第65話 「燃やすな、壊すな、勝て」
京都の空にそれが現れたのは、紅葉が盛りを迎えた、十一月の朝だった。
体長二十六メートル。鱗は熾火の色。翼を打つたび、東山の木々が嵐のように揺れた。
ドラゴン。それも、ワイバーンのような亜竜ではない。四肢と翼を備えた、正真正銘の火竜だった。
第一報を受けた対処本部の空気が、これまでのどの襲撃とも違う色に染まったのを、俺は覚えている。理由は単純だ。モニターに映る火竜の顎の下で、喉袋が、ふいご のように膨らみ始めていたからだ。
「――火を吹くぞ。あれの吐息は千二百度を超える。着弾点は半径三十メートルが燃える」
「着弾点の想定は」
「東山山麓から市街地。……つまり」
俺は、モニターの地図を見た。清水寺。高台寺。産寧坂の木造家屋群。国宝と重文の密集地帯。千年、火事と戦いながら残されてきた、木の街。
「……最悪だ」
ヘリで京都へ飛ぶ機中、対処本部から、正式な要請文が読み上げられた。歴史に残る要請文である。
『特別対処員に要請する。当該個体を無力化せよ。ただし、文化財保護法の趣旨に鑑み、指定文化財等への延焼・損壊を最大限回避すること。また鴨川の河川環境および紅葉時期の観光資源への影響を勘案し――』
「――要するに」と、同乗の氷雨が要約した。「燃やすな、壊すな、勝て。以上よ」
「無茶を言う」
「無茶よ。でも、あなた、無茶の専門家でしょう」
――現地の初動は、しかし、俺の到着より早く始まっていた。
驚くべきことに、動いたのは京都の人々だった。
文化財レスキューの手順は、この街には何百年も前から染み付いている。寺社の宝物は僧侶と学芸員の手で次々と蔵へ運ばれ、消防団は火竜の飛行ルートの真下で延焼防止の放水線を張り、町内会は「応仁の乱の時もこうやったんやろか」「あの時はもっとひどおしたやろ(見てきたように言う)」などと軽口を叩きながら、驚くほど整然と避難していた。
産寧坂の土産物屋の女将さんは、店を閉めながら、報道のマイクにこう答えた。
「竜? まあ、かなんなあ。……せやけど、うちの店、火事で焼けるの、これで五回目どすえ。五回とも建て直しましたんや。竜くらいで、六回目にしとぉへんわ」
千年の街の胆力である。俺はこの映像を後で見て、しばらく笑い、それから少し、泣きそうになった。
――作戦は、単純にして、綱渡りだった。
火竜を、市街地から引き剥がし、鴨川の河川敷――遮るもののない、水辺の空間へ誘導する。誘導役は、俺だ。
「竜の習性は?」と、無線でセリスに聞いた。彼女は聖剣を担いで、鴨川デルタで待機している。
『火竜は縄張りの侵入者に執着する。特に「自分より強い気配」には、格付けが済むまで絶対に離れない。……つまり、レオンが挑発すれば、レオンだけを追うわ』
「便利な習性だ」
『言っておくけど、翼のある二十六メートル相手に「追われ役」なんて、正気の沙汰じゃないからね!?』
「知ってる」
俺は、清水の舞台の――上ではなく、下の斜面に立った(舞台に上がって壊したら本末転倒だ)。息を整え、丹田に力を込め、そして、山に向かって、七年間で最大の「殺気」を放った。
効果は、覿面だった。
東山の稜線から、熾火色の巨体が、真っ直ぐに、俺へ向かって落ちてきた。
――そこからの十数分を、京都の人々は「竜の鬼ごっこ」と呼ぶ。
俺は屋根を踏まず、石畳を割らず、坂と路地と川床の柱を伝って、市街地を斜めに駆け抜けた。頭上を火竜が追う。喉袋が膨らむたび、俺は進路を捻じ曲げ、吐息の射線から建物を外させた。三度、熱波が背中を炙った。産寧坂の角を曲がる時、避難の遅れた猫を襟首ごと掴んで走った(後日、この猫は「竜猫」と呼ばれ、商店街の看板猫になる)。
鴨川に出た。
河川敷。遮蔽物なし。水、豊富。観客(避難済みのはずが、対岸の建物の窓に、鈴なり)。
「――セリス!」
「了解っ!」
デルタから跳んだセリスが、聖剣の腹で火竜の吐息を天に逸らした。千二百度の火柱が、初冬の空に立ち昇り、雲を焼いた。その隙に俺は、竜の懐に入った。
組み付いて、わかったことがある。
竜の首に、輪が嵌まっていた。黒い金属の、無骨な輪。そこから伸びた鎖の千切れた端が、鱗の間に食い込み、肉が爛れていた。
――制御具だ。
この竜は、野生ではない。捕らえられ、輪を嵌められ、痛みで従わされ、門をくぐらされた「兵器」だ。暴れているのではない。……ずっと、痛くて、怒っているのだ。
「……そうか。お前もか」
俺は、作戦を変えた。
無力化ではなく――解放に。
竜の首に張り付き、暴れる巨体に振り回されながら、俺は制御具の継ぎ目に、指をかけた。魔力で編まれた錠。だが、錠がどれほど精巧でも、物理的な継ぎ目は、ただの金属だ。
「破壊は、得意分野だ」
正拳、一号。
黒い輪は、鈍い音を立てて弾け飛び、鴨川に落ちた。
――竜は、河川敷に降り、長いこと、動かなかった。
やがて、爛れた首をゆっくりと持ち上げ、俺を見た。竜の目が知性を持つことを、俺は知っている。格付けの目でも、憎悪の目でもなかった。ただ、深く、疲れた目だった。
竜は、一声、低く鳴いた。
そして翼を広げ、鴨川の水面を割って舞い上がると、東の空へ――裂け目のない、ただの空へ向かって、飛び去っていった。対処本部のレーダーは、洋上で反応が消えるまで追い、「帰還先不明。敵性行動なし」とだけ記録した。
――その夜の会見で、俺は初めて、公式の場で「敵」の話をした。
「今日の竜は、兵器として使い潰されるところだった。ゴブリンも、オーガも、魔兵も、たぶん同じだ。……俺たちが戦っている相手は、魔物じゃない。魔物を『道具』にしている、誰かだ。そいつは竜に輪を嵌めるように、恐怖で世界に輪を嵌めようとしている。――だから、頼む。魔物を憎むのは、今日で終わりにしてくれ。憎しみは、そいつの燃料だ」
この会見は、世界中で放送された。
「魔物への憎悪」を煽り続けてきた各国の強硬論が、この日を境に、目に見えて失速した。
――そして、迎賓館の一室で。
ヴォルフは、テレビを消した。リモコンを置く手が、静かすぎた。
「……竜の輪を、外したか」
老魔導師は、長いこと、窓の外を見ていた。
「相変わらず、忌々しい拳だ。……壊すためにしか設計しておらぬものを、あの子は、解くために使う」
その声には、計画の狂いへの苛立ちと――ほんのわずかに、誰にも聞かせるつもりのない、別の何かが、混じっていた。
(第65話・了)




