第6話 「居候、畳の道を知る」
与太郎邸の朝は、早い。
夜明け前、俺は庭で型を打つ。与太郎さんは縁側で茶を飲みながら、時々「腰が高い」「息が浅い」と、的確すぎる駄目出しを飛ばしてくる。魔王より厳しい。
だが本当の修行は、朝稽古の後に始まった。
「兄ちゃん! 畳の縁を踏むな!」
「なに!?」
「敷居もや! 踏むな!」
「待て。ならばどこを歩けばいい。床の九割が畳だぞこの家は」
「縁と敷居以外や!」
この国の家屋には、見えない地雷原が敷設されている。
畳の縁は踏むな。敷居は踏むな。座布団は踏むな。座布団を裏返すな。上座と下座がある。襖は両手で開ける。開けたら閉める。閉め方にも作法がある。
「異世界の王城の謁見作法より複雑だぞ、この家……!」
「当たり前や。城は王様一人に礼を尽くす場所やけどな、家はな、暮らしそのものに礼を尽くす場所や」
与太郎さんは、こともなげにそう言った。
……時々、この人はそういう「効く」ことを言う。噺家というのは、言葉の達人でもあるらしい。
昼は屋根の修理をした。約束の家賃代わりだ。
瓦を割らずに歩く足運びは、皮肉なことに武術の歩法そのものだった。「兄ちゃん、屋根の上で八極拳使うな」「使ってない。移動しているだけだ」「その移動が八極拳なんや」。
夕方は風呂焚きだった。
「薪で沸かす風呂は、日本でももう珍しいで。ありがたく思いや」
「火打ち石は?」
「マッチや」
マッチ。摩擦で火を生む小さな杖。文明とは、火を魔法なしで持ち歩くことだったのか。俺は感動し、調子に乗って一箱使い切り、怒られた。
薪割りは俺の仕事になった。斧は――使わない。どうせ柄が折れる。手刀で割った。
「……なあ兄ちゃん。ワシ、長いこと武術やっとるけどな、薪を手刀で割る人間、初めて見たわ」
「斧より速いぞ」
「そういう問題やない」
――夜。
与太郎さんに言われて、押し入れの奥から客用布団を出そうとしたときだった。
布団の下から、古い木箱が出てきた。中には、色褪せた写真の束。
「ん? ああ、それか。ワシの師匠の遺品や」
与太郎さんは一枚を手に取り、目を細めた。
白黒の写真だった。道場らしき板の間に、袴姿の男たちが並んでいる。中央に、若い男が一人。
その男の「構え」を見た瞬間、俺の心臓が跳ねた。
半身。沈んだ重心。前手は開掌、後ろ手は腰。踵は浮かせず、しかし土を掴まない――。
崩山颯の、起式の構えだった。
俺が七年かけて学んだ、異世界の武術の。基本にして奥義の、あの構えが。何十年も前の日本の写真の中に、あった。
「……与太郎さん。この男は、誰だ」
「ワシの大師匠――師匠の師匠や。天堂寺鉄山いうてな」
鉄山。
俺の師、ガンドルフ・鉄山と、同じ名。
「大した人やったらしいで。ワシは会うたことない。……ワシが生まれるより前にな、消えてしもたんや」
「消えた?」
「神隠しや。ある晩、道場から忽然と、や。履物も荷物もそのまま。五十年以上前の話や」
与太郎さんは写真を箱に戻し、いつもの笑顔に戻った。
「ま、昔の話や。はよ布団敷き。明日も稽古やで」
その夜、俺はなかなか寝付けなかった。
五十年前に消えた、日本の武術家。
異世界で俺に拳を授けた、老師ガンドルフ・鉄山。
――師匠。あんた、まさか。
俺がこの世界に落ちてきたのは、本当に「偶然」なのか?
(第6話・了)




