第46話 「そっと置けない相手」
裂け目が開いたのは、理央の予測より二日早い、金曜の夕方だった。
多摩の空が割れ、今度のそれは、雪崩ではなかった。地響きだった。
体高三メートル。灰色の筋肉の壁。手には引き抜いた立木。オーガ。それが、八体。
群れは山を下り――今度は、廃工場に巣を作らなかった。まっすぐに、街道沿いの住宅地へ向かった。まるで、そこへ行けと命じられているかのように。
――夕刻の住宅地は、避難の途中だった。
防災無線が響き、車列が渋滞し、美咲は交差点で、逃げ遅れた住民を捌いていた。ベビーカーの母親を渡らせ、耳の遠い老人を背負い、最後にもう一度、路地を見回りに戻った――その時だった。
ブロック塀が、爆ぜた。
路地の突き当たりに、オーガが一体、立っていた。先行の一体が、群れを離れて住宅地に入り込んでいたのだ。
美咲は、老人を庇って下がった。腰の拳銃に手が伸び――止まる。背後は民家、射線の先も民家。撃てない。警棒を抜く。相手は三メートル。それでも彼女は、下がらなかった。老人の前から、一歩も。
オーガが、立木を振り上げた。
――その木が、振り下ろされることは、なかった。
「――九条美咲」
夕日を背に、路地の入口に、俺は立っていた。
「お前はいつも、俺に法律を教える。だから今日は、俺がお前に、異世界の常識を教える。……オーガはな」
一歩。踏み込む。今度は、震脚を、殺さない。アスファルトが、蜘蛛の巣状に割れた。
「――そっと置ける相手じゃ、ない」
そこからの九十秒を、日本中が見ていた。上空の報道ヘリが、生中継していたからだ。
初撃の正拳が、オーガの立木を粉砕した。二体目の突進を、俺は正面から受け止め、投げの理合で民家のない方向――河川敷へ、放り投げた。三体目、四体目。俺は「そっと」を捨てた。捨てなければ、守れない相手だった。裏拳が電柱をへし折り(すまん)、オーガの巨体が空き地の車を潰し(すまん)、震脚のたびに道路が割れた(本当にすまん)。
八体目が、河川敷で動かなくなった時、街は、静まり返っていた。
――そして、ぱらぱらと、拍手が起きた。
避難していた住民たちが、ビルの窓から、土手の上から、拍手をしていた。誰かが泣いていた。誰かが「ありがとう!」と叫んだ。ヘリのカメラは、砂埃の中に立つ俺と、俺に駆け寄る美咲を映していた。
「……レオン! 無事!? 怪我は!?」
「ない。……悪い、美咲。派手にやった。電柱と、道路と、車と……数えたくないな、これは」
「馬鹿。そんなの、そんなのは……!」
美咲の声は、途中から、言葉にならなかった。彼女は警察官の顔に戻るまでに、三秒だけ、かかった。その三秒を、俺は生涯、忘れないと思う。
――その夜。
日本中が英雄の誕生に沸く、その裏側で。
警視庁の一室では、深夜の協議が続いていた。机の上には、器物損壊(電柱二本、道路約四十メートル、車両三台、ブロック塀ほか)の被害報告と、「過剰防衛の疑い」と書かれた一枚の起案書。そして、鳴り止まない電話。――「あの少年を野放しにするのか」という、恐怖の側に振れた世論からの、少なくない声。
「……本気ですか。彼を、逮捕?」
呼び出された美咲は、上司の机の前で、青ざめた。
「上が決めた。世論が割れている以上、『法は誰にでも平等』を、示さねばならん。……明朝、任意同行を求める。九条、お前が行け」
「なぜ、私が」
「彼が抵抗しないのは、お前の時だけだからだ」
(第46話・了)




