第82話 「決断」
豊洲までの三キロを、俺は屋根伝いに飛んだ。
三割の力の脚は、もどかしいほど遅かった。眼下の街路は魔兵で埋まり、罅割れた空からは灰のような魔力の澱が降っていた。俺の街が、俺の力で買われた軍勢に、踏まれていく。
――現場は、最悪の一歩手前だった。
避難列の最後尾、横転したバスの陰に、百人余りの市民が取り残されていた。その前に、盾を構えた機動隊員が九人。そして、その最前に――警棒一本の、九条美咲がいた。
ワイバーンの群れが、上空を旋回していた。獲物の恐怖を煮詰めてから食う、あの回り方だった。
「……来るなら来なさいよ……」
美咲の声は、嗄れていた。夜通しの誘導で、もう七時間、立ちっぱなしのはずだった。それでも彼女は、一歩も引いていなかった。警棒を構えるその姿は、一年前、路地でオーガの前に立った時と、寸分違わなかった。
先頭のワイバーンが、翼を畳んだ。急降下の予備動作。狙いは――防衛線の中央。美咲。
俺は、跳んだ。
間に合った。ワイバーンの顎を、空中で捌き、海へ投げる。二頭目、三頭目。……四頭目の爪が、俺の三割の拳をすり抜けて、盾の列を掠め、機動隊員が二人、吹き飛ばされた。五頭目。六頭目。捌ききれない。力が、出ない。出した force が、そばから腕輪に喰われていく。
「レオン!!」
「喋るな!! 下がらせろ、全員!!」
七頭目を組み伏せながら、俺は、悟っていた。
――このままでは、守り切れない。
今夜だけの話ではない。この腕輪がある限り、俺は戦うほど敵を肥やす。俺という存在が、この世界の急所であり続ける。ヴォルフの盤の上で、俺は永遠に、蛇口のままだ。
なら、答えは、一つしかない。
三日前の会議で、理央は言った。「収奪中に無理に外したら、腕ごと千切れるかもしれない」。制御の修行は七段階の四段階まで。堰は未完成。外した瞬間、十二年ぶりに解き放たれる俺の魔法が、俺の意志に従う保証は、どこにもない。悪夢一つで山手線が消えるかもしれない力が、この戦場のど真ん中で、野に放たれる。
……だが。
俺は、水底の光を、思い出していた。三ヶ月、毎晩会いに行った、あの光を。逃げていた光が、いつからか、俺が座ると、隣に来るようになっていた。言葉はない。だが、あれは――もう、俺を知っている。
『必ず、輪の外で会う。そのとき、俺はお前の牢番じゃなく――相棒になる』
あの約束を、果たす時だ。
「――美咲!!」
俺は、八頭目を投げ落としながら、叫んだ。
「市民を、バスの陰から動かすな!! それと――俺から、半径五十メートル、誰も入れるな!!」
「な、何をする気!?」
「約束を果たす!!」
俺は、防衛線から離れ、埠頭の突端――海と空だけが広がる、誰もいない一点へ走った。ワイバーンの残りが、蛇口を追って、群れごと俺に付いてくる。それでいい。こっちへ来い。全部、こっちへ。
走りながら、無線のイヤホンに、指を触れた。
「……与太郎さん。聞こえてるか」
『――おう。聞いとるで』
師匠の声は、いつも通りだった。世界が落ちる夜に、いつも通りの、縁側の声だった。
「これから、腕輪を砕く。……堰は、四段までしか積めてない。もし、俺が俺でなくなったら――」
『ならんよ』
即答だった。
『ええか、兄ちゃん。師匠として、最後の稽古をつけたる。よう聞き。――怖がるな、とは言わん。怖いまま、静かにおり。笑うな、とも言わん。笑いながら、肚だけ据えとき。寿限無の稽古と、いっしょや。……あんたはもう、知っとることばっかりや』
「……ああ」
『ほんでな、これだけは忘れんな。あんたの魔法はな、化け物やない。十二年、牢の中で、あんたと一緒に耐えとった――もう一人の、あんたや。初対面やないんやで。おかえり、言うたり』
埠頭の突端で、俺は、足を止めた。
振り仰ぐ空は、罅割れて、白い。眼下の海は、黒い。左腕の腕輪は、白熱して、俺の十二年を、まだ、汲み続けている。
……じいちゃん。あんたがこれをくれた夜、俺は泣いて、あんたの袖を掴んだ。あの夜のあんたの優しさは、本物だった。それだけは、誰の設計図でもない。だから――恨まずに、済む。
俺は、右の拳を、固めた。
七年間、大陸中の師匠たちに鍛えられ、この国で「壊さない稽古」をやり直した、俺の拳を。
狙いは、左腕の、銀の輪。
「――相棒」
俺は、水底に向かって、言った。
「――迎えに来た」
正拳が、走った。
(第82話・了)




