第94話 「これが、俺の17年だ」
道は、天へ、通った。
何億の記憶が束なった金色の光が、白い巨人の防御膜を、一条、貫いたのだ。幅、三メートル。持続、推定四十秒。世界がくれた、たった一本の活路。
俺は、走った。
光の道を、天へ向かって。両脇では白い消去の奔流が渦巻き、道を閉じようと軋みを上げる。相棒が全力で道の内壁を支え、俺の脚は、この一年で最速の拍子を刻んだ。
『――無駄ジャ』
巨人の声が、天から降る。手続きのような、あの声。
『記録ハ、消去サレル。何度、書キ直ソウト。人ノ約束ハ、脆イ。人ノ記憶ハ、風化スル。永遠ニ、書キ直シ続ケルツモリカ』
「――ああ、そのつもりだ!!」
俺は、走りながら、吼え返した。
「風化したら、また語る!! 破れたら、また書く!! 間違えたら、また直す!! それが人間の流儀だ!! 完成しないことは、恥じゃない!! ――直せることが、誇りなんだよ!!」
軍師の受け売りだ。文句があるか。
二十秒。巨人の胸部、防御の最終層。白い光の装甲が、幾重にも俺を阻む。……ここからは、道はない。ここからは、拳で通る。
魔法で、装甲の継ぎ目に楔を打つ。開いた隙間に、体を捻じ込む。壁を編んで足場にし、足場を蹴って、更に奥へ。魔法は道を作る。決めるのは、拳。――魔拳一体、最後の実戦。
三十五秒。
最深部に、それは、あった。
白い光の只中に浮かぶ、心臓。古い、古い、銀の腕輪。五十年、一人の男の心を喰い続け、ついには男そのものを呑み込んだ、始まりの輪。その光の奥に、俺は、確かに見た。輪に囚われたまま、目を閉じている、老魔導師の姿を。
……じいさん。あんたの裁判が、待ってる。
あんたの隣に立つと決めてる、理屈っぽい弁護士が、待ってる。
だから――
「――起きろ!!」
俺は、最後の跳躍の頂点で、右の拳を、引き絞った。
この拳は、魔法を捨てた日に選んだ拳だ。
大陸中の師匠たちに折られ、鍛えられ、継がれた拳だ。魔王を倒し、この国で「殴った時点で負け」と教わり、正当防衛の五箇条を財布に入れ(財布は美咲がくれた)、そっと置くことを覚え、法廷で「毎秒選び続けた記録」と呼ばれ、竜の首輪を外し、借り物の力の拍子を見切り、そして今夜、自分の枷を自分で砕いた――
――俺の、十七年の全部だ。
「これが――」
浸透の勁が、拳の中で、相棒の光と、一つに編み上がる。壊すためではない。解くための、最初で最後の、魔拳の正拳。
「――俺の、17年だァァァ!!!」
拳は、古い腕輪の、中心を打った。
――音は、しなかった。
ただ、五十年分の錠が、静かに、開いた。
銀の輪は、あの夜の俺の腕輪と同じように――花のように、割れた。
白い巨人が、内側から、金色に染まっていく。囚われていた五十年の澱が、悲嘆が、堰を失って――だが、暴れなかった。何億の記憶の光が、両腕を広げるように、それを受け止めたからだ。行き場のなかった五十年は、世界中の「思い出し」の大河に抱き取られて、ゆっくりと、ほどけて、消えていった。
白い空が、剥がれ落ちる。
その向こうから、夜明けの、ただの青が、戻ってくる。
――俺は、崩れゆく光の中で、落ちていく一人の老人を、両腕で、受け止めた。
白装束の、痩せた、小さな体だった。左腕には、輪の抜け落ちた、日焼けの痕だけが残っていた。俺と、同じ痕が。
「……じ、いさん。……おい、じいさん!!」
老人の瞼が、震えて、開いた。
その目には、もう、真紅も、白も、なかった。五十年ぶりに、ただの人間の目をした魔導師は、朝の空を、不思議そうに見上げ――それから、掠れた声で、言った。
「……ふ……。……儂の、裁判は……」
「――間に合った」
俺は、言った。
「間に合ったよ、じいさん。……これから、始まるんだ。全部な」
新宿の空に、朝日が昇った。
地上から、歓声が、地鳴りのように届き始めた。人類と、王国と、魔界の――三つの世界の声だった。
(第94話・了)




