第79話 「賢者の降臨」
ヴォルフの「緊急点検」は、対処本部の大会議室で、各国代表の立ち会いのもと行われた。
カメラはない。だが、世界中の政府の目が、この部屋にあった。「十二の朝」の直後である。魔神級を生んだ裂け目の謎に、世界最高の賢者が答えを出す――誰もが、そう信じて見守っていた。
俺は、点検台に左腕を置いた。
三ヶ月ぶりに向かい合う老魔導師は、何も変わっていなかった。柔和な笑み。枯れた手。「息災でしたかな、レオン殿」という、温かい声。
「ああ。ヴォルフ様も」
――嘘だ。何もかも。
俺は知っている。この手が三十年かけて描いた図面を。この笑みの下の計器の針を。そしてこの老人も、知っているはずだ。俺の水位が、もう汲めないことを。
枯れた手が、腕輪にかざされる。低い詠唱。理央が組み込んだ偽装層――第一段階のままの封印を装う、精巧な「見せかけの水面」――が、老魔導師の観測を受け止める。
部屋の空気が、張り詰めていた。芝居を知る者だけが、これが決闘だと知っていた。
斜め後ろに座る与太郎さんは、湯呑み片手に、ただの付き添いの顔をしていた。理央は記録係の顔で、偽装層の負荷を睨んでいた。真琴は壁際で、ただの警護の顔をしていた。全員が、恩人を迎える顔をしていた。
永遠のような、二十分だった。
「……ふむ」
ヴォルフは、手を下ろした。
「封印は――万全。歪みもない。結構、結構」
彼は微笑んだ。俺も微笑んだ。互いの微笑みが、互いの噓を確認し合った。
――そして、老魔導師は、各国代表に向き直り、言った。
「では皆さま。お約束した『重大な発表』を」
彼は、一枚の資料を掲げた。
「儂はこの一年、世界中の裂け目を観測して参りました。そして、ついに突き止め申した。……全ての裂け目は、ある一つの魔力の『署名』に共鳴して開いております。その署名の主は――」
やめろ。
「――レオン・アークライト殿。この少年ですじゃ」
会議室が、爆発した。
どよめき。怒号。各国代表の蒼白な顔。ヴォルフは、悲しげに――完璧に悲しげに――続けた。
「誤解なさるな。この子に罪はない。この子の規格外の魔力が、本人も知らぬまま、世界の壁を軋ませておるのです。儂の腕輪が十二年、それを抑えて参ったが……もはや限界。この世界に置いておけば、裂け目は増え続ける。……よって、提案いたす。レオン殿の身柄を、儂が王国へ連れ帰り、儂の塔で終生、封印の管理を行う。それが――両世界にとって、唯一の道ですじゃ」
真実だけを組み合わせた、完璧な嘘だった。
裂け目が俺の署名に共鳴している――事実。俺の存在が世界を危険に晒している――半分、事実。だから俺を隔離する――結論だけが、奴の三十年の狙いそのもの。反論するには、腕輪の正体を世界に明かすしかない。証拠はなく、相手は世界中の信頼を着た賢者。……詰みの形は、こうして組むのだと、見せつけるような一手だった。
――散会後。
ヴォルフは「旧知の二人で」と、俺を迎賓館の庭に誘った。真琴が動きかけ、俺は目で制した。
夕暮れの庭で、老人と俺は、並んで歩いた。
「……見事な堰じゃった」
と、老魔導師は、世間話の調子で言った。仮面が、音もなく、外された。
「三ヶ月で、あそこまで編むか。偽装の水面も上出来じゃ。あの小娘の細工かの。……儂の三十年の畑から、あのような芽が出るとは。設計者冥利に尽きるわい」
「……いつから、気付いていた」
「計器の針が下がった日からよ。……なあ、レオン。怒っておるかの?」
「質問を変えろ。……なぜだ。あんたは王国で誰より敬われていた。じいちゃんの友で、俺の恩人で……何が、あんたをこうした」
老人は、しばらく黙って歩いた。
そして、立ち止まり、夕焼けを見上げた。
「――五十年前、儂は一人の武術家に会うた」
心臓が、跳ねた。
「異界から呼び寄せてしもうた、東方の男よ。天堂寺鉄山。……儂の若き日の、たった一つの計算違いじゃ。門の実験が、あの男を引き込んだ。儂は詫び、元の世界へ帰す方法を探すと誓うた。あの男は怒りもせず、笑って、王国で武術を教え始めよった。……よい男じゃった。儂の、最初で最後の、友と呼べる男よ」
「……鉄山師匠を、あんたが」
「帰す方法は、ついに間に合わなんだ。あの男は異界の土で死んだ。――だがな、レオン。儂が壊れたのは、それが理由ではない。あの男の死に際に、儂は約束したのじゃ。『お前の技の系譜を、儂が見届ける』とな。それで儂は、あの男の流れを汲む家系を、そなたの家系を、見守り続けた。……見守るうちに、な。見えてしもうたのじゃ」
老人は、俺を見た。その目の奥には、俺が初めて見る、底なしの疲労があった。
「法も、身分も、国境も、二つの世界すら隔てる壁も――全部、まがい物じゃ。鉄山は誰よりも強く、誰よりも正しかった。だが王国の法は、あの男に爵位の一つも、墓の一つも、まともにくれなんだ。異界人だから、とな。……手続きが、書類が、あの男の五十年を『存在しなかったこと』にしたのじゃ」
「……それは」
「そなたなら、わかるはずじゃ。『あなたは法的には存在しません』と言われた、そなたならの」
夕焼けが、燃えていた。
「じゃから儂は、決めたのじゃ。壁のない世界を創る、と。法も、手続きも、戸籍もいらぬ。強さだけが、正しさだけが、そのまま通る世界。……そのためには、二つの世界を隔てる壁を、全部、壊さねばならん。壊すには、途方もない魔力がいる。……そなたは、そのために生まれてきてくれた。いや――生まれるように、儂が三代かけて、畑を整えた」
「――ヴォルフ」
俺は、拳を、握らなかった。握ったら、終わる気がした。
「あんたの言う世界じゃ、鉄山師匠は幸せだったか? 強さだけが通る世界で、あの人は武術を教えたか? ……違うだろう。あの人が王国で愛されたのは、強かったからじゃない。畳の上げ方から、味噌汁の炊き方から、教えたからだろう。あんたが憎んでる『まがい物』の中でしか、あの人の五十年は、育たなかったんだ」
老人は、答えなかった。
ただ、歩き出し、去り際に、一度だけ振り返った。
「――明朝、迎えに参る。恩人の顔で、な。……逃げても構わんよ、レオン。そなたが逃げれば、儂は明日、別の手を使うだけじゃ」
(第79話・了)




