第40話 「よく肥えた街」
その日は、何の変哲もない木曜日だった。
朝、俺は陽菜の店で味噌汁の出汁を指導し、昼は騎士団の講習(ゴミの分別・上級編)、夕方は与太郎さんと稽古をした。平和な一日だった。
――午後六時四十七分。
多摩の山あい、廃村になった集落の上空で、空が、割れた。
これまでの「ほつれ」でも「ノック」でもない。空が、縦に、百メートル裂けた。裂け目は夕焼けよりも赤く、そこから、雪崩のように、影が落ちてきた。
第一報は、ハイキング帰りの登山客の通報だった。
『も、もしもし!? 変な生き物が! 緑色の、子供くらいの、群れが! 山から!』
第二報は、駐在所の巡査。第三報は、麓の道の駅。第四報以降は、数えるのをやめた。
――与太郎邸の茶の間で、俺たちはテレビの緊急速報を見ていた。
ヘリからの映像だった。夕闇の山肌を、松明のような群れが、蟻の行列のように下っていく。カメラがズームする。緑色の皮膚。尖った耳。手には棍棒と、錆びた剣。
「……ゴブリンだ」
俺の声に、セリスが頷いた。顔から血の気が引いていた。
「群れの規模、最低でも三百。それに、あの裂け目の大きさ……レオン、あれ、まだ開いてる」
「ああ。第二波が来る」
電話が、一斉に鳴り始めた。俺のスマホには鷹峰から。セリスには騎士団から。美咲には署から非常招集。理央からは『観測値、振り切れた!』の絶叫。
そして、テレビの中では――日本の初動が、始まっていた。
『政府は先ほど、官邸に対策室を設置し――』
『警察庁は、未確認生物への対応について、現段階では鳥獣保護管理法の適用対象かどうかを含め、確認を急いでおり――』
『自衛隊の出動については、災害派遣、治安出動など複数の枠組みが検討されるものの、法的根拠について慎重な議論が――』
「――おいおいおい!」
俺は、思わずテレビに向かって叫んでいた。
「魔物の群れが出たんだぞ!? 会議をしている場合か! 王国なら鐘が鳴って騎士団が出るまで十分だ!」
「そうよ! 剣を返してもらわないと! 私の聖剣、まだ美術品なのよ!?」とセリス。
「兄ちゃん、嬢ちゃん、落ち着き」
与太郎さんだけが、湯呑みを置かなかった。
「――ええか。あの慌てとるように見える理屈の行列がな、この国の『鐘』なんや。この国はな、化け物が出ても、まず法律の本を開く国なんや。あんたらが三ヶ月かけて学んだ、あの退屈で、まどろっこしくて――誰も勝手に人を撃てん、あの尊い手続きや」
「だが、その手続きの間に、人が死んだら?」
「せや。それが第三部……いや、それが、明日からの本題や」
与太郎さんは、静かに立ち上がり、押し入れから、使い込まれた木刀を取り出した。
「法律が魔物に追いつくまで、何ができるか。何をしたらあかんか。……兄ちゃん。あんたの日本での戦が、ほんまの意味で、始まるで」
――同じ夜。迎賓館の最上階。
ヴォルフは、窓辺で、遠い山あいの赤い裂け目を眺めていた。ワインでも眺めるような目だった。
「――さあ、諸君。開演だ」
老魔導師は、誰もいない部屋で、恭しく一礼した。
「化け物に、法律で挑む国。とくと拝見しよう。……あの子が、拳と法の間で、どちらを選ぶのかもな」
窓の外、新宿の夜景は、いつもと変わらず光っていた。
まだ、いつも通りの顔をしていた。
(第40話・了/第二部・完)




