第84話 「思考は、乱れない」
水底から浮上した俺を待っていたのは、現実の、光の奔流だった。
柱は、まだ立っていた。俺の中から溢れる魔力が、行き場を探して、天と海を軋ませていた。埠頭のコンクリートが浮き上がり、海水が渦を巻いて逆巻き、大気が悲鳴を上げる。……ここからだ。ここからが、十歳の冬と同じ分かれ道だ。溢れる力に飲まれるか。飲まれずに、立つか。
俺は――目を、閉じた。
そして、稽古を、始めた。
息を、細く、長く。舌先を上顎に。花粉の春に、くしゃみを殺した、あの呼吸。
肚を、据える。笑いながら、湯呑みの茶を揺らさなかった、寿限無の稽古の肚。
心の畳み方。今夜の恐怖を、一枚ずつ、畳んで、仕舞う。怖がるな、とは言わん。怖いまま、静かにおり――師匠の声の、通りに。
そして最後に、隣の相棒へ、話しかける。命令ではなく、対話を。
「(……広いだろう、外は)」
光が、俺の内側で、頷いた気がした。
「(慣れるまで、俺の拍子に合わせろ。……武道の拍子だ。悪くないぞ)」
――光の柱が、ゆっくりと、細くなった。
暴れていた奔流が、呼吸のたびに、俺の輪郭の内側へ、畳まれていく。吸って、納める。吐いて、鎮める。荒れ狂っていた海面が、凪いでいく。浮いていた瓦礫が、静かに、地に降りる。
夜明けの埠頭に、やがて――静寂が、戻った。
柱は、消えていた。
そこに立っていたのは、化け物でも、光の塊でもなく――ただの、俺だった。左腕に、輪の日焼けの痕だけを残した、十七歳の俺だった。
……遠くの防衛線から、無線が、恐る恐る、開いた。
『……レオン? 生きてる? ……あなた、今、何ともないの?』
美咲の声だった。俺は、自分の両手を見た。それから、内側の相棒に、一つ、確認をした。相棒は、静かだった。凪いだ水面のように。
「――ああ。何ともない」
俺は、無線に、言った。
「思考は、乱れない。……武道が、心を鍛えた」
――だが、感傷に浸る時間は、三十秒だけだった。
吹き散らされたワイバーンの残りが、上空で再集結しつつあった。二十頭余り。避難列は、まだ豊洲にいる。防衛線は、まだ限界のままだ。
俺は、埠頭の突端で、群れを見上げた。
さて。……十二年ぶりの、解禁だ。
思っただけで、発動する魔法。夢で城をプリンに変え、くしゃみで山を入れ替えた、災厄の力。それを今、俺は、生まれて初めて――「意志で」使う。
思い浮かべたのは、派手な破壊ではなかった。
思い浮かべたのは――「そっと置く」だった。
俺の一年間の、日本での戦いの全部。畳の上げ方。壊さない稽古。正当防衛の五箇条。何を壊し、何を壊さないかを毎秒選び続けた、あの九十秒。……俺の魔法の初仕事に、それ以外は、あり得なかった。
――夜明けの空に、金色の光が、咲いた。
二十頭のワイバーンが、一頭ずつ、見えない大きな手に包まれるように、ふわりと、空中で止まった。暴れる翼が、光の中で、ゆっくりと鎮まる。そして群れは、そのまま音もなく運ばれ、埠頭の空き地に、一頭ずつ、順番に――そっと、置かれた。
最後の一頭を置き終えた時、豊洲の防衛線から、どよめきが上がった。機動隊員が、市民が、呆然と空を指していた。あかりのチャンネルに、世界中から同じ書き込みが、何万件も流れた。
『今の、何?』『魔法……?』『こわくない』『なんで泣けるんだろう、これ』『――きれい』
破壊の夜の果てに、東京の夜明けの空に咲いたのは、誰も傷つけない魔法だった。
……相棒が、俺の内側で、少しだけ、誇らしげにしている気がした。
「(上出来だ。……なあ、相棒。この調子で、頼みたいことが山ほどある)」
俺は、東の空を見た。罅割れの向こう、雲の果て。十二年分の水瓶を抱えた老魔導師が、最後の仕上げに動き出す、その方角を。
「(――世界を、取り返しに行くぞ)」
(第84話・了)




