第5話 「その動き、八極拳やないか」
着流しの老人だった。
歳は六十を超えているだろう。小柄で、腹が少し出ていて、手には竹の杖。どこにでもいる好々爺に見える。
見える、が。
――隙が、ない。
立ち姿に継ぎ目がない。重心がどこにあるのか読めない。杖は支えではなく、あれは「選択肢」だ。俺の全感覚が警鐘を鳴らしていた。この爺さん、強い。
「兄ちゃん、今の突きな」
老人は杖の先で、俺の足元をちょんと指した。
「震脚から発勁、肘打ちへの繋ぎ。――八極拳やないか。それも、えらい古い伝の」
「はっきょくけん?」
「なんや、知らんと使うとるんかい」
俺は首を振った。
「俺が学んだのは、大陸の『崩山颯』という武術だ。師の名はガンドルフ・鉄山」
「テツザン! ……いや、まさかな。偶然やろ」
老人は何かを飲み込むように笑い、それから、杖を軽く構えた。
「まあ、ええわ。兄ちゃん、ちょっと手ぇ合わせよか。ワシ、強い若いもん見ると、我慢でけへん質でな」
「悪いが、この国では殴った時点で負けと教わった」
「殴らんでええ。触れるだけや。――ワシに触れられたら、兄ちゃんの勝ち」
瞬間、俺は動いた。
手加減はした。だが遊びでもない。半歩で間合いを消し、掌を伸ばす。常人には消えたように見える踏み込みだ。
触れられなかった。
老人は半紙一枚の距離で俺の掌を流し、杖の柄が、いつの間にか俺の喉元で止まっていた。
「……はい、一本」
背中に、久しぶりの汗が伝った。
魔王戦以来だ。この感覚は。
「あんた、何者だ」
「ワシか? ワシはな」
老人は杖を下ろし、にっと笑った。
「桂与太郎。しがない噺家や」
「はなしか、とは。戦闘職か」
「アホ。人を笑わす商売や。……まあ、昔ちょっとだけ、武術もかじっとったけどな」
ちょっとだけ、であの体捌きか。この国の「ちょっと」は信用しないことにした。
与太郎さんは、ベンチにどっかと腰を下ろし、俺の食い残しの焼きそばを勝手につまんだ。
「で? 兄ちゃん、あの型どこで覚えた。あれはな、ワシの師匠の、そのまた師匠の系譜の技や。日本のもんや。それをあんたみたいな外国の兄ちゃんが、ワシも知らん古い形で使うとる。……面白すぎるやろ、それは」
俺は少し迷って、正直に言うことにした。この老人に嘘は通じない気がした。
「信じないだろうが――俺は、異世界から来た。剣と魔法の世界だ。武術は向こうで学んだ。空手も八極も、名前は違うが同じ技が、向こうにあった」
沈黙。
笑い飛ばされる、と思った。警察でも、誰一人信じなかったのだ。
だが与太郎さんは、焼きそばを咀嚼し、飲み込み、そして言った。
「――やろなあ」
「……信じるのか?」
「兄ちゃんの技は、嘘つかへん。ワシら武術屋はな、口より先に、体の言うことを聞くんや。あの震脚は百年モンの伝の震脚や。十七、八の兄ちゃんがこの国で覚えられるもんやない。ほな異世界しかないやろ。消去法や」
むちゃくちゃな理屈だった。
だが、この世界に来て初めて、まるごと信じてもらえた瞬間だった。
鼻の奥が、少しだけ熱くなった。気のせいだ。夜風のせいだ。
「兄ちゃん、寝るとこあるんか」
「……公園の東屋が、雨風をしのげる」
「アホか。ワシんち来い」
与太郎さんは、事もなげに言った。
「そのかわり条件がある。朝は稽古に付き合え。あと、ワシの落語を聞け。感想は正直に言え。――あと、家賃代わりに屋根の修理な。この間の台風でイカれとんねん」
「いいのか。素性も知れない男だぞ」
「素性なら今聞いた。異世界の英雄なんやろ? ほな身元はしっかりしとるがな」
この爺さんの物差しは、どうなっているんだ。
こうして俺は、日本で最初の「家」を手に入れた。
築五十年、風呂は薪、屋根に穴。だが、布団は温かかった。
――ちなみにその夜、俺は与太郎さんの落語を三席聞かされた。
内容は半分もわからなかったのに、なぜか二度、声を出して笑った。
「筋がええな、兄ちゃん。笑いの筋や」
「武術より難しい芸だな、これは」
「わかっとるやないか。――ほな明日から、みっちり仕込んだるわ。武術も、この国の生き方も、な」
遠い異世界の夜空の下、師匠がまた一人、増えた。
(第5話・了)




