第93話 「世界同時記憶」
白紙化の波が広がる世界で、最後の放送が始まった。
発信元は、東京の一少女の部屋。星乃あかり、十六歳。登録者八百万の防災チャンネルは、この夜、王女の門越しの放送網と、UNIT-Xの緊急回線と、生き残った全ての電波を束ねて――人類史上最大の中継網になっていた。
『――世界のみんな、聞いて!!』
あかりの声は、震えていた。震えたまま、まっすぐだった。
『今、世界中で「記録」が消されてます!! 法律も、戸籍も、地図も、ぜんぶ!! ……でもね、聞いて!! 消されない記録が、一つだけあるの!! ――あなたの頭の中!! 覚えてることは、消せないの!!』
『だから、お願い!! 今から、みんなで、思い出して!! この一年、何があったか!! 声に出して、隣の人と、話して!! それが……それが、世界を書き直す魔法になるの!! 嘘みたいでしょ!? 私も理屈はわかんない!! でも、うちの科学者が言うんだから間違いない!!』
――そして、世界が、思い出し始めた。
東京の避難所で、老婆が隣の若者に語り始めた。「……あたしゃね、見たんだよ。通学路にね、鎧の騎士さんが立っててね、盾に子供らのシールがいっぱい貼ってあって……」
ニューヨークの地下鉄で、コワルスキ軍曹が部下たちに語っていた。「いいか、あの日、あの顧問は撃破数じゃなく、逃げ遅れた市民の数を数えてたんだ。俺はこの耳で聞いた――」
王都アルディアの広場で、騎士が民衆に語っていた。「番号札と引き換えに、剣を預けたのだ! 名誉を取り上げぬ預かり方が、あの国にはあった!」
魔界へ帰る門の前で、解放された兵たちが語り合っていた。「陛下は言われた。跪くな、立て、と」「皆で決めて、皆で直すのだと」
京都の商店街で。ジュネーブの仮設テントで。大阪の寄席の楽屋で。品川の埠頭で。塩むすびの包み紙を握りしめた迎賓館で。――何億の口が、同じ一年を、何億通りの言葉で、語り始めた。
――理央の観測モニターの上で、それは、光になった。
『信号、来た……来た来た来た!! 記憶の共鳴波、増幅中!! ――みんな、見て!!』
白紙化していく世界の紙の上に、金色の文字が、浮かび始めていた。
消された六法全書のページに、条文が、一行ずつ、戻っていく。誰かが覚えていた条文が。氷雨が徹夜で書いた条文が。大神が三行で説明した条文が。……人が本当に覚えている約束は、紙が白くなっても、消えないのだ。
「――理央!! 術式の起点は!?」
『あなたよ、レオン!! 一番強い記録は、あなた!! この一年、世界で一番たくさんの人に「本当だ」って知られてる物語は、あなたなの!! ……でも、まだ足りない!! 波を一つに束ねる「語り」が要る!! バラバラの記憶を、一本の物語にする声が!!』
――その時。
中継網に、一人の老人が、割り込んだ。
避難所の壇上。座布団、一枚。着流しの噺家が、世界中のカメラの前で、深々と、頭を下げた。
『……えー。世界の皆さま、初めまして。しがない噺家で、桂与太郎と申します。……ほんで、あの馬鹿弟子の、師匠でございます』
与太郎さんは、扇子を、ぱちりと開いた。
『紙の記録は消せても、覚えた噺は消せまへん。噺いうもんはな、人の頭ん中に住むもんやさかい。……ほな、一席、お付き合い願います。演目は――「異世界英雄住民票」。あの阿呆が、空から降ってきた日ぃからの、一年の噺や』
――それは、後世「世界を書き直した一席」と呼ばれる高座になった。
新宿の職務質問。取調室のかつ丼の釘。「あなた、法的には存在しません」。ラーメンの感動。八千円の重さ。折れない拳と、折れ続けた剣。裁判所の付言。丼に貴賤なし。竜の首輪。そっと置く人。――六十年の芸で磨かれた語りが、何億の記憶の波を、一本の大河に、束ねていく。
白い空に、金色の亀裂が走った。
消去の波が、世界のあちこちで、押し返され始めた。
『――起点、安定!! 上書き術式、起動条件クリア!!』理央が叫んだ。『レオン!! あなたの左腕、見て!!』
透けていた左腕が――戻っていた。
輪の日焼けの痕まで、はっきりと。俺という記録は、もう、消せない。世界中が、覚えていてくれるから。
『――全員の光、束ねて、道にする!! 一本だけ、あの白い巨人の心臓まで、道が通る!! 一回きり、数十秒だけ!!』
「十分だ」
俺は、拳を握った。左腕は、もう透けない。相棒は、かつてなく滾っている。
「――道を開けてくれ。……最後は、俺の仕事だ」
(第93話・了)




