第92話 「世界改変」
――空が、変わった。
金色でも真紅でもない。「白」だった。書き損じを消した後の、紙の白。新宿の上空を中心に、その白が、同心円状に、世界の空を塗り替えながら広がっていく。
魔法陣の中心、祭壇のあった場所に、それは、浮かんでいた。
もう、ヴォルフの姿ではなかった。白い光の巨人。体内に、砕けた腕輪の意匠が、心臓のように明滅している。六十二年分の魔力と、五十年分の悲嘆と、設計者自身を素材にして編み上がった――【計画】の、最終形態。
『――消去を、開始する』
声は、ヴォルフの声で、ヴォルフの声ではなかった。抑揚のない、手続きのような声。
『壁を、消去する。法を、消去する。記録を、消去する。――例外なく』
――世界中で、「消去」が始まった。
最初に消えたのは、文字だった。
ジュネーブのUNIT-X本部で、決議文の文字が、紙の上から、掠れて消えた。国会図書館で、六法全書のページが、一冊、また一冊、白紙に戻っていった。法務局のサーバーで、登記が、戸籍が、データごと蒸発を始めた。世界中の国境線が、地図の上から、薄れていく。
物理の壁ではない。約束の壁から、消していくのだ。人間が何千年かけて書き溜めた「取り決め」の全部を、白紙に。
「理央!! 状況は!!」
『最悪!! 消去の波は同心円状、二時間で地球を一周する!! それだけじゃない、レオン――あなた、自分の左腕、見て!!』
見た。
俺の左腕が――透け始めていた。
『改変は「記録」から消してる!! あなたは一番濃い記録の塊なの、あの計画にとって!! 就籍の記録、特措法の特別対処員登録、全部……あなたっていう存在の書類が、根こそぎ消されてる!! 書類が消え終わったら、たぶん、実体も――』
……なるほどな。
一年前、この国は俺に言った。「あなたは法的には存在しません」。あの時は、書類がないだけで、俺はここにいた。
今度は、逆だ。書類を消すことで、俺そのものを、消しに来ている。
皮肉なもんだ。あの老人と俺は、最後の最後まで、同じ問いの上で戦っている。――人間は、記録か。実体か。それとも。
『レオン、聞いて!! 対抗術式の目処が立った!!』
理央の声が、絶望の底で、それでも、燃えていた。
『消去の波は「記録の白紙化」!! なら、対抗手段は一つ――「上書き」よ!! 消される端から、書き直せばいい!! でも術式の起点に、莫大な魔力と、それから……「消されない記録」が要る!! 白紙化に抵抗できるくらい、強い記録が!!』
「……強い記録? 何だそれは。国宝か? 石板か?」
『違う!! いい、レオン、よく聞いて!! 記録の強度はね、紙の質じゃない!! ――「どれだけの人間が、それを本当だと知ってるか」で決まるの!!』
無線の向こうで、理央が、叫んだ。
『だから、今から世界中で、いっせいに「思い出して」もらう!! あかりの中継網で!! 王女の放送で!! 全部の言語で!! ――この一年、何があったか!! どんな約束を書いたか!! 誰が誰を守ったか!! 世界中の人間の記憶を、いっぺんに束ねて、それを起点に、上書きの術式を組む!!』
「……そんな術式、前例があるのか」
『あるわけないでしょ!!』
理央は、笑っていた。こんな夜の底で、あの研究者は、確かに笑っていた。
『――でも、前例がないなら!!』
……ああ。
言われなくても、わかってる。
「――作ればいい、だろ」
俺は、透けていく左腕を、固く、握り締めた。
(第92話・了)




