかった。


 王宮の白薔薇と蜜蝋に満ちた夜から戻ってきて、最初に聞くのがネリの小言とミナの泣きそうな声。


 それだけで、体の奥に染みついた冷たい香りが少し薄れる。


「中へ入りましょう」


 私は言った。


「話すことがあります」


 ネリが腕を組み直す。


「話すことしかなさそうな顔だよ」


「顔に書いてありますか」


「今日は『帰ったら日記を読む』って書いてあるね」


「怖いくらい当たっています」


「パン屋だからね」


「パン屋はそこまで分かる職業でしたか?」


「知らないのかい。東区のパン屋はだいたい何でも分かるんだよ」


 たぶん嘘だ。


 でも、少し笑えた。


 店内に入ると、夜明けの瓶は静かだった。


 棚には磨いた小瓶が並び、調香台の上には布がかけられている。ミナが待っている間に掃除してくれたのだろう。窓の隙間から入る夜風に、わずかに白樹皮の香りが揺れていた。


 王宮の香りとは違う。


 不揃いで、少し青くて、生活の匂いが混じっている。


 でも、呼吸ができる。


 私は調香台の引き出しから、祖母の日記を取り出した。


 革表紙は古く、角が擦れている。


 これを最初に見つけた時、私は祖母も私と同じだったのだと知って、少し救われた。


 今は、少し怖い。


 この日記には、祖母が死へ近づいていく足音も残っているかもしれない。


 ヴァルトは店の入口近くに立っていた。


 椅子を勧めても座らない。


 ネリは勝手に木箱に座った。


「公爵様が木箱を卒業したと思ったら、今度は私かい」


「座り心地はいかがですか」


「腰にくるね。公爵様、よく座ってたね」


「訓練している」


「木箱に?」


「違う」


 ネリが鼻で笑った。


 ミナは私の隣で、真剣な顔をしている。


「私も、聞いていいんでしょうか」


「怖い話になるわ」


「怖い話なら、外で想像している方がもっと怖いです」


 ミナは小さくそう言った。


 その声は震えていたが、逃げる気配はなかった。


 私は頷いた。


「分かったわ。ただし、無理だと思ったら奥へ行って」


「はい」


 私は日記を開いた。


 前王妃からの封書を見つけた後、何度も読んだページ。


 王宮礼拝香についての記録。


 しかし今夜の毒香事件を経て読み返すと、以前とは違う匂いが立ち上がるようだった。


 祖母の字は、私より少し癖がある。


 几帳面なところと、急に腹を立てて筆圧が強くなるところが混ざっている。


「ここです」


 私は指で行を追った。


「『王宮礼拝香。基本は白薔薇、蜜蝋、沈香、聖木粉。祈りの香としては整っている。だが、近年のものには余分な甘さあり。甘さの底に焦げ残り。黒蜜花の疑い』」


 ネリが眉をひそめた。


「黒蜜花ってのは?」


「南方の湿地に咲く花です。蜜のような甘い香りがありますが、少量で感情を強く揺らします。昔は舞台役者が涙を流すために使ったとも言われています。ただ、量を間違えると危険です」


「感情を強く揺らすって、怒りも?」


「はい。悲しみも、不安も、恐怖も、嫉妬も」


 ミナが小さく息を呑む。


「それを王宮の香に?」


「祖母はそう疑っていたようです」


 私は次のページをめくった。


「『黒蜜花を礼拝香に混ぜる意図。ひとつ、葬儀や儀式で悲しみを増幅させ、忠誠や罪悪感を誘導する。ひとつ、夜会で不安や嫉妬を煽り、特定の人物を孤立させる。ひとつ、長期使用により判断力を鈍らせる』」


 ネリが低く口笛を吹いた。


「香りってのは、飯より怖いね」


「飯も、毒を入れれば怖いでしょう」


「そりゃそうだ。でも飯は腹に入る。香りは、吸わないつもりでも入ってくる」


「ええ。だから怖いのです」


 ヴァルトが静かに言った。


「王宮は、長くそれを使っていた可能性がある」


「はい」


 私は頷いた。


 王宮の礼拝香。慈善夜会の香炉。前王妃の葬儀。王妃の招待状。セレーネの香水。


 形は違う。


 けれど、基礎の香りが同じだ。


 白薔薇と蜜蝋の下に、感情を揺らすものが隠れている。


「こちらも」


 私は別のページを開いた。


 祖母の字が少し乱れている。


「『白薔薇香油に混ざる幻惑草。記憶を曇らせる。強く作用すれば一晩の出来事を夢のように感じさせる。弱く長く嗅がせれば、違和感を覚えにくくなる』」


 ミナが青ざめた。


「記憶を……?」


「完全に消すわけではないと思うわ。でも、ぼんやりさせる。おかしいと思ったことを、まあいいかと思わせる」


 私は王宮の夜会を思い出した。


 あの場では、誰もがどこか鈍かった。


 セレーネの香水。

 ユリウスの苛立ち。

 王妃の冷えた微笑み。

 貴族たちのざわめき。


 毒香事件が起きるまで、誰も広間の礼拝香を疑わなかった。


 私でさえ、あまりに多くの香りが混ざっていて、最初は掴みきれなかった。


「王宮にいる人たちは、ずっとこれを嗅いでいる可能性があります」


「毎日かい?」


 ネリの声が低くなる。


「礼拝、茶会、夜会、儀式。全部ではないでしょうが、頻度は高いはずです」


「じゃあ、王妃様も?」


 ミナが恐る恐る尋ねた。


 私は少し黙った。


 王妃の香り。


 白薔薇。蜜蝋。冷たい薬草。温度のない微笑み。


「可能性はあります」


「黒幕じゃないんですか?」


「まだ分からないわ。王妃陛下は、何かを知っているかもしれない。見ないふりをしているかもしれない。あるいは、ご本人も香油で感情を鈍らされているのかもしれない」


 ネリが腕を組んだ。


「面倒だねえ。悪い奴が『私が悪い奴です』って札を下げて歩いてくれりゃ楽なのに」


「本当に」


「でも、そんな親切な悪党はパン屋にも来ないよ。ツケを踏み倒す奴ほど『明日払う』って真顔で言う」


「規模が急に身近ですね」


「悪党なんて、規模が違っても根っこは似たようなもんだよ」


 ヴァルトが少しだけ頷いた。


「同感だ」


「公爵様、ツケを踏み倒されたことあるのかい」


「兵糧を横流しされたことならある」


「それは物騒だね」


「首を飛ばした」


「職を、だよね?」


 ヴァルトは答えなかった。


 私はミナの耳を両手でふさぎたくなった。


「ヴァルト様」


「何だ」


「今の沈黙はよくありません」


「では、職を飛ばした」


「遅いです」


 ネリが腹を抱えて笑った。


 ミナは困ったように笑いながらも、少し顔色が戻っていた。


 こういう馬鹿げたやり取りが、毒の話の中に混じる。


 人はずっと緊張していられない。


 笑いは、時に解毒剤に似ている。


 私は日記へ視線を戻した。


 問題は、セレーネだ。


 妹の香水に含まれていた甘い薔薇、蜂蜜、白檀、焦げた砂糖。そこに黒蜜花と、別の依存性を持つ香料が混ざっている可能性がある。


 私は祖母の日記の余白に、今夜の記録を書き足した。


『セレーネの香水。甘薔薇、蜂蜜花、白檀、焦げ糖。黒蜜花の可能性。嫉妬、不安、独占欲を増幅。本人に調香知識なし。毒扇とは同系統だが、毒性は別』


 書いている途中で、手が止まった。


 嫉妬、不安、独占欲。


 それは、もともとセレーネの中にあった感情だ。


 香水がゼロから作ったものではない。


 そこが苦しい。


「リリアーナ」


 ヴァルトが声をかけた。


「妹のことか」


「……分かりますか」


「顔が変わった」


「どんな顔です」


「怒っているが、切り捨てられない顔」


 嫌なほど当たっている。


 私はペンを置いた。


「セレーネは、私を陥れました」


「ああ」


「濡れ衣を着せて、殿下を奪って、私を王宮から追い出すきっかけを作りました」


「ああ」


「それなのに、今夜、あの子が怖がっているのを見て……少し、胸が痛みました」


 ミナが黙ってこちらを見る。


 ネリも、今度は茶化さなかった。


「私は、おかしいのでしょうか」


「普通だろ」


 答えたのはネリだった。


 意外で、私は顔を上げる。


 ネリは木箱に座ったまま、指先についた小麦粉を払っていた。


「嫌いな奴が転んだら、ざまあみろと思う。でも血が出てりゃ、まあ布くらい貸すかって思う。人間ってのは、だいたいその程度には面倒にできてるんだよ」


「その程度」


「憎んでるからって、全部不幸になれと本気で思えるほど、人は器用じゃない。逆に、可哀想だからって、全部許せるほど出来てもいない」


 ネリは私を見た。


「あんた、妹を許さなくていいよ。でも、助けたいと思った自分まで責めなくていい」


 胸の奥が、きゅっと痛んだ。


 許さなくていい。


 助けたいと思ってもいい。


 その両方を、誰かに言ってほしかったのかもしれない。


 ヴァルトが静かに言った。


「事実は分けて考えろ」


 私は彼を見る。


「事実」


「君の妹は、君を傷つけた。それは事実だ」


「はい」


「香水で感情を煽られている可能性がある。それも事実だ」


「はい」


「だからといって、傷つけた事実は消えない。だが、香水の事実を無視すれば、次の被害が出る」


 ヴァルトの言葉は、相変わらず硬い。


 けれど、必要な硬さだった。


「許す必要はない。だが、調べる必要はある」


 私はゆっくり頷いた。


 そうだ。


 許すかどうかは、まだ先でいい。


 まずは、香りを分ける。


 セレーネ自身の嫉妬。

 香水で煽られた憎しみ。

 クラリモンド夫人の誘導。

 王宮香油の作用。


 全部を一つの瓶に入れてしまえば、何も見えなくなる。


「ありがとうございます」


「礼を言われることではない」


「いえ。言わせてください」


「分かった」


 このやり取りにも、少し慣れてきた。


 私は日記をさらにめくった。


 祖母が亡くなる前の数日分。


 ここから先は、読むたびに胸が重くなる。


 字が乱れている。ところどころインクが薄い。手が震えていたのだろうか。


『王宮香油、三種あり。礼拝用、夜会用、王妃私室用。共通基礎は白薔薇、蜜蝋、沈香。夜会用には黒蜜花。私室用には幻惑草多し。誰が配合を変えた? 礼拝局のみでは無理。女官経由の可能性』


 女官経由。


 クラリモンド夫人は、前王妃の手紙に「王妃付きの女官長」として名が出ていた。


 今は宰相夫人。


 王妃の側近。


 礼拝局、夜会管理、女官たち。


 全部に触れられる立場にいる。


「ここ」


 私は読み上げた。


「『黒真珠の扇。白薔薇の奥に焦げた花。あの女は香りを理解している。私ほどではないが、使い方を知っている。人の心を押す指のように香りを使う』」


 ネリが低く言った。


「その黒真珠の扇ってのが、宰相夫人かい」


「はい」


「ずいぶん嫌な女だね」


「まだ断定は」


「王宮では断定しない方がいいんだろうけど、パン屋では断定してもいいよ。嫌な女だ」


 私は少しだけ笑った。


 否定はしなかった。


 日記の次の行を読んだ時、笑いは消えた。


『もし私が死んだら、王宮の薔薇の間を調べなさい』


 その一文。


 以前も読んだ。


 だが、今夜は重さが違う。


 薔薇の間。


 前王妃の私室。


 前王妃から祖母への手紙にも、そこへ来てほしいと書かれていた。


 そして、紙片にはこうあった。


 香油の原液は、薔薇の間の青い棚に。


「薔薇の間」


 ヴァルトが言った。


 私が読む前から、彼もそのページを見ていた。


「はい」


「やはり、そこだな」


「王妃陛下の許可が必要ですか」


「今は封鎖されている。表向きは、前王妃の死後、誰も使っていない」


「表向き」


「王宮に表向きでない扉は多い」


 ヴァルトの声が低くなる。


「ただ、今夜の事件で、こちらが動けば向こうも警戒する。薔薇の間の証拠が残っているなら、消される可能性がある」


 私は日記を閉じた。


 胸の奥が重い。


 けれど、頭は冷えていた。


「急ぐ必要がありますね」


「ああ」


「でも、正面から許可を求めれば、先に片づけられる」


「そうだ」


 ミナが不安そうに言った。


「あの……それって、忍び込むってことですか?」


 私は黙った。


 ヴァルトも黙った。


 ネリが「沈黙は肯定だね」と言った。


「忍び込むのは危険です」


 ミナは真剣な顔で続ける。


「王宮ですよね? 捕まったら、リリアーナさんがまた悪者にされます」


「ええ」


「公爵様も、危ないんですよね?」


「私は慣れている」


「慣れているから危なくないわけではありません」


 ミナの声が、思ったより強かった。


 ヴァルトが少しだけ目を見開く。


 私はミナを見た。


 彼女は自分でも驚いたように口を押さえた。


「す、すみません」


「いや」


 ヴァルトは短く言った。


「正しい」


 ミナは目を丸くした。


 褒められ慣れていない子の顔だった。


 少し胸が痛む。


 彼女もまた、自分の正しさを誰かに認められる機会が少なかったのだろう。


「ミナの言う通りです」


 私は言った。


「ただ急ぐだけでは駄目です。証拠を取るには、準備が必要です。香りを記録する道具、封じる瓶、毒香を中和する布。王宮の見取り図も必要になります」


「見取り図なら用意する」


 ヴァルトが言った。


「王宮の?」


「ああ」


「持っているのですか?」


「北方の軍が王宮警備に入った時の古いものなら」


 ネリが目を細めた。


「公爵様、それ、持ってていいやつかい」


「必要なら問題ない」


「便利な言葉だねえ」


「契約上必要な環境整備だ」


「覚えた言葉をそうやって使うんじゃありません」


 私は思わず注意した。


 ヴァルトは少しだけ不服そうだった。


 その表情が、ほんのわずかに子どもじみて見えて、疲れているのに笑いそうになった。


 日付はもう深夜を過ぎていた。


 ミナは何度も欠伸を噛み殺している。ネリもさすがに眠そうだ。ヴァルトの顔色も、少し悪くなってきている。


 焦げた薔薇の匂いが濃い。


 王宮での緊張と毒香の残り香が、彼の呪いを刺激しているのだろう。


「ヴァルト様」


「何だ」


「今日の香を、まだ使っていませんね」


「後で」


「今です」


「まだ話が」


「今です」


 私が強く言うと、ネリがにやりと笑った。


「店主命令だね」


「患者対応です」


「私は患者ではない」


 ヴァルトが言う。


 私は調香台から黒い小瓶を取り出した。


「では、面倒な客です」


 ネリが吹き出した。


 ミナも笑った。


 ヴァルトは黙った後、静かに小瓶を受け取った。


「面倒か」


「かなり」


「そうか」


「でも、放っておく気はありません」


 自分で言って、少し顔が熱くなった。


 ヴァルトも、ほんの少しだけ動きを止めた。


 ネリがあからさまにこちらを見ている。


「ネリさん」


「何も言ってないよ」


「顔が言っています」


「パン屋だからね」


 便利すぎる。


 私は咳払いをした。


 ヴァルトは小瓶を懐にしまった。


「今夜はレイゼン邸へ戻る。明朝、王宮の見取り図を持ってくる」


「はい」


「君は寝ろ」


「命令ですか」


「助言だ」


「命令の匂いがしました」


「……努力する」


 彼は少し間を置き、言い直した。


「寝た方がいい。君が倒れると困る」


「それは、依頼に必要だから?」


 なぜそんなことを聞いたのか、自分でも分からなかった。


 ヴァルトは私を見た。


 灰色の瞳が、夜明けの瓶の小さな灯りを映している。


「それだけではない」


 また。


 この人は時々、短い言葉でこちらを困らせる。


 私は返事を探したが、うまく見つからなかった。


 代わりに、少しだけ頷いた。


「……寝ます」


「そうしろ」


「命令」


「寝た方がいい」


「よろしい」


 ヴァルトが、ほんの少し笑った。


 焦げた薔薇の匂いが、また少しだけ薄くなる。


 やはり、記録しておこう。


 笑うと呪いが薄まる可能性。


 本人にはまだ言わない。


 ヴァルトが帰った後、ネリも「朝の仕込みがある」と言ってパン屋へ戻った。ミナには奥の小さな寝台代わりの長椅子で休むよう言ったが、彼女は「リリアーナさんが寝るまで寝ません」と言い張った。


 頑固だ。


 私の周囲には、いつの間にか頑固な人が増えている。


 私は祖母の日記をもう一度開いた。


 最後に、今日の記録を書き加える。


『王宮慈善夜会。侯爵夫人、毒香により昏倒。毒扇と広間礼拝香に共通基礎。セレーネの香水とも同系統。黒蜜花、幻惑草の可能性。クラリモンド夫人、祖母について「余計な匂いを嗅ぎすぎた」と発言』


 そこでペンが止まった。


 祖母。


 あなたは、どこまで知っていたのですか。


 そして、何を嗅いで死んだのですか。


 私は最後に一行を書いた。


『薔薇の間を調べる』


 インクが乾くまで待つ。


 夜明けの瓶の中は静かだった。


 外では、王都の夜が眠っている。


 だが、王宮はきっと眠っていない。


 白薔薇の香りをまとった誰かが、今夜の失敗を悔やみ、次の香りを選んでいるはずだ。


 私は日記を閉じ、灯りを落とした。


 暗闇の中で、祖母の言葉が蘇る。


 香りは、言葉より正直。


 ならば私は、祖母が遺した香りを追う。


 たとえその先が、王宮で最も古い部屋に続いているとしても。


 薔薇の間。


 そこに、焦げた薔薇の根がある。


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