第90話 「魔導師の腕輪」
構えのない構えから、俺は、歩いた。
走らない。跳ばない。ただ、歩く。
ヴォルフの魔撃が、真紅の槍となって飛来する。……当たらない。半歩、ずれる。読んで避けたのではない。「拍子」で、ずれる。相手の術の起こりの、四分の一拍前。与太郎さんが客席の咳を読むあの呼吸で、俺は、殺意の起こりだけを聞いて、歩き続けた。
『……なんじゃ、その歩みは』
声に、初めて、苛立ちが混じった。
『署名がない。予備動作がない。……読めぬ。なぜ読めぬ!? そなたの癖は、全部……!!』
「あんたが知ってるのは、俺の魔力の癖だ」
半歩。また半歩。
「これは、魔力じゃない。……稽古だ。あんたの計器には、映らない」
真紅の弾幕が、密度を増した。祭壇の詠唱と、俺への迎撃。老魔導師は、初めて、二正面を強いられていた。俺は弾幕の「間」を、縫うのではなく、間そのものになって、進んだ。十メートル。五メートル。
――そして、俺の右手が、届いた。
狙いは、ヴォルフの心臓でも、頭でもない。
左腕の――古い、腕輪。
浸透の勁が、五十年物の銀の輪に、触れた。
その、瞬間だった。
――流れ込んできた。
視た、というのとは違う。腕輪に触れた俺の魔力と、輪の中に堆積した五十年の魔力が、共鳴したのだ。相棒が、俺の内で、悲鳴のような声を上げた。堆積した五十年の底に、あったものは――魔力ではなかった。
記憶、だった。
――若い魔導師が、いた。平民の出の、天才だった。王都の魔導学院を首席で出て、貴族の魔導師団に、たった一人、招かれた男。彼には、妻と、幼い娘がいた。
――ある年、団の研究塔で、爆発事故が起きた。死者が出た。原因は貴族の団長の術式の欠陥だったが、裁かれたのは、平民の彼だった。証言は握り潰され、記録は書き換えられ、裁きの場で、彼の言葉は一度も、記録係の筆を動かさなかった。『平民の申し立ては、貴族二名の連署なくば、証拠能力を持たぬ』――当時の王国法の、正規の、手続きだった。
――投獄、三年。その間に、妻は流行り病で死んだ。娘は、縁者を転々とした末に、行方が知れなくなった。出獄した彼が三年かけて探し当てたのは、遠い田舎町の、小さな墓標だけだった。
――彼は、復讐を考えた。だが、しなかった。かわりに、自分の左腕に、自作の腕輪を、嵌めた。悲しみも、怒りも、憎しみも――心が動くたび暴走しかける、自分の規格外の魔力ごと、全部、輪の中に封じた。封じて、汲み出して、溜めた。心を、殺した。殺した心の分だけ、彼は優秀になった。優秀な彼を、王国は重用した。彼を裁いた国が、彼を宮廷魔導師にした。誰も、あの裁きを覚えていなかった。
――五十年前。そんな空っぽの彼の前に、異界から、一人の武術家が落ちてきた。天堂寺鉄山。事故で引き込んでしまった男。責める権利のあるその男は、しかし、彼を責めず、笑って、王国で生き始めた。畳の上げ方を教え、味噌汁を炊き、彼の塔に勝手に上がり込んで、酒を飲んだ。『ヴォルフさんよ。あんた、笑い方を忘れとるな。……ま、ゆっくり思い出しゃええ』
――五十年ぶりに、彼の心が、少しだけ、動いた。輪の中で。
――そして、鉄山は死んだ。天寿だった。彼は王国に、友の五十年を記録に残すよう願い出た。『異界人につき、戸籍なし。記録の対象外』。正規の、手続きだった。……墓標一つ、公には、建たなかった。
――輪の中で、五十年分の封じられた心が、一斉に、決壊した。
――壁のない世界を。法のない世界を。手続きが人を消せない世界を。あの日から、老魔導師の五十年は、その一点に――
「…………ッ!!」
俺は、弾かれるように、跳び退った。
ヴォルフは、左腕を押さえて、俺を見ていた。その顔から、柔和も、余裕も、剥がれ落ちていた。残っていたのは――見られた、という、剥き出しの表情だけだった。
「……………見たな」
声が、低かった。
「見たな、小僧ォォ……!!」
空の魔法陣が、真紅に染まった。祭壇が唸り、老魔導師の全身から、五十年分の堆積が、殺した心の澱が、噴き上がった。
――俺は、構えを取りながら、一つだけ、確信していた。
あの輪の中の記憶に、俺は、見覚えがあった。
妻の墓の前で、心を殺すと決めた、あの若い魔導師の顔。
……あれは、一年前の、埠頭の突端の、俺だ。腕輪を砕く直前の、「消える」練習をしていた、廃寺の俺だ。
与太郎さんが、迎えに来てくれなければ――俺が、なっていたかもしれない顔だ。
「(……そうか。じいさん)」
俺は、血の滲む拳を、固め直した。
「(あんたには……迎えに来る師匠が、いなかったんだな)」
(第90話・了)




