第88話 「魔界の流儀」
新宿御苑の上空に、それは浮かんでいた。
漆黒の大鎧。玉座ごと宙に据えられた、空っぽの「新魔王」。ヴォルフの声を中継し、八万の軍勢を、祭壇の最終防衛線として指揮する、声の出る筒。
その正面、御苑の芝生の上に、リリスは一人で立った。
パジャマでも、白衣でもない。どこから出したのか――三百年前の、魔王の正装だった。
「――魔界の将兵に告げる」
彼女の声は、拡声も詠唱もなしに、八万の耳に届いた。王の声とは、そういうものだ。
「私はリリス。先代の魔王だ。……三年ぶりだな、お前たち。息災か。――というのは皮肉だ。息災なわけがない。忠誠の儀の名の下に記憶を刻まれ、糸で繋がれ、異界の戦場で捨て駒にされて。……すまなかった。私が玉座の守り方を誤ったばかりに、お前たちを、あんな空っぽの筒に、預けることになった」
空鎧が、動いた。
『――排除せよ』
ヴォルフの声が、玉座から流れた。八万の軍勢が、一斉に、リリスへ槍を向けた。
「ふ。……いい機会だ。皆の前で、教育をしてやろう」
リリスは、芝生を、一歩、進んだ。
「魔界の流儀を知らん偽物が、魔界の玉座に座るとどうなるか。――よく見ておけ、お前たち」
空鎧が、玉座から立った。大剣を抜いた。体高十メートルの漆黒が、音速で振り下ろされ――リリスは、避けなかった。
白い小さな掌が、大剣を、受け止めていた。
「一つ目の流儀」
彼女の声は、講義のように、静かだった。
「魔王はな、民の前で、後退せんのだ」
銀の魔力が奔り、大剣が根元から砕けた。空鎧が跳び退り、六本の魔導砲を展開する。ヴォルフの設計の、幾何学的で、完璧な砲撃網。着弾の光が御苑を包み――晴れた時、リリスは、同じ場所に、同じ姿勢で立っていた。正装の裾が、少し焦げていた。
「二つ目の流儀。魔王はな、民から奪った力で、戦わんのだ。……その砲の魔力、兵どもから吸い上げたものだろう。返してもらうぞ」
彼女が指を鳴らすと、砲撃網の光が逆流し、八万の軍勢の中へ、雨のように降り注いだ。糸で繋がれた兵たちの「芯」へ、彼ら自身の力が、還っていく。前列から順に、兵たちが、膝をつき、兜を落とし、夢から覚めるように顔を上げていった。
『――ほう。解呪の逆算か。見事なものじゃ』
空鎧から、ヴォルフの声が、初めて直接、彼女に語りかけた。
『じゃがリリスよ。今さら王の顔か? 玉座を捨てて、異界で家電を漁っておった貴女が』
「そうだ。私は玉座を捨てた」
リリスは、頷いた。悪びれもせず。
「そして異界で、三年、隠居をした。エアコンの効いた六畳で、通販の段ボールに埋もれて、コロッケを食って、人間の隣人と、分割払いの審査の話をした。……なあ、ヴォルフ。貴様には一生わかるまいが、あれはな――三百年で、一番、王の勉強になった」
「あの国で、私は見たのだ。王のいない国が、王のいないまま、民を食わせ、守り、間違いを直していくのを。……だから決めた。魔界に、もう魔王はいらん。玉座は要らん。――だが、玉座を騙る空き缶だけは」
彼女は、跳んだ。
「――私が、片付けてから行く!!」
三百年の魔力が、一点に収束した。空鎧の胸甲、ヴォルフの声を中継する「核」へ――銀の掌打が、届いた。
漆黒の大鎧は、内側から光を噴いて、砕け散った。破片は御苑の芝生に降り、玉座は、真っ二つに割れて落ちた。
――八万の軍勢は、もう、槍を向けていなかった。
糸の切れた兵たちが、次々と跪いていく。三百年仕えた王の帰還に、魔界の民の海が、御苑を埋めて頭を垂れた。
リリスは、その海を、長いこと見ていた。
そして、言った。
「――跪くな」
兵たちが、戸惑って顔を上げた。
「立て。……いいか、お前たち。よく聞け。私はもう王ではないし、次の王も、もう要らん。帰ったら、皆で決めろ。皆で間違えて、皆で直せ。人間どもは『選挙』と呼んでいる。存外、悪くない仕組みだ。……詳しくは帰りの道々、教えてやる」
彼女は、正装の裾を払い、砕けた玉座に背を向けた。
そして、新宿の中心――金色の魔法陣の収束点を、指差した。
「今は、それどころではないのでな。――総員、転進!! これより我らは、あの祭壇への道を開く!! 我らの三年を勝手に使った設計者に、魔界の流儀の三つ目を、教えに行くぞ!!」
八万の声が、応えた。
三つ目の流儀が何かは、誰も聞かなかった。聞かなくても、全員の腹に、同じ答えがあったからだ。
――魔界の借りは、魔界が返す。
(第88話・了)




