トリアエズナマとアイナメ
昨日までの嵐が、嘘のようだった。
雲はまだところどころ残っているものの、その隙間から覗く空は青い。
夏の日差しに照らされた道路には、昨日の雨が作った水溜まりが残っている。
台風一過。
湿った空気は重く、じっとしているだけでも額に汗が浮かんだ。
ガラガラ。
「大将!」
「おう」
「晴れてます!」
「……見りゃ分かるよ」
居酒屋【なみ】の厨房。
仕込みをしていた大将は、包丁を動かしたまま答えた。
今日からここで働くことになった女――藍虹子は、入口から見える青空を指差している。
「見てください。昨日とは全然違います!」
「そりゃ台風過ぎたからな」
「つまり!」
虹子が胸を張った。
「昨日の台風は、私とは何の関係もなかったということです!」
「…………」
大将の手が止まる。
「俺、まだ何も言ってねぇんだけど」
「昨日、台風女って言ったじゃないですか!」
「言ったな」
「ですから疑いを晴らしておこうと思いまして」
「疑ってねぇよ」
「本当に?」
「台風より、初出勤でお前が遅刻しねぇかの方が心配だったよ」
「失礼ですね。ちゃんと来たじゃないですか」
「そうだな」
大将は壁の時計を見る。
「五分前に」
「間に合ってるじゃないですか!」
「間に合ってるから何も言ってねぇだろ」
「じゃあ褒めてください」
「初出勤で時間通り来ただけで褒められると思うな」
「厳しい!」
「普通だよ。ほれ、着替えてこい」
「はーい」
返事だけはいい。
虹子が奥へ消えていく。
大将は小さく笑って、仕込みへ戻った。
昨日。
台風の中、この女は突然店へやってきた。
アルバイト募集の貼り紙を見て、面接に来たのだという。
腹を鳴らしたのでホッキを食わせた。
晩飯に、母親直伝のホッキ飯まで食わせた。
そして最後には、
『私、ここで働きます!』
と、なぜか本人が採用を決めた。
変な女だった。
けれど受け答えは悪くない。
飲食店の経験もある。
愛想もいい。
飯を美味そうに食う。
まあ。
試しに働かせてみてもいいだろう。
それくらいの気持ちだった。
◇
夕方。
暖簾を出して間もなく。
ガラガラ。
「おう、大将」
「いらっしゃい」
「いらっしゃいませ!」
「ん?」
入ってきた男が足を止めた。
何度も店へ来ている常連だった。
見慣れない声の主を見て、目を丸くする。
「なんだ大将」
「何?」
「女いるぞ」
「見りゃ分かるよ」
「どっから連れてきた?」
「昨日拾った」
「拾った!?」
「拾われてません!」
虹子がすかさず割り込んだ。
「今日から働くことになりました。藍虹子です。よろしくお願いします」
「へえ、虹子ちゃん」
常連は嬉しそうにカウンターへ腰を下ろした。
「よかったなぁ、大将。やっと店に華ができたじゃねぇか」
「余計なお世話だ」
「大将一人じゃむさ苦しかったからな」
「帰れ」
「入って三十秒で帰そうとすんなよ」
虹子がくすくす笑っている。
「大将、常連さんにもそんな感じなんですね」
「客だからって何でも言うこと聞くと思うなよ」
「それ客商売として大丈夫ですか?」
「二十年近く大丈夫だったから大丈夫だ」
「説得力があるような、ないような……」
常連が二人のやり取りを見て笑った。
「もう馴染んでんじゃねぇか」
「まだ二日目です」
「昨日は客みたいなもんだけどな」
「面接です!」
「飯食って帰っただけだろ」
「ちゃんと面接もしました!」
「途中からほとんどホッキ食ってただろ」
「細かいことはいいんです」
「お前が言うな」
常連がカウンターを軽く叩いた。
「まあまあ。虹子ちゃん」
「はい」
「トリアエズナマ」
「はい!」
虹子が答え――。
止まった。
「…………」
「どうした?」
「……本当に言うんですね」
「何を?」
虹子が、妙に感動したような顔をしている。
「トリアエズナマ」
「…………?」
「居酒屋で唱えられる伝説の呪文……!」
「なんだそりゃ」
常連が大将を見る。
大将も常連を見る。
「大将、この子大丈夫か?」
「俺も今ちょっと不安になった」
「大丈夫です!」
「じゃあ早く生持ってこい」
「はい!」
虹子は冷蔵庫へ向かいながら、まだ少し楽しそうだった。
「いやぁ、本当に言うんだ……」
「聞こえてるぞ」
「すみません!」
冷えたジョッキへビールを注ぐ。
細かな泡が持ち上がり、白い層を作る。
「お待たせしました」
「おう、ありがと」
常連はジョッキを持ち上げ、そのまま喉へ流し込んだ。
「くぅーっ」
「美味しそうに飲みますねぇ」
「仕事終わりの一杯だからな」
虹子が感心している横で、大将が声をかける。
「で、今日は何食う?」
「何ある?」
「アイナメ入ってるぞ」
「お、いいな」
返事は早かった。
「なめろうにしてくれ」
「あいよ」
「アイナメ?」
虹子が首を傾げる。
「知らねぇ?」
「名前は聞いたことあるような……」
大将は冷蔵庫から魚を取り出した。
茶褐色の身体に、不規則な模様。
どちらかといえば地味な魚だ。
「これ」
「へえ……」
虹子がカウンター越しに覗き込む。
「これがアイナメ」
「そう」
「この辺で獲れるんですか?」
「獲れるよ」
「またですか」
「何が?」
「昨日から、この町なんでも出てきません?」
「港町なんだから魚くらい出るだろ」
「そういうものなんですかねぇ」
「この辺じゃ珍しくねぇぞ」
ビールを飲んでいた常連も口を挟む。
「釣りする奴なら知ってる魚だな」
「へえ……」
虹子はアイナメを眺める。
「でも、スーパーではあんまり意識したことないです」
「まあ、全国どこでも主役張ってる魚じゃねぇからな」
大将はまな板へアイナメを置いた。
鱗を落とす。
頭を落とし。
腹を開く。
骨に沿わせて包丁を走らせると、白い身が現れた。
「綺麗な身ですね」
「白身だからな」
三枚におろす。
骨を確認し、皮を引く。
その身を細かく切り始めた。
「大将」
「何?」
「なめろうってアジじゃないんですか?」
「別に何の魚でもいいよ」
「そうなんです?」
「うちじゃ余った魚でも作るしな」
「また適当な……」
「適当でうめぇのが一番楽なんだよ」
身を細かくする。
ネギ。
生姜。
そして味噌。
大将が冷蔵庫から容器を取り出したところで、虹子が黙った。
「…………」
「何?」
「その味噌」
「味噌だよ」
「それは分かります」
虹子がラベルを見る。
「普通の出汁入り味噌ですね」
「そうだけど」
「こういう店のなめろうって、もっとこだわりの味噌とか使うのかと」
「使わねぇよ」
「即答」
「高ぇし」
「そこですか!?」
「出汁入りなら味ついてるし、簡単でうめぇぞ」
「夢がないなぁ」
「母ちゃん直伝だ」
「…………」
虹子が黙る。
「何?」
「その一言出されると、なんか否定しづらいんですよ」
「じゃあ否定すんな」
「はい」
二本の包丁を持つ。
トントントントントン。
小気味よい音が響いた。
白い魚の身に味噌が混ざる。
ネギと生姜。
それだけ。
秘伝の調味料なんてものはない。
特別な味噌でもない。
昔からスーパーで買っていた、出汁入りの味噌。
大将にとっては、それで十分だった。
「ほれ」
「待ってました」
皿を常連の前へ置く。
常連は箸でなめろうを一口。
「うん」
そしてビール。
「うめぇ」
「だろ」
それだけだった。
料理漫画なら、もう少し気の利いた感想が必要なのかもしれない。
けれど、ここはそんな店ではない。
食って。
うまければ。
酒を飲む。
それでいい。
「…………」
虹子が皿を見ている。
「食いたい?」
「仕事中です」
「食いたそうだけどな」
「食べてません」
「聞いてねぇよ」
「顔に出てました?」
「出てた」
「……賄いに期待します」
「もう賄い目当てになってんじゃねぇか」
「昨日のホッキ飯が悪いんです」
「俺のせいかよ」
常連が声を上げて笑った。
◇
夜。
最後の客が店を出た。
「ごちそうさん。また来るわ」
「ありがとうございました!」
「虹子ちゃん、頑張れよ」
「はい!」
「大将にいじめられたら言えよ」
「誰に言うんだよ」
「俺」
「お前に何ができんだよ」
「話くらい聞ける」
「役に立たねぇな」
「十分です!」
「お前も乗るな」
笑いながら常連が帰っていく。
引き戸が閉まった。
大将は暖簾を下ろす。
店内が静かになった。
外から聞こえるのは、夏の虫の声。
昨日の風雨が嘘のような夜だった。
「つっかれたぁ……」
虹子がカウンター席に腰を下ろした。
「初日から客席座るなよ」
「もう閉店したじゃないですか」
「片付け残ってるぞ」
「終わりました!」
「早いな」
「賄いが待ってますから」
「やっぱりそれが目的じゃねぇか」
「労働には適切な報酬が必要です」
「給料払うんだけど」
「それとこれは別です」
「強欲だなぁ」
大将は笑いながら冷蔵庫を開けた。
昼間に捌いたアイナメが少し残っている。
「あ」
虹子が目ざとく見つけた。
「アイナメ」
「おう」
「なめろうですか?」
「いや」
大将は残った身を取り出す。
「今日はこれ」
包丁で細かく叩く。
「結局、同じことしてません?」
「まあ見てろ」
細かくした魚へ、ネギと生姜。
そして。
「また出汁入り味噌」
「悪いか」
「いえ。もう慣れました」
「二日目で何に慣れてんだよ」
混ぜた身を丸くまとめる。
平たく形を整えた。
「……ハンバーグ?」
「そう」
「肉入ってませんよ」
「魚のハンバーグだからな」
「魚のハンバーグ」
「うちじゃそう呼んでた」
フライパンを火にかける。
油を薄く引いて。
ジュウッ。
魚のハンバーグを置く。
途端に、静かな店内へ焼ける音が広がった。
少しずつ香ばしい匂いが立ってくる。
魚。
味噌。
生姜。
焼けた味噌の香りは、それだけで白い飯が欲しくなる。
「……いい匂い」
「簡単だぞ」
「大将、本当に簡単な料理好きですね」
「面倒なの嫌いなんだよ」
「料理人が言っていいんですか、それ」
「上等な店じゃねぇんだからいいんだよ」
大将はハンバーグをひっくり返した。
こんがりと焼き色がついている。
「でも」
虹子がスマートフォンを取り出した。
「これ、絶対ちゃんとした名前ありますよ」
「魚のハンバーグ」
「それは大将の家での名前でしょう?」
「母ちゃんもそう呼んでた」
「ちょっと待ってください」
指が画面を滑る。
「なめろう……焼く……魚……」
「ほんとに調べるのな」
「気になるじゃないですか」
「食えりゃ同じだろ」
「大将はそうでしょうけど、私は気になるんです」
しばらくして。
「あ」
「何?」
「ありました」
「何て?」
「『さんが焼き』」
「さんが焼き?」
「はい」
虹子が画面を読む。
「なめろうを焼いた料理で、房総半島の郷土料理として知られているみたいですね」
「へえ」
「漁師料理が由来で――」
「へえ」
「…………」
「何?」
「興味あります?」
「あるよ」
「今絶対なかったでしょう」
「さんが焼きね」
「はい」
「覚えた」
「本当ですか?」
「たぶん」
「明日聞きますからね」
「うちじゃ魚のハンバーグでいいよ」
「もう忘れる気じゃないですか!」
「だって母ちゃんが魚のハンバーグって言ってたし」
「まあ……」
虹子はスマートフォンを置いた。
「それなら、それが大将にとっての名前なんでしょうね」
「そういうこと」
焼き上がったハンバーグを皿へ。
炊いてあった白飯もよそう。
「ほれ」
「いただきます」
虹子が箸を入れる。
表面は香ばしく焼けている。
中はふっくらとして、魚の身がほどけた。
一口。
「…………」
「どう?」
「普通に美味しい」
「だろ」
「褒めてますよ?」
「分かってるよ」
もう一口。
味噌の塩気。
ネギと生姜。
噛めば、ちゃんとアイナメの味もする。
「ご飯に合いますね」
「こういうのは、それでいいんだよ」
大将も箸を伸ばした。
「俺、小さい頃これ好きだったんだよ」
「へえ」
「魚食えなかったから」
「…………え?」
虹子の箸が止まる。
「大将が?」
「そう」
「魚を?」
「そう」
虹子は大将を見る。
それから厨房を見る。
今日一日で何匹もの魚を捌いていた男だ。
「……嘘でしょう?」
「ほんとだよ」
「港町ですよ、ここ」
「知ってるよ。生まれ育ってんだから」
「どのくらい嫌いだったんです?」
「骨がダメでな」
「まあ、子供なら」
「ちょっとでも骨あると食えなかった」
「なるほど」
「うなぎも無理」
「うなぎも!?」
「小骨気になって」
「重症じゃないですか」
「刺身も食えなかった」
「港町に生まれた意味あります?」
「さっきからそれ好きだな、お前」
「だって!」
大将は笑いながら、魚のハンバーグを一口食べた。
「でも、これなら食えたんだよ」
「魚なのに?」
「細かく叩いてあるからな。骨も気にならなかったんだろ」
虹子も自分の皿を見る。
アイナメだったもの。
なめろうになって。
今は魚のハンバーグになっている。
「じゃあ」
「ん?」
「お母さん、大将が魚を食べられるように作ってくれてたんじゃないですか?」
「さあなぁ」
「違うんですか?」
「知らん」
大将は白飯を口へ運ぶ。
「余った魚がもったいねぇから、どうにか俺に食わせようとしただけかもしれんし」
「それはそれで、お母さんじゃないですか」
「そうか?」
「そうですよ」
「会ったことねぇだろ、お前」
「あ」
「適当なこと言いやがって」
「いい話だったのに!」
「勝手にいい話にすんなよ」
虹子は少し不満そうな顔をして。
またハンバーグを一口食べた。
「でも美味しい」
「だろ」
「出汁入り味噌なのに」
「出汁入り味噌を馬鹿にすんな」
「してませんって」
「簡単でうめぇんだから十分だよ」
「はいはい」
虹子は白飯を頬張った。
確かに。
至極の一品、なんてものではない。
これを食べるために、遠くから客が押し寄せることもないだろう。
普通の魚。
普通の味噌。
普通の白飯。
昔、母親が家で作っていたものを。
今は息子が作っている。
ただ、それだけの料理だ。
「大将」
「ん?」
「私、ここに就職した判断、やっぱり間違ってなかったです」
「だから何回言わせんだよ」
「はい?」
「決めたのはお前じゃねぇ」
「でも採用したのは大将ですよね?」
「そうだけど」
「じゃあ、私の見る目があったということで」
「なんでそうなるんだよ」
虹子が笑う。
大将は呆れながら、残った白飯を口へ運んだ。
外は、昨日とは違って穏やかな夜だった。
風もない。
雨もない。
夏の虫が鳴いている。
「あ、そうだ大将」
「何?」
「明日の仕事終わり、ちょっと出かけようと思ってるんですよ」
「ふーん」
「この辺、まだ全然知らないので。少し歩いてみようかなって」
「そうか」
「天気も良さそうですし」
「…………」
「なんですか?」
「いや」
大将は窓の外を見た。
綺麗に晴れている。
「傘、持ってこようかなと思って」
「なんでですか!?」
「なんとなく」
「明日も晴れです!」
「そうか」
「天気予報も確認しますから!」
「そうかそうか」
「その顔やめてください!」
店の中に虹子の声が響く。
この頃の大将は。
まだ、本気で彼女が雨を呼ぶなどとは思っていなかった。
――まだ、この頃は。
アイナメも刺身美味しいですよね、でも、ビールならナメロウかなぁ
記憶にはないんですが、母は自分のためにうなぎの骨も避けてくれたらしいです……




