第89話 「新宿決戦・開幕」
新宿駅東口。
一年前、俺がこの世界に落ちた場所。職務質問を受け、折れた剣で騒ぎを起こし、「殴った時点で負け」を教わった、あの雑踏に――今、人影は二つだけだった。
空の魔法陣の収束点。駅前広場の中央に据えられた、金色の祭壇。
その前に、白装束の老魔導師が、立っていた。
「――来たか、レオン」
「ああ。……全部、終わらせに来た」
俺の背後には、三つの軍勢が開けてくれた道がある。人類の軍と、王国の騎士と、魔界の民が、八時間かけて繋いだ道だ。だが、ここから先は、誰も入れない。理央の解析で、祭壇の半径五百メートルは、ヴォルフの結界の内側だった。
一対一。……いや、正確には違うな。
俺の内には、相棒がいる。俺の背には、全員がいる。一人で立っているのは――あの老人の方だ。
「その節は、腕輪を砕いてしもうて、悪かったな」
「なんの。……見事な拳じゃった」
ヴォルフは、微笑んだ。恩人の顔で。もう二度と、騙されない顔で。
「最後に、問うておこう、レオン。……儂に付く気は、ないかの。そなたの力と儂の設計があれば、世界の壁は今日、綺麗に落ちる。書類の前で泣く者のおらぬ世界が、今日、生まれる。……そなたが一年、味わわされた理不尽の、すべてが消える世界じゃ」
「断る」
即答した。
「あの理不尽の向こうで、俺は、拾われたからだ。……問答は終わりか、じいさん」
「――終わりじゃ」
世界が、白く、染まった。
――第一撃を、俺は「見えなかった」。
気付いた時には、駅ビルの三階の壁に、めり込んでいた。音より、思考より、速い魔撃。五十年間、自分自身から汲み上げ続けた魔力と、十二年分の俺の水瓶。二つの水源を持つ魔導師の本気は――魔王の比では、なかった。
「(相棒、防壁!)」
編みかけた金色の壁を、真紅の閃光が、編み目ごと貫いた。
『無駄じゃよ、レオン』
声は、あらゆる方向から降ってきた。
『そなたの魔力の署名は、儂が設計した。そなたの防壁の編み目も、足場の癖も、浸透の拍子も――全部、儂の畑の作物の癖じゃ。作物の癖など、育てた儂が、一番よう知っておる』
閃光の雨。俺は瓦礫の間を駆けた。魔拳一体の型が、ことごとく、先回りされる。壁を編めば編む前に撃たれ、道を通せば通した先に罠が咲く。品川で魔神を六分で崩した戦闘様式が、初めて――完全に、読まれていた。
三十分後、俺は、広場の敷石に、膝をついていた。
全身が、血と埃だった。相棒の光が、俺の内側で、心配そうに揺れていた。
「……はあっ……はあっ……」
「……よう保った方じゃ。褒めてつかわす」
ヴォルフは、無傷だった。白装束に、埃一つなかった。
彼は、ゆっくりと祭壇に手を伸ばし――魔法陣の最終起動節を、唱え始めた。空の金色が、濃くなっていく。世界の壁が、軋み始める。
「見ておれ、レオン。世界が生まれ変わる瞬間じゃ。……そなたの一年も、儂の五十年も、すべてが報われる瞬間じゃよ」
――膝をついたまま、俺は、考えていた。
読まれている。何もかも。魔法の癖も、拳の拍子も。……当然だ。あいつは俺の設計者で、観察者で、十七年、俺の全部を見てきた。
……いや。
本当に、全部か?
あの老人が見てきたのは、「畑の作物」としての俺だ。魔力の署名。戦闘の記録。計器の針。……だが、あいつの計器に、映らなかったものが、一つだけある。
この一年、俺が積んだものの中で、たった一つ、魔力を使わないもの。
――拳ではない。
拳の、稽古の方だ。
毎朝の型。縁側の説教。寿限無の「間」。……与太郎さんの、あの「間」だ。
魔法の読み合いで勝てないなら、勝負する場所を、変えればいい。
俺は、敷石を掴んで、立ち上がった。
「……じいさん。あんた、俺の全部を知ってるらしいな」
「うむ?」
「なら――これも、読めるか」
俺は、構えを、解いた。
だらりと、両腕を下げた。重心を、どこにも置かない。攻めも守りも読めない、あの立ち方。六十五歳の噺家が、三百の魔兵の前で座布団に正座した、あの――「高座の立ち方」を。
ヴォルフの詠唱が、初めて、半拍、揺れた。
(第89話・了)




