第95話 「静かな終戦」
終戦は、宣言されなかった。
ただ、世界中の空で、裂け目が、一つ、また一つと、閉じていった。燃料を失った門は、理央いわく「兵糧攻めにあった城」のように、静かに、順番に、店じまいをしていった。
最後の夜から一週間後、UNIT-Xは短い声明を出した。
『地球上の全ての門の閉鎖を確認した。……ただし、警戒は解かない。我々は「勝った」のではなく、「守り切った」のである。この違いを、機構は永く記憶する』
起草者は、聞くまでもない。ジュネーブの額縁が、一枚、増えたそうだ。
――ヴォルフは、生きていた。
五十年分の魔力と堆積を失った老魔導師は、もう、魔法の一つも使えない、ただの痩せた老人だった。特別収容施設の、ガレスの三つ隣の房で、彼は静かに、回復を待っていた。
そして、回復した彼が最初に求めたものは、水でも飯でもなく――紙と、ペンだった。
「……何を書いているんだ、あの爺さんは」と、面会帰りの俺に美咲が聞いた。
「全部だそうだ」
「全部?」
「五十年の、全部。計画の全容。アンカーの座標。門の術式。共犯者。資金の流れ。……あと、鉄山師匠の五十年の記録と、奥さんと娘さんの思い出も、書いてるらしい。『記録を消して回った男の、最後の仕事は、記録を残すことじゃろう』……だとさ」
――そして、その週、世界を二度目にざわつかせる発表があった。
記者会見場に立ったのは、黒いスーツの、銀縁眼鏡の弁護士だった。
「一ノ瀬氷雨です。本日付で、ヴォルフ氏の弁護人を受任しましたので、お知らせします」
会見場が、爆発した。
『先生!! 正気ですか!! 相手は世界を滅ぼしかけた男ですよ!!』
「はい。ですから、裁判になります。裁判には、弁護人が必要です」
『世論を敵に回しますよ!! あなたは英雄側の弁護士でしょう!!』
「私は、依頼人の弁護士です。一年前、私の別の依頼人は『法的に存在しない』十七歳でした。誰も彼の隣に立たなければ、彼は今も、存在しないままだったでしょう」
氷雨は、いつも通り、眼鏡を押し上げた。
「……皆さんに、一つだけ、覚えておいてほしいことがあります。ヴォルフ氏の五十年は、彼の裁判に弁護人が一人いれば、始まらなかったかもしれない五十年です。あの戦争の、本当の再発防止策は、ミサイルでも結界でもない。――どんなに憎まれている被告人の隣にも、必ず一人、立つこと。それを、二つの世界の当たり前にすることです。私はその当たり前の、最初の一人になります。以上です。質問は手短に」
その夜、与太郎邸の茶の間で、俺は氷雨に頭を下げた。
「……すまん。俺が勝手に約束した。『あんたの隣に立つ奴なら、もう、いる』と」
「知ってる。中継で聞いてたわよ、戦場の口約束」
氷雨は、湯呑みを傾けて、ふん、と鼻を鳴らした。
「言っておくけど、あなたのためじゃない。……あの供述書、読んだの。『平民の申し立ては、貴族二名の連署なくば、証拠能力を持たぬ』。……法律家として、あんな条文を放置した五十年前の同業者たちの尻拭いを、誰かがしなきゃいけないでしょう」
「……つくづく、いい軍師だよ、あんたは」
「軍師じゃなくて、弁護士。……ところで顧問料の未払いが十四ヶ月分あるんだけど、いつ払うの?」
「……出世払いで」
――街は、驚くべき速さで、日常を取り戻しつつあった。
商店街のアーケードが直り、コロッケ屋の行列が戻り、銭湯の煙突から湯気が上がった。あさひな食堂は連日満員で、退院した陽菜の父親が、厨房で娘の生姜焼きを食べて、黙って泣いたらしい。
――何もかもが、元に戻っていく。
元に戻らないものが、一つだけ、あることを、まだ誰も口にしないまま。
(第95話・了)




