第83話 「解錠」
拳が、輪に届く寸前の、千分の一秒。
俺は、確かに聞いた。腕輪の奥で、何かが――笑った気がした。十二年ぶんの、安堵のような。
――砕けた。
銀の輪は、俺の正拳を受けて、花のように割れた。破片が、夜明け前の埠頭に、澄んだ音を立てて散った。じいちゃんの温もりの記憶ごと、ヴォルフの三十年の設計ごと、十二年の俺の枷が、海風の中に、消えた。
そして――水が、来た。
最初は、静かだった。水底が、ゆっくりと持ち上がるように。次の瞬間、十二年間堰き止められ、汲み取られ、それでもなお溜まり続けていた俺の全部が、一気に、外へ、噴き上がった。
光の柱が、埠頭から天へ立った。
収奪の柱ではない。あれは細い、盗み取りの管だった。これは――解放だ。罅割れた空を突き、雲を割り、東京湾の海面を一キロにわたって沈み込ませ、旋回していたワイバーンの群れを衝撃波だけで吹き散らす、途方もない奔流。
遠く豊洲の防衛線で、美咲が立ち尽くすのが、なぜか「見えた」。官邸の地下で氷雨が顔を上げるのが、避難所で与太郎さんが目を閉じるのが、廃寺の機材の前で理央が悲鳴のような歓声を上げるのが――全部、見えた。五感が、世界のほうへ、開いていく。
――まずい。
これは、まずい。器が、広がりすぎる。自分の輪郭が、光に溶けていく。十歳の冬に山を動かした、あの「自分が自分でなくなる」感覚が、桁を千倍にして、戻ってくる――
俺は、意識の水底へ、潜った。
――そこは、いつもの瞑想の場所だった。
暗い水底。ただし今夜は、暗くなかった。牢の格子が、消えていた。水底の全体が、金色の光で満ちて、渦を巻いていた。そして渦の中心に、あの光が――俺の魔法が、いた。
初めて、逃げなかった。
初めて、まっすぐに、俺と向き合っていた。形はない。だが、俺にはわかった。それは怒ってもいなければ、暴れたがってもいなかった。ただ――十二年ぶりの広さに、戸惑っていた。牢を出た者が、最初にそうなるように。急に広い場所に出されて、どうしていいか、わからずにいた。
……ああ。そうか。
お前も、怖いのか。
俺は、渦の中心へ、歩いた。そして、与太郎さんに教わった通りの言葉を、言った。
「――おかえり」
光が、震えた。
「長かったな。……十二年、よく耐えた。お前の力を勝手に汲んだ奴は、俺が止める。お前を牢に入れた設計図は、たった今、俺が砕いた。だからもう、誰にも汲ませない。誰にも封じさせない。……ここから先は」
俺は、手を、差し出した。
「――二人で決めよう。相棒」
光は、しばらく、揺れていた。
やがて、ゆっくりと、俺の手に触れ――俺の中へ、還ってきた。
牢へ戻ったのではない。……並んだのだ。俺の隣に。
――同じ刻。
世界の百七の門が、一斉に、明滅した。
ジュネーブの空で、ニューヨークの空で、カイロの空で、門の縁の幾何学紋様が、乱れ、掠れ、細り始めた。燃料の供給が――十二年間、一度も止まらなかった蛇口が――止まったのだ。
そして、とある場所で。
ヴォルフの水晶の計器が、甲高い警報を上げた。老魔導師は、それを一瞥し、長い、長い息を吐いた。
「……砕きおったか。儂の最高傑作を。おのれの腕ごと千切れる賭けに、ためらいもなく」
彼は、警報を切り、暗がりの中で、独りごちた。
「――だが、遅いわ、レオン。水瓶には、十二年分。仕上げには、もう、足りておる」
(第83話・了)




