第8話 「札束は万能ではない(※この国では)」
「――口座の開設は、ちょっと難しいですね」
銀行の窓口で、俺は本日三敗目を喫していた。
氷雨の指示だった。「就籍の見込みが立ったら、生活基盤の準備。まず銀行口座――と言いたいけど、本人確認書類がないから、まあ、勉強のつもりで現実を見てらっしゃい」。
現実は見た。三行連続で門前払いである。
「本人確認書類がないと、いかなる場合も……」
「では聞くが、俺が俺であることを、俺以上に証明できる者がこの世にいるのか」
「哲学のお話でしたら他所でお願いします」
銀行とは、金を守る城だ。城壁は書類でできている。拳では登れない。
肩を落として銀行を出た、そのときだった。
目の前の道路に、白く長い馬車――ではない、車が、音もなく停まった。後部の扉が開き、降りてきたのは、金髪を縦に巻いた、俺と同じ年頃の女だった。
「見つけましたわ」
女は扇子で俺を指した。
「『コロッケ買いに来た兄ちゃん』――いえ、レオン・アークライトさん。わたくし、白鳥麗華。白鳥グループの令嬢ですの」
「なぜ俺の名を」
「動画の人物を特定するくらい、白鳥の情報網には朝飯前ですわ。……単刀直入に申します。あなた、わたくしの専属護衛になりなさい。お給料は、そうね――」
彼女が指を鳴らすと、黒服の男が革の鞄を開けた。
札束が、詰まっていた。
「一千万。前払いですわ」
通行人がざわめいた。俺は札束を眺め、聞いた。
「その金で、ラーメンは何杯食える」
「は? ……い、一万杯ほどですけれど」
「一万杯……」
「揺らぎましたわね!? 今、明確に揺らぎましたわよね!?」
揺らいでいない。少ししか。
「悪いが断る。俺は与太郎さんの家の屋根を直し終わっていないし、朝稽古もある。護衛につけば、どちらもできん」
「や、屋根!? 屋根とわたくしの一千万を天秤にかけて、屋根が勝ちましたの!?」
「ああ。約束が先だ」
麗華は扇子を落とした。拾って、もう一度落とした。
「な……なんですのその理屈……お金で動かない人間なんて、教科書にも載っていませんでしたわ……」
「載せておけ。ここに一人いる」
――と、そこへ。
「あーーー! いたいた! ちょっとレオン!」
駆けてきたのは氷雨だった。珍しく息を切らしている。
「銀行はどうだった……って、その札束は何!? ちょっと白鳥さん!? 路上で現金一千万を開帳しない! しまって! 早く!」
「あら一ノ瀬先生。ごきげんよう」
「ごきげんよくない! あのねレオン、この人に何か契約させられそうになったら、署名する前に必ず私に――」
「断った」
「……え、あの白鳥グループの申し出を? 即断で?」
「屋根の修理があるからな」
氷雨は眼鏡を押し上げ、しばらく俺を見て、それから麗華に向き直った。
「――だ、そうです。白鳥さん、諦めて」
「諦めませんわ! わたくし、欲しいものは必ず手に入れる主義ですの! お金で買えないものがあるなら――」
麗華は俺をびしりと指差し、宣言した。
「お金で買えない理由ごと、買収してみせますわ! 屋根なら白鳥建設が新品にして差し上げます! 落語がお好きなら国立演芸場ごと……!」
「話を聞いていたか。約束は、金では代われないから約束なんだ」
「〜〜〜ッ!! 覚えてらっしゃい!!」
白い車は走り去った。嵐のような女だった。
「……レオン」
氷雨が、ぽつりと言った。
「あなた、口座は作れなかったけど。今日、一番大事な信用審査には通ったわよ」
「なんの話だ」
「こっちの話。――さ、帰るわよ。就籍の申立書、下書きができたの。あなたの十七年間を、法律の言葉に翻訳する作業。手伝いなさい」
俺の十七年を、この国の言葉に翻訳する。
悪くない響きだった。
(第8話・了)




