第75話 「修行編・心の堰」
無詠唱魔法制御道場(通称・廃寺道場)の一日は、こう始まる。
夜明け前、俺と与太郎さんの型稽古。日の出とともに理央が機材を起動し、俺の「水位」を計測。朝食(陽菜が週三で通ってくる。味は、もう店に出せる)。そして午前九時、本日の「封印調整」である。
「――いい? 第一段階、緩めるわよ」
理央が、腕輪の外殻に調整具を当てる。リリスが対面に座り、暴走の兆候を知覚で見張る。セリスは聖剣を構えて待機――暴走時に魔力を中和して斬り散らす、最後の砦だ。真琴は寺の外周を警戒し、氷雨は「万一の際の被害補償スキーム」を組んで鷹峰と詰めている(そこまでやるのが、俺の軍師である)。
かちり、と小さな音がした。
――十二年ぶりに、俺の中の「何か」が、ほんの少しだけ、息をした。
「……水位、微増。漏出、増えてない。いける」と理央。
「感想は?」とリリス。
「……妙な感じだ。ずっと締めていた帯を、一穴だけ緩めたような」
「その『帯の内側にいるもの』と、これから仲良くなってもらう。……いいか、レオン・アークライト。今日から貴様に教えるのは、魔力制御の、ほんとうの基本だ。人間の魔導師どもは詠唱だの術式だの小賢しい枠で縛るがな、魔族は、こう考える」
元魔王は、指を一本、立てた。
「――魔法は、命令ではなく、対話だ」
「対話……」
「そうだ。貴様は十二年、自分の魔法を『封じ込めるべき化け物』として扱ってきた。牢に入れ、鍵をかけ、見ないようにしてきた。……だがな、考えてもみろ。あの男に十七年、汲まれ続けてきたのは、誰の魔力だ? 貴様の魔法もまた――搾取されてきた側だ。貴様と、同じにな」
その言葉は、思いもよらない角度から、俺を撃った。
俺の魔法も、被害者。……一度も、そう考えたことがなかった。
「幽閉されて、汲み出されて、悪夢の形でしか外に出られなかった哀れな力に、貴様はこれから、初めて挨拶をするんだ。……こう言ってやれ。『長く閉じ込めて、悪かった』とな」
――修行の科目は、三つあった。
一つ目、「感情の稽古」。
与太郎さんが高座をやる。俺は聞く。笑う。……笑いながら、水位を上げない。「感情を殺すな。感情に飲まれるな。笑いながら、肚の底だけは静かにしとく。……客席で一番よう笑うお客はんはな、実は一番、冷静なんやで」。初日、寿限無で盆栽が三十センチ浮いた。七日目、「胴斬り」で大笑いしても、湯呑みの茶は、波一つ立たなかった。
二つ目、「眠りの稽古」。
最大の難関、夢である。理央が組んだ睡眠モニタの下で、俺は「心の畳み方」を習った。寝る前に、その日の感情を一つずつ、畳んで、仕舞う。与太郎さん曰く「布団に入るときはな、心も布団に入れたるんや。起きとる心のまま寝るから、夢が暴れるんや」。それでも初週は、三度、夢が漏れた。一度目、寺の湧き水が一晩だけ緑茶になった(理央が大喜びで成分分析をした)。二度目、裏山の竹が一列だけ螺旋に編み上がった(景観として意外に好評だった)。三度目――子供の頃の夢を見た。プリンの城の夢だ。目が覚めたら、枕元に、小さなプリンが一つ、本当に出現していた。
「……進歩だな」とリリスが真顔で言った。「城が、プリン一個になった。制御が効き始めている証拠だ」
誰も笑わなかった。プリンは、みんなで分けて食べた。妙に、うまかった。
三つ目、「対話の稽古」。
瞑想の中で、俺は、俺の魔法に「会いに行く」。
最初の一ヶ月、そこには何もいなかった。暗い水底のような場所があるだけだった。二ヶ月目のある日、水底に、光が見えた。近づくと、光は逃げた。……十二年、牢に入れてきたのだ。当然だった。
俺は、追うのをやめて、水底に座った。そして、稽古の帰りに与太郎さんに教わった通り、口の中で、言った。
「――長く閉じ込めて、悪かった」
光は、遠くで、揺れた。
「お前をあんな輪に繋いだのは、俺じゃない。だが、繋がれてると知って、まだ繋いでいるのは、俺だ。……もう少しだけ、待っていてくれ。必ず、輪の外で会う。そのとき、俺はお前の牢番じゃなく――相棒になる」
光は、答えなかった。
だが、その夜から、夢は一度も、漏れなくなった。
――封印は、三ヶ月で第四段階まで緩んだ。
水位計を睨みながら、理央がぽつりと言った。
「……ねえ、気付いてる? 第四段階の今のあなた、十歳の頃より魔力総量は百倍近いのに、漏出は、ゼロなの。装置が封じてるんじゃない。あなたが、もう、堰なの」
心の堰は、確かに、積み上がりつつあった。
あとは――これを、あの老人に、気取られないことだ。
(第75話・了)




