第76話 「空っぽの玉座」
転機は、モスクワ防衛戦の後に来た。
撤退し損ねた魔兵三十七体が、門の閉鎖に取り残され、雪原で「停止」したのだ。追撃しようとする現地軍を、UNIT-X経由で押しとどめ、俺とリリスが現地に飛んだ。
雪の上に、黒い鎧の兵が、三十七体。棒立ちのまま、雪を被っていた。
「……死んでいるのか?」
「いや」
リリスは、先頭の一体の前に立ち、その兜に、素手で触れた。
「――眠らされている、が近い。こいつらの『芯』は、玉座と繋がっている。門が閉じて、糸が切れて、芯ごと止まった。……ふん。やはりな。この繋ぎ方、屍人形の術の応用だ。生きた兵を、半分だけ人形にして繋いでいる」
「解けるのか」
「三百年、何の魔王をやっていたと思っている」
リリスは、雪原の中央に立ち、両腕を広げた。俺が日本に来てから初めて見る、彼女の「本気の術」だった。銀の魔力が円陣を描き、三十七体の鎧を包み――兜の下から、一斉に、呻き声が上がった。
糸が、切れたのだ。
鎧を脱いだ魔兵たちは、人形ではなかった。牙のある者、角のある者、皆、ただの魔族の男たちだった。混乱し、雪に膝をつき、口々に呻いた。「ここは……どこだ」「玉座の間に、集められて……それから、何も」「三年? 三年だと? 俺は三年も……」
そして、その中の年嵩の一人が、彼らを解放した銀髪の女を見て――凍りついた。
「……り……リリス、陛下……?」
雪原の三十七人が、一斉に、跪いた。
「陛下!! ご無事で……!! 我ら、我らは、あなた様が退位されてから、新王の召集に応じ、玉座の間で忠誠の儀を受け……そこから先の記憶が……」
「――忠誠の儀、だと」
リリスの声が、低くなった。
「詳しく話せ。新王とは、何者だ。姿を見たか」
「は……はい。玉座の上に、常に。漆黒の大鎧で、玉座から一度も立たれず……御声は玉座の間に響くのですが、その、今思えば……唇が、動いておられたかどうか……」
リリスは、それきり黙り、俺に目配せをした。俺は捕虜たち(もはや捕虜と呼ぶべきか分からないが)の保護をUNIT-Xの人道班に引き継ぎ、彼女と二人、雪原を離れた。
――帰りの輸送機で、リリスは長いこと、窓の外を見ていた。
「……確定だな」と、やがて彼女は言った。「新魔王は、傀儡ですらない。傀儡には、まだ操られる『中身』がある。あれは――空洞だ。玉座に据えられた、声の出る大鎧。ヴォルフの声を、魔界の民に中継するだけの、空っぽの筒だ」
「……リリス」
「笑えるだろう? 私が三百年守った玉座だぞ。九回の講和に失敗して、側近に裏切られて、それでも民のために座り続けた椅子だ。それを追われて、悔しくて、悔しくて――」
彼女の声は、平坦だった。平坦すぎた。
「――その椅子に今、座っているのが、空っぽの鎧だ。私の民は三年間、誰もいない玉座に跪いて、誰でもない声に忠誠を誓って、人形にされて、雪の上で捨て駒にされていた。……私の玉座を奪ったのは、王ですらなかった。人形ですら、なかったのだ」
窓に映る元魔王の目から、涙が、一筋、落ちた。
三百年で初めての涙かどうか、俺は知らない。聞かなかった。ただ、隣に座って、彼女がエアコンの話をしたくなるまで、黙っていた。それが礼儀だと、この国で教わったからだ。
――着陸の直前、リリスは、顔を上げた。涙の痕は、もうなかった。あるのは、三百年ぶりに定まった、王の目だった。
「レオン・アークライト。決めたぞ」
「ああ」
「私は、玉座を取り返しには行かない。あんな椅子、あの空鎧ごと、薪にしてくれるわ。……私が取り返しに行くのは」
元魔王は、まっすぐ前を見て、言った。
「――民だ。一人残らず、あの男の糸から、取り返す」
(第76話・了)




