台風女とホッキ飯
ガタガタ、と。
風に押されて、店の引き戸が鳴った。
雨は夕方からずっと降り続いている。
時折、強い風が吹くたびに、軒先の暖簾がばたばたと暴れた。
台風が近づいている。
幸い、この辺りに大きな被害が出るようなものではなさそうだが、それでも好き好んで外を歩くような天気ではない。
案の定、今日は客が一人も来なかった。
「……今日はもう来ねぇな」
大将はカウンターの中から、窓の向こうを眺めた。
雨粒で外の景色が滲んでいる。
いつもなら仕事帰りの車が行き交う時間だが、今日は通る車もまばらだった。
こんな日に暖簾を出していても仕方がない。
少し早めに閉めてしまおう。
そう思って、時計を見る。
「腹減ったな」
どうせなら、先に晩飯でも作るか。
大将が冷蔵庫へ向かおうとした、その時だった。
ガラガラッ。
「すみませーん!」
「うおっ!?」
本当に人が入ってきた。
しかも、若い女だった。
年は二十代後半くらいだろうか。
濃い色の髪が雨で濡れ、頬に張り付いている。
傘は持っている。
持ってはいるのだが、横から吹きつける雨には、ほとんど役に立たなかったらしい。
「まだ、やってますか?」
「……やってるけど」
大将は女の後ろを見る。
開いた戸の向こうでは、街灯の光が雨で白く霞んでいた。
「こんな日に、よく来たな」
「家を出た時は、もうちょっとマシだったんですよ」
「いや、家出る時点で台風来てただろ」
「まあ……そうなんですけど」
女は困ったように笑った。
「とりあえず入れ。店ん中まで水浸しになる」
「あ、すみません!」
慌てて引き戸を閉める。
途端に、外の雨音が少し遠くなった。
それでも風が吹くたび、戸がカタカタと震えている。
「ほれ」
大将は布巾を一枚放った。
「ありがとうございます」
「髪くらい拭いとけ。風邪引くぞ」
「優しいんですね」
「店で倒れられたら面倒なだけだよ」
「前言撤回します」
「早えな」
女は髪を拭きながら、店内を見回した。
店は広くない。
カウンターがあり、その内側がそのまま厨房になっている。
魚を捌くまな板。
包丁。
酒の瓶。
鍋やフライパン。
客と話しながら、ほとんどの料理をここで作れる。
奥には小上がり。
普段は数人で使う座敷だが、詰めれば十人程度の宴会ならできる。
昔からこの辺りにある、何の変哲もない居酒屋だった。
「一人?」
「あ、いえ」
「待ち合わせか?」
「そうじゃなくて……」
女が入口近くを指差した。
そこには一枚の紙。
――アルバイト募集。
自分で貼ったものだった。
「あれを見て来ました」
「…………」
「面接、お願いできますか?」
「今日?」
「はい」
「台風だぞ?」
「知ってます」
「知ってて来たの?」
「来ちゃいました」
「来ちゃいました、じゃねぇよ」
思わず笑ってしまった。
変な女だ。
「まあいいや。座れよ」
「はい」
女はカウンター席に腰掛けた。
大将はその向かい。
正確にはカウンターの内側なので、面接というより客と話しているような格好だった。
「飲食店の経験は?」
「あります。接客もできますよ」
「料理は?」
「食べる方なら得意です」
「聞いてねぇよ」
「作る方は簡単なものくらいですね」
「まあ、給仕が中心だからいいけどな」
受け答えは悪くない。
愛想もある。
何よりよく表情が動く。
少しからかえば不満そうな顔をするし、話を振ればすぐ笑う。
接客には向いているかもしれない。
「酒は?」
「飲めます」
「お前が飲めるかじゃねぇよ」
「あ、そっち」
「面接で酒豪アピールしてどうすんだ」
「居酒屋なので重要かなと」
「重要じゃねぇよ」
そんな話をしていた時だった。
ぐぅぅぅ。
妙にはっきりした音がした。
「…………」
「…………」
外では雨。
店内では沈黙。
女がゆっくりと顔を逸らした。
「今の、お前?」
「……聞かなかったことにしてもらえませんか」
「無理だな。はっきり聞こえた」
「忘れてください」
「腹減ってんの?」
「…………はい」
「素直でよろしい」
「お昼から何も食べてなくて」
「この時間まで?」
「面接の前に食べるのもどうかなって」
「台風より面接前の飯を気にしたのかよ」
大将は呆れながら時計を見る。
そういえば。
自分も飯を食おうとしていたところだった。
「なんか食うか?」
「え?」
女がこちらを見る。
「いいんですか?」
「俺も晩飯にしようと思ってたからな」
「でも、面接中ですよね?」
「腹鳴らされながら面接する方が気になるわ」
「……やっぱり忘れてください」
「無茶言うな」
大将は冷蔵庫を開けた。
さて、何を食うか。
中を覗いて、目についたものを取り出す。
大きな二枚貝。
それを見た女が、少し身を乗り出した。
「ホッキ?」
「おう」
「ホッキって、もっと北の方じゃないんですか?」
「北でも獲れるよ。北海道とか有名だな」
大将はホッキを手に取る。
「でも、この辺がホッキ漁の南限なんだよ」
「へえ……」
「こっちのは柔らかくて、甘くてうめぇぞ」
「本当ですか?」
「なんだ。疑ってんのか?」
「私、去年北海道行ってますからね」
「だから何だよ」
「海の幸、いっぱい食べてきました」
少し得意そうだった。
「ウニとか、イクラとか、カニとか」
「そりゃよかったな」
「反応薄くないです?」
「北海道のウニと戦う気ねぇもん、俺」
「でも舌は肥えてますよ」
「言うねえ」
女はスマートフォンを取り出した。
何やら素早く操作する。
「……あ」
「何?」
「本当だ」
「何が」
「この辺、ホッキ漁の南限なんですね」
「だから言ったろ」
「しかも、身が柔らかくて甘みが強い……」
「だから言ったろ」
「二回言わなくても聞こえてます」
「最初から信用しろよ」
「確認は大事です」
「面接中にスマホ弄ってる奴が言う台詞かね」
「あ」
今さら気づいたらしい。
大将は苦笑しながら、ホッキを捌き始めた。
殻を開き、身を外す。
内臓を取り除いて、水で丁寧に洗う。
開いた身へ包丁を入れ――。
バンッ!
「ひゃっ!?」
女の肩が跳ねた。
「な、何してるんですか!?」
「何って、締めてんの」
「いきなり叩きつけるから、びっくりしたじゃないですか!」
「ホッキの方がびっくりしてるよ」
「可哀想!」
「今から食う奴が言うな」
「それはそれです」
「どういう理屈だよ」
まな板の上で、ホッキの身がきゅっと縮んでいる。
「こうすると身が締まるんだよ」
「へえ……」
女がカウンター越しに覗き込む。
大将は身を切り分けた。
半分は、そのまま。
黒っぽい色を残した生のホッキ。
もう半分は、沸かした湯へ。
さっと。
本当に一瞬だけくぐらせる。
「あっ」
女が声を上げた。
黒っぽかった部分が、鮮やかな赤へ変わった。
「赤くなった!」
「熱入れると色が変わるんだよ」
「私の知ってるホッキになりました」
「寿司屋なんかで見るのは、こっちの方が多いからな」
大将は二種類を同じ皿に盛った。
黒と赤。
同じ貝なのに、見た目だけなら別物にも見える。
「ほれ」
「わ……」
「食ってみ」
「いただきます」
まず、黒い方。
生のホッキを一切れ。
女が口へ運ぶ。
「…………」
コキ。
コキ。
噛むたび、独特の歯ごたえが返ってくる。
「あ、すごい」
「どう?」
「コキコキしてる」
「生はその食感がうめぇんだよ」
女はもう一度噛む。
磯の香り。
貝そのものの味。
噛むほどにじわりと広がっていく。
「美味しい……」
「だろ?」
「じゃ、赤い方も」
今度は湯通しした方。
一口。
「…………あ」
女の目が少し見開いた。
「甘い」
「違うだろ?」
「全然違う」
もう一度、確かめるように噛む。
「こっちの方が、甘みが強く感じます」
「ちょっと熱入れると甘みが出るんだよ。やりすぎると硬くなるから、さっとでいい」
「へえ……」
黒。
赤。
女は交互に食べる。
「生はコキコキした食感が美味しくて……」
黒を一口。
「こっちは甘い」
赤を一口。
「同じホッキなのに、こんなに違うんですね」
「どっちもうめぇだろ?」
「はい!」
即答だった。
そして。
女は皿に残った二色のホッキを見ながら、不思議そうに首を傾げた。
「でも……」
「ん?」
「なんで、こんなに美味しいのに有名じゃないんですか?」
「知らねぇなぁ?」
「知らないんですか」
「俺に聞かれてもなぁ」
大将は残ったホッキを手に取る。
「この町、なんでもうめぇんだけどなぁ」
「それ、地元の人だから言ってません?」
「そうかもしれん」
「そこは否定してくださいよ」
大将は笑った。
ホッキに包丁を入れ、今度は少し小さめに切っていく。
それを小鍋へ。
醤油。
酒。
砂糖。
火にかける。
しばらくすると、鍋の中で煮汁がふつふつと踊り始めた。
甘じょっぱい匂いが立ち上がる。
女は再びスマートフォンを眺めていた。
「今から作るなら、時間かかりますねー」
「何が?」
「ホッキ飯ですよね?」
「そうだけど」
「ご飯、今から炊くんでしょう?」
「いや。もう炊けてる」
「でも炊き込みご飯ですよね?」
「混ぜご飯だよ」
「え?」
女がスマートフォンから顔を上げる。
「混ぜご飯」
「え?」
「何回言わせんだよ」
「だって、ホッキ飯は炊き込みご飯ってAIが言ってますよ!」
「知らねぇよ」
「AIに知らねぇよって言いました、この人」
「うちは混ぜご飯なの」
大将は鍋の火を少し弱める。
「母親直伝。うちの家庭の味だよ」
「お母さんの?」
「そう」
それ以上、大将は何も言わなかった。
昔からそうだった。
ホッキが手に入れば、母親が鍋で甘じょっぱく煮る。
炊きたての飯に煮汁を混ぜる。
最後にホッキを加えて、さっくりと合わせる。
子供の頃から食べてきた。
だから大将にとって、ホッキ飯とはこれだった。
「家庭の味なら、AIに聞いても分かりませんね」
「そりゃそうだ」
鍋の火を止める。
炊きたての白飯を大きな器へ。
そこへ、まだ熱い煮汁を回しかける。
白い米がじわり、じわりと茶色く染まっていく。
甘い醤油の香り。
その奥に、ホッキの香り。
煮上がった身を加え、しゃもじで米を潰さないよう、切るように混ぜていく。
湯気が立った。
「うわ……いい匂い」
「ほれ」
茶碗へたっぷりと盛る。
女の前へ。
「いただきます」
湯気を軽く吹いて、一口。
「…………」
大将は何も言わず、その顔を見る。
もう一口。
「どうよ」
「……もっと上品なのが出てくるかと思いました」
「悪かったな」
「まだ途中ですって」
女は箸を止めない。
「これ、美味しいですね」
少し濃い。
甘じょっぱい。
けれど、その濃さの中にホッキの甘みがしっかり残っている。
煮汁を吸った米だけでも、どんどん食べられる。
「これ、おかずいらないですよ」
「だろ?」
大将は少しだけ得意になる。
「おむすびとかにしてもうめぇんだよな」
「ああ、それ絶対美味しい」
「冷めても結構いけるぞ」
「いいなぁ……」
「ほれ」
大将は、もう一つ用意していた椀を差し出した。
「お吸い物?」
「ホッキの貝ひも。余ったからな」
澄んだ汁。
その中に細く切った貝ひもが浮いている。
女が椀を持ち上げる。
一口。
「…………」
濃いめのホッキ飯を食べた後の口に、優しい出汁が広がった。
しょっぱさがすっと引いていく。
また飯が欲しくなる。
女は何も言わず、もう一口すすった。
「元が漁師の街だからかな」
大将も自分の茶碗を手に取った。
「うちの味付けって、基本甘じょっぱいんだよ」
ホッキ飯を食べる。
吸い物をすする。
「こういう優しい味の汁物があると、ちょうどいいだろ?」
女は答えなかった。
ただ。
こくこく。
何度も頷いた。
そしてまた、飯を食べる。
「……気に入った?」
こくこく。
「口に物入れたまま喋んなよ」
こくこく。
「それしかできねぇのか」
ようやく飲み込む。
「美味しいです!」
「そりゃよかった」
やがて。
茶碗は綺麗に空になった。
お吸い物も、一滴残らず。
「ごちそうさまでした」
「おう」
女は満足そうに息を吐く。
そして突然、妙に真剣な顔になった。
「決めました」
「何を?」
「私、ここで働きます!」
「…………」
大将は箸を止めた。
「いや」
「はい」
「決めるの……お前じゃねぇだろう……」
「美味しい賄いって大事ですよ?」
「だから採用するか決めるのは俺だよ」
「じゃあ採用してください」
「急に雑になったな」
「働きますから!」
「だから順番がおかしいんだって」
大将は呆れながらも、笑っていた。
台風の日に面接へ来る。
勝手にスマートフォンで調べ物を始める。
腹を鳴らす。
人の晩飯を食べる。
そして勝手に就職を決める。
変な女だった。
でも。
まあ。
悪い奴ではなさそうだ。
接客もできると言っている。
愛想も悪くない。
何より――。
飯を美味そうに食う奴を、大将は嫌いではなかった。
「……そういや」
「はい?」
大将は、ふと思った。
ずいぶん長いこと話している。
面接までして。
ホッキを食わせて。
晩飯まで一緒に食った。
なのに。
「ここまで話しといて、名前すら聞いてねぇんだけど」
「え?」
大将は窓の向こうを見る。
相変わらずの雨。
街灯の下で、風に煽られた雨粒が斜めに走っている。
そして。
目の前の女へ視線を戻した。
「で、名前は?」
一拍置いて。
「台風女さん」
「私は雨女じゃありません!」
即答だった。
「…………」
「…………」
「いや」
大将は首を傾げる。
「俺、雨女とは言ってねぇんだけど」
「あ」
女の顔が固まった。
「お前、自覚あんの?」
「ありません!」
「じゃあ、なんで即否定したんだよ」
「違います! 今のは言葉の綾です!」
「何の綾だよ」
「とにかく!」
女は誤魔化すように姿勢を正した。
「虹子です」
「にじこ?」
「はい」
さっきまでの慌てた顔から一転。
彼女は、にこりと笑った。
「藍 虹子です」
「藍、虹子ね」
「覚えてくださいね、大将」
「採用された気でいるなぁ……」
「ダメですか?」
「…………」
大将は答えず、窓の外へ目を向けた。
雨はまだ降っている。
風もまだ強い。
台風が過ぎるまでには、もう少しかかりそうだった。
後に。
居酒屋【なみ】の常連たちは、彼女に妙な二つ名を付けることになる。
けれど。
それは、もう少し先の話。
この台風の夜。
小さな田舎街の。
小さな居酒屋【なみ】に。
一人の店員がやって来た。
――藍 虹子。
本人曰く。
雨女ではない。
作者はホッキは生の刺身が一番好きです




