第86話 「九体目」
だが、ヴォルフの盤面には、まだ駒が残っていた。
午前九時二十分。品川沖の海面が盛り上がり、この夜九体目の魔神級が、上陸を開始した。これまでの個体より一回り大きい。体高六十メートル。四本腕ではなく、六本。単眼は、赤かった。
「観測データ、送る!」と無線の理央。「今までの個体と編み目の密度が違う! たぶん、十二年物の魔力で編んである……あなたの魔力で編んだ、最高級品!!」
「……俺の十二年で作った化け物を、俺が崩す、か」
俺は、品川の埠頭に立ち、六本腕を見上げた。
「(――上等だ。取り返す物のリストに、一体分、追加だな)」
魔神級の攻略時間、これまでの記録は四十一分。
この日の記録は――六分十七秒である。
第一分。光の足場で魔神の周囲に「導線」を敷設。第二分、魔神の光条を防壁で海へ逸らし、六本腕の拍子を観察。編み目の密度は確かに桁違いだった。だが、編んだ「癖」は同じだ。ヴォルフの設計の癖。俺の腕輪と同じ、あの指紋。……三ヶ月、腕輪を looking見つめ続けた俺に、それはもう、旧知の筆跡だった。
第三分から第五分、六本の腕を、順に「そっと」海へ沈めて封じる。
第六分。露わになった胸の単眼の下、編み目の「結び目」へ――浸透の正拳、一号。
魔神は、内側から金色に発光し、砂の城のように崩れ――崩れた魔力は、霧散しなかった。俺は、それを、取り返した。相棒が、腕を広げるように、崩れゆく十二年分の魔力を、俺の内へ、静かに、回収した。
水瓶の水を、一杯分、取り戻した。
――その様子を、遠い場所で、ヴォルフは見ていた。
「……回収まで、するか」
老魔導師は、水晶の計器を見た。針は、まだ「仕上げ」の閾値の上にある。だが、初めて――減る方向に、動いていた。
「時間との勝負、というわけじゃな。よかろう」
彼は、立ち上がった。深緑のローブを脱ぎ捨てる。その下から現れたのは、白い、簡素な、術者の装束だった。左腕の古い腕輪が、露わになった。五十年以上、彼自身の魔力を溜め続けた、原型の輪が。
「――役者は揃うた。舞台は整うた。ならば、幕を上げようぞ」
正午。
東京の空の罅割れが、一斉に、金色に染まった。罅と罅が繋がり、空全体に、巨大な魔法陣が描かれていく。直径、四十キロ。東京全域を覆う、世界改変術式の、下絵だった。
そして、世界中のテレビとスマホが、同じ映像に乗っ取られた。
白装束の老人が、空の魔法陣を背に、静かに、世界へ語りかけていた。
『――地球の皆さま。そして、王国と魔界の同胞たちよ。儂の名はヴォルフ。しがない、魔導の徒じゃ』
『皆さまは一年、よう戦われた。法で編んだ盾は、見事なものじゃった。……だが、お疲れじゃろう。法は、書くのも守るのも、間違いを直すのも、果てしのない手間仕事じゃ。その手間の隙間から、今夜のような夜は、何度でも滲み出てくる』
『じゃから、儂が、終わらせて進ぜよう。今日この日、二つの世界を隔てる壁と――人と人を隔てる、法と、国境と、身分と、戸籍。そのすべてを、消して進ぜよう。残るのは、ただ在るがままの力と、在るがままの真実のみ。……誰も、書類の前で泣かぬ世界じゃ』
映像は、そこで、俺たちの茶の間にも届いていた。
誰も、口を開かなかった。……あの演説が、ただの狂気なら、どれほど楽だったか。あの老人の言う「書類の前で泣いた者」の中に、一年前の俺が、確かに、いたのだから。
沈黙を破ったのは、与太郎さんだった。
「……なあ、兄ちゃん。あの爺さんの言うとること、半分は、ほんまや」
「……ああ」
「せやから、あんたが行って、言うたらなあかん。――残りの半分を、な」
俺は、頷いて、立ち上がった。
空の魔法陣の中心点は、計算するまでもなかった。全ての線が、一点に収束していた。
――新宿。俺が最初に、この世界に落ちた場所に。
(第86話・了)




