第91話 「どちらも本当だ」
五十年分の澱が、真紅の嵐となって、新宿の空を渦巻いていた。
もう、術式の精緻さは、なかった。設計者の幾何学は消え、残ったのは、剥き出しの悲嘆だけだった。慟哭がそのまま魔力になったような、形のない、滅茶苦茶な猛攻。
――だが、それは、さっきまでの完璧な魔撃より、遥かに、重かった。
俺は、崩れた祭壇の縁を蹴り、嵐の中を、間で泳ぎ続けた。防壁は最小限。回避は半歩。相棒が悲鳴を上げるたび、呼吸で宥める。……攻めない。まだ、攻めない。今のあの人に叩き込むべきは、拳じゃない。
「――ヴォルフ!!」
嵐の中心へ、俺は、叫んだ。
「あんたの五十年を、見た!! 見た上で、言う!! ――あんたは、正しい!!」
嵐が、一瞬、乱れた。
「法があんたの家族を奪った!! 手続きが鉄山師匠の五十年を消した!! どっちも本当だ!! あんたの憎しみは、八つ当たりじゃない!! 全部、本物の傷だ!!」
『……ならば!! なぜ儂の前に立つ!! 小僧おおおッ!!』
真紅の槍が、十七本、同時に来た。俺は十六本を間で流し、最後の一本を、掌で受けた。骨が軋んだ。構わず、前へ出た。
「――俺も、本物だからだ!!」
一歩。
「俺は法に守られた!! 戸籍のない俺に、この国は『存在しない』と言った!! そこまではあんたと同じだ!! だがな、じいさん!! そのあと、違ったんだ!! 理屈っぽい弁護士が、就籍って手続きを探してきた!! 警察官が、正当防衛の五箇条を財布に入れろと言った!! 国会の頑固爺が、俺の魔法を『法の側から迎えに行く』と言った!! ……あんたを消した『手続き』と同じ道具で、こいつらは、俺を拾ったんだ!!」
『……同じ道具で……拾った、じゃと……』
「そうだ!! 法は道具だ!! あんたの時代の王国法は、平民の声を消す道具だった!! 今のこの国の法は、存在しない奴を拾う道具だ!! 同じ『法』って名前でも、中身は作った人間次第で、まるで別物なんだ!! ――あんたは法に奪われた。俺は法に守られた。どちらも本当だ!! どちらも本当だから――」
二歩。三歩。嵐の中心が、目の前にあった。
「――人は、法を、作り直せるんだ!!」
『……作り、直す……』
「現にもう、始まってる!! 王女はあんたの国で、王国史上初の公開裁判を開くと宣言した!! 平民の申し立てが消される、あの法廷を作り直すそうだ!! リリスは魔界に選挙を持って帰る!! この国は異世界人のための法を一年で書いた!! ……あんたが五十年憎み続けた壁は、あんたが壊すまでもなく、みんなが今、叩いて、直してる最中なんだよ!!」
嵐が――弱まっていた。
真紅の渦の中心で、白装束の老人が、俺を見ていた。その顔は、賢者でも、黒幕でもなく、ただ、疲れ果てた一人の男のものだった。
『……遅い』
声は、掠れていた。
『遅いのじゃ、レオン。……儂の妻は、もう戻らぬ。娘の墓標は、もう、朽ちた。鉄山の五十年は、もう、どの帳面にもない。……今さら法とやらを直したところで、儂の――儂の五十年は、誰が、裁いてくれるのじゃ』
その問いは、魔撃のどれよりも、重かった。
……そして、その問いになら、俺は、答えを持っていた。一年前、傍聴席の王女の隣で聞いた、あの答えを。
「――裁判を受けろ、ヴォルフ」
『……なに?』
「あんたのやったことは、二つの世界で裁かれる。何百回の公判になるか、わからん。……だがな、じいさん。この国の法廷には、あんたの時代の王国法廷と、決定的に違うところが一つある」
俺は、拳を、下ろした。
そして、五十年前に誰も言わなかった言葉を、言った。
「――被告人の隣に、必ず、一人、立つんだ。国家があんたを裁く時、あんたの側に立って、あんたの五十年を、最後まで語る奴が。……弁護人って言うんだ。あんたの裁判には、いなかったんだろう」
『…………』
「五十年、遅れたけどな」
俺は、嵐の中心の老人に、まっすぐ、言った。
「――あんたの隣に立つ奴なら、もう、いる。この街で一番、理屈っぽくて、この街で一番、依頼人を見捨てない弁護士だ。……だから、降りてこい、ヴォルフ。壁を壊すな。――法廷で、戦え」
――長い、長い、沈黙があった。
真紅の嵐が、凪いでいく。老魔導師の目に、五十年ぶりの、何かが――
……その時だった。
凪ぎかけた老人の左腕で、古い腕輪が、勝手に、白熱した。
『……や……やめ……儂は、まだ何も……』
「――じいさん!?」
『違う……輪が……儂の輪が、儂を……!! レオン、離れよ!! 五十年の澱が、儂の心が戻るのを――【計画】が、儂を、手放さぬ……!!』
俺は、悟った。遅すぎる速さで。
あの腕輪は、五十年、心を封じて汲み上げてきた。……封じた心が、今、戻ろうとしている。なら、輪は、どうする? 設計通りに、動くだけだ。
――宿主ごと、回収する。
白い光が、老人の全身を呑んだ。祭壇が、応えるように咆哮した。十二年分の俺の水瓶と、五十年分の彼の澱と、そして――ヴォルフ自身が、混ざり合いながら、空の魔法陣へ、吸い上げられていく。
「ヴォルフ!! 手を――!!」
伸ばした俺の指先の、すぐ先で。
老魔導師は、最後に、微笑った。恩人の顔ではない、若い魔導師の、素の顔で。
『……レオン。……儂の裁判に、間に合わなんだら――』
光が、世界を、塗り潰した。
(第91話・了)




