第4話 「英雄と二百八十円の壁」
警察署を出た俺の全財産は、王国金貨十二枚と銀貨三十枚。辺境伯領なら屋敷が建つ。
結論から言う。この世界での価値は、ゼロだった。
「換金? 無理よ。出所不明の貴金属なんて、まともな店は扱わない」
美咲にそう言われた。勤務明けなのに付き添ってくれるあたり、面倒見はいいらしい。「要保護者を放置したら私の責任問題だから」だそうだ。素直じゃない言い方をする女だ。
そして俺は今、「コンビニ」なる店の前で立ち尽くしている。
「……なんだ、この店は」
自動で開く扉。真昼のような光。整然と並ぶ、色とりどりの食料。飲料だけで百種類。握り飯が並び、湯を注げば麺になる椀があり、菓子の棚は国境の市場より長い。
「王都の中央市場より品揃えがいい……これが、町の……ただの店……?」
「大げさね。ただのコンビニよ」
「九条美咲。この『おにぎり』はいくらだ」
「百四十円ちょっとかな」
「では聞くが、俺の全財産でいくつ買える」
「ゼロ個ね」
魔王を倒した英雄は、握り飯一つ買えない。
これが敗北でなくて何だと言うのだ。
――見かねた美咲が、ラーメン屋に連れて行ってくれた。「立て替えよ。出世払いだから」と言いながら。
そして俺は、出会ってしまった。
「……なんだ、これは」
黄金色の湯。泳ぐ麺。浮かぶ焦がし油の香り。叉焼と呼ばれる肉の宝石。
一口すすって、俺は箸を置き、天井を仰いだ。
「魔王城の晩餐より、うまい」
「大げさ……でもないか。ここ、有名店だし」
「九条美咲。俺はこの国で生きていく。決めた。今、決めた」
「ラーメンで国籍を決めないで」
――だが、生きていくには金がいる。
戸籍のない俺は、まともには雇われない。氷雨からも「就労は絶対に問題を起こさないで。手続きに響く」と釘を刺されている。
そこで美咲が持ってきたのが、町内会の依頼だった。
「祭りの準備の力仕事。町内会からの謝礼っていう形なら、雇用じゃないから大丈夫だって、一ノ瀬先生の折り紙付き。……力仕事、できる?」
「俺を誰だと思っている」
翌日、俺は伝説になった。
四人がかりの櫓の柱を一人で立てた。氷五十貫を担いで階段を三往復した。倉庫の整理は開始十分で終わり、ついでに三十年開かなかった錆びた金庫の扉を素手で開けた(中身は先代会長の演歌のレコードだった)。
「あんた何者!? 相撲取り!? 自衛隊!?」
「魔王を倒した者だ」
「ハハハ! 今どきの若いもんは面白いこと言うなあ!」
夕方、謝礼の封筒と、余った焼きそば三人前をもらった。
公園のベンチで焼きそばを食いながら、俺は今日の戦果を数えた。所持金、八千円。ねぐら、なし。戸籍、申請準備中。
「……ままならんな」
だが不思議と、悪い気分ではなかった。魔王討伐の褒賞金より、この八千円のほうが、なぜか重い。
腹ごなしに、俺は公園の隅で型を打つことにした。
夜気を裂く正拳。土を噛む震脚。七年間、一日も欠かしたことのない俺の日課だ。
――そのときだった。
「……ほう」
植え込みの向こうから、声がした。
「兄ちゃん、ええ震脚や。地面が泣いとる」
着流しの老人が、そこに立っていた。
(第4話・了)




