第72話 「火元の男」
それから三日間の俺を、どう書けばいいのか、正直、今でも分からない。
表面上、俺は普通だった。朝稽古をし、飯を食い、質問には答えた。だが、その全部が、薄い膜の向こうで行われていた。
膜の内側で、俺は、数えていた。
池袋、十四時間。あの日、俺は防衛線を三度守った。三度、全力を出した。……つまり三度、敵の水瓶を満たした。ニューヨーク、九十分。京都、竜と組み合った、あの数分。東京湾。大阪へ駆けつけた道中さえ。この一年、俺が「守った」と思ってきた戦いの全てが、裏側では「供給」だった。
勘定を終えたとき、膜が、破れた。
「……特別対処員を、辞めさせてくれ」
対処本部への申し出は、当然、大騒ぎになった。理由を言えない辞任(腕輪の真実は、まだ最高機密だ)。世界最強の、突然の戦線離脱。鷹峰は「一時的な任務停止」という形で預かってくれたが、UNIT-Xは騒然となり、報道は憶測で埋まった。
仲間たちは、俺を責めなかった。それが、一番、堪えた。
「レオンのせいじゃない」とセリスは言った。知っている。理屈では。
「悪いのは利用した奴だって、あなたが理央に言ったのよ」と美咲は言った。覚えている。自分の言葉だ。
「対抗術式を作る。時間をちょうだい」と理央は言った。信じている。彼女の頭脳を。
だが、理屈は、膜の内側には届かなかった。
理央の試算では、腕輪の抜き取りは、俺が「生きて、感情が動く」だけでも、微量に続く。笑っても、怒っても、誰かを守りたいと強く思っても――樋は、流れる。
つまり、この街で、この家で、みんなと飯を食って笑っている俺は、笑いながら、敵に水を送っている。
……夜、布団の中で、俺は初めて、あの言葉の本当の重さを知った。
十歳の冬、じいちゃんが腕輪を嵌めてくれた夜の言葉だ。『これで、おまえはただの人間だ』。……じいちゃん。あんたは知らなかったんだろう。あんたの旧友が、あんたの善意ごと、設計図に描き込んでいたことを。俺を「ただの人間」にしてくれたあの夜が、収穫の始まりだったことを。
俺の十二年は、あの男の畑だった。
俺の努力も、俺の信条も、俺の拳も――畑の、作物だった。
――四日目の、夜明け前。
俺は、布団を畳み、荷物を作った。大きな荷物じゃない。来た時と同じだ。折れた剣は、置いていくことにした。
文机に、書き置きを残した。何度も書き損じて、結局、短くなった。
『しばらく離れます。俺が遠くにいるほど、この街の空は裂けにくい。理央の対抗術式ができるまで、俺は俺を、みんなから遠ざけておきます。探さないでください。飯は自分で炊けます。 レオン』
玄関の引き戸を、音を立てずに開ける。この家の建て付けの癖は、屋根を直した俺が、一番よく知っている。
……敷居は、踏まなかった。
畳の縁も、踏まなかった。教わった通りに。
夜明け前の商店街を、俺は一人で歩いた。コロッケ屋のシャッター。銭湯の煙突。「日王友好電柱」。全部に、頭の中で、勝手に別れを言った。走り出したのは、街を出てからだ。西へ。人のいない方へ。山の方へ。膜の内側で、誰かの声がした気がしたが、振り返らなかった。
――同じ朝。与太郎邸。
朝稽古の刻限になっても、庭に、弟子の姿はなかった。
与太郎さんは、書き置きを、二度読んだ。それから、湯呑みの茶を、ゆっくりと飲み干した。
「……あかりちゃん。悪いけどな、寄席に電話しといてくれるか。今週の高座、休むわ」
「え……師匠、それって」
「アホ弟子がな」
老人は、立ち上がり、押し入れから使い込んだ木刀と、旅装の風呂敷を取り出した。その顔は、怒ってもいなければ、悲しんでもいなかった。強いて言えば――「知ってた」という顔だった。
「――家出のやり方まで、律儀なんや。敷居も踏まんと。……しゃあない。師匠の出番や。迎えに行くか」
(第72話・了)




