第80話 「収奪」
その夜の与太郎邸は、灯りを落とした茶の間に、全員がいた。
「……選択肢は三つ」と氷雨が言った。彼女の声は、いつも通りだった。いつも通りであろうとしていた。「一つ、明朝、大人しく連行される。時間は稼げるけど、蛇口を敵の手に渡す。二つ、逃げる。世界中が『裂け目の元凶が逃亡した』と報じる。三つ――今夜、腕輪を外す」
「第四段階までしか、進んでない」と理央。「残り三段。今外せば、制御の保証はない。……でも、明日を待てば、選択肢自体がなくなる」
議論は、深夜まで続いた。結論は出なかった。出ないまま、俺は言った。
「……朝までに決める。少しだけ、一人にしてくれ」
俺は縁側に出た。庭の柿の木。直した屋根。継ぎはぎの塀。……この家で学んだ全部が、月明かりの下にあった。
――そして、午前三時十四分。
ヴォルフは、朝を、待たなかった。
最初に気付いたのは、俺の左腕だった。
腕輪が――燃えるように、熱くなった。
「――ッ、ぐ……!?」
偽装層が、砕け散る音がした。外殻の封印が、七段階、全て、外側から強制的に開かれる音がした。そして、樋が――十二年分の樋が、逆流するように咆哮を上げた。
汲み出される。
水位も、堰も、関係なかった。心で編んだ堰ごと、根こそぎ、力ずくで――俺の中の水底から、光が、引き摺り出されていく。
「レオン!?」
飛び出してきた仲間たちの前で、俺は、縁側に膝をついていた。左腕の腕輪が、白熱していた。夜空へ向かって、光の奔流が、柱のように立ち昇っていた。
「――遠隔、起動……!! 嘘でしょ、そんな機能まで……!!」理央が計器を見て、悲鳴を上げた。「収奪量、桁が振り切れてる!! 全部持っていく気だ、十二年分、全部……!!」
「外せ!! 腕輪を!!」とセリス。
「駄目!! 収奪中に無理に外したら、腕ごと……最悪、レオンの魔力回路ごと、千切れる!!」
――世界中で、空が、裂け始めた。
七方面軍の司令部に置かれた「観測装置」が、一斉に、真の姿を現した。ジュネーブの司令部の中庭で。北米方面軍の作戦室の真上で。世界の防衛網の、神経の中枢で――観測装置は門となり、魔兵が、防衛計画の内側に、直接、溢れ出した。
盤面のすべての駒が、一夜で、裏返った。
俺は、膝をついたまま、立ち昇る光の柱の向こうに、夜空を見た。
東京の空にも、亀裂が走り始めていた。今までのどの裂け目とも違う。空全体が、罅割れた硝子のように、白く、白く――
スマホが、テレビが、防災無線が、世界中で同時に鳴っていた。あかりのチャンネルに、世界中から悲鳴のような書き込みが流れ込んでいた。
その混沌の中で、俺のスマホだけが、静かに、一件の着信を受けた。
知らない番号。……いや、知っている気配。
『――聞こえておるかな、レオン』
老魔導師の声は、慈愛に満ちていた。
『ああ、抵抗はやめておきなされ。堰は見事じゃったが、蛇口の設計者は儂じゃ。……今宵、二つの世界の壁は落ちる。法も国境も戸籍もない、一つの世界が生まれる。そなたの十二年が、その礎じゃ。誇るがよい』
「……ヴォルフ……!!」
『ではの、レオン。……ああ、最後に一つ』
声が、初めて、人間のものになった。ほんの一瞬だけ。
『――堰の編み方は、誰に習うた。よい師を、持ったの』
通話が、切れた。
光の柱は、まだ、止まらない。
膝をつく俺の肩を、誰かの手が、掴んだ。見上げると、与太郎さんだった。老人は、白熱する腕輪を一瞥し、罅割れていく空を見上げ、そして――弟子に向かって、にっ、と笑った。
「……兄ちゃん。ええ夜や」
「……何がだ……!」
「決められん夜は、決めてもらえる夜や。――ほれ、肚ぁ括り。あんたの相棒が、十二年ぶりに、外に出たがっとるで」
(第80話・了)




