第39話 「点検の日」
点検は、与太郎邸の座敷で行われることになった。
場所を指定したのは、俺だ。「慣れた場所のほうが落ち着く」と言った。半分は本当で、半分は――この家が、俺の陣地だからだ。
座敷には、点検を受ける俺と、ヴォルフ。
縁側には、茶を啜る与太郎さん(「家主やからな、おることに理由はいらんやろ」)。
庭では、あかりが真琴に「スマホ講座」を開いている(という体で、真琴が全方位を警戒している)。
二階の物干しには、理央の「洗濯物」が干されている(シーツに見えるあれは、電磁観測用のアンテナ膜だ。よく作るよ、あんなもの)。
そして三軒隣のアパートの二階では、リリスが窓際に寝そべり、エアコンの効いた部屋から、三百年の魔力知覚をこちらに向けている。
疑う者たちの、静かな包囲網だった。
――そして、それを全部わかった上で、俺は畳に座っている。恩人を信じたい俺と、仲間の勘を信じる俺の、両方を連れて。
「では、始めますかな」
ヴォルフは、いつも通りだった。俺の左腕を取り、腕輪に枯れた手をかざす。低い詠唱。腕輪が、淡く光る。
子供の頃から何十回と見た、あの光だ。
「……ふむ。やはり歪みが出ておる。異界の魔力の巡りは、王国と逆でしてな。ここと……ここの術式が、緩んでおりますじゃ」
「直るのか」
「儂を誰と心得る」
老魔導師は、悪戯っぽく笑い、詠唱を変えた。腕輪の光が、一段深くなる。
――正直に言う。
その瞬間の俺は、懐かしさで、胸が詰まりそうだった。この光の下で、俺は何度も泣き、何度も安心して、何度も「ありがとうございました」と頭を下げてきたのだ。疑いなんて、湯気のように消えそうだった。
人は、疑いと恩の間では、恩に転ぶ。
……だが、この座敷には、俺一人ではなかった。
「――はい、お茶のお代わり」
与太郎さんが、実に自然な動作で、茶盆を持って座敷に上がり、ヴォルフの斜め後ろに、よっこいしょ、と座った。詠唱の手元が、一番よく見える位置に。
「や、これは家主殿。かたじけない」
「なんのなんの。……いやあ、しかし、大したもんですなあ、魔法いうもんは。ワシにはさっぱりや。――ときに魔導師はん、今の手ぇの動き、二回目だけ、指の折り方が違いましたな。あれは何ですのん?」
ヴォルフの詠唱が、コンマ一秒、止まった。
「……ほう。よう見ておられる」
「芸人ですのでな。人の手ぇを見るのが商売で」
「……あれは、緩みの深い箇所に使う、強めの結びですじゃ」
「へえ、へえ。勉強になりますわ」
二人の老人は、にこやかに笑い合った。座敷の温度が、二度ほど下がった気がした。
――点検は、二十分で終わった。
「――万全。これで当分は保ちますじゃろう」
ヴォルフは、俺の頭に、ぽん、と手を置いた。魔王戦の前夜と、同じ手だった。
「レオン殿。そなたは、儂の最高傑作を封じて、なお英雄になった。……誇りに思うておりますぞ」
その言葉に、嘘の匂いは、少しもしなかった。
だから、怖かった。
――夜。ヴォルフが迎賓館に戻ったあと、包囲網の「答え合わせ」が、リリスのアパート(六畳)で行われた。
「観測結果、発表します」と理央。「点検中の漏出値……下がりました。点検前の、四割減。……あの爺さん、ほんとに『治して』いった」
「「「……は?」」」
「私の知覚でも同じだ」と、リリスが不機嫌に言った。「奴は栓を、閉め直していった。丁寧にな。……おかしいだろう。栓を抜いていた犯人なら、なぜ閉める」
「見られてたから、とか?」とあかり。
「見られていると気付いた工作員は、何もしないものです。閉め直すのは、過剰です」と真琴。
議論が煮詰まりかけた時、それまで黙っていた与太郎さんが、口を開いた。
「……あのな。ワシ、今日、隣で見とって、一つだけ確かめたことがある」
「指の折り方、ですか」と真琴。
「あれはついでや。本命はな――あの爺さん、点検の間、兄ちゃんの腕輪しか見とらんかった」
「? 点検ですから、当然では」
「アホ。逆や」
与太郎さんは、湯呑みを置いた。
「ええか。医者でも、按摩でも、刀鍛冶でもや。道具や体を診る職人はな、必ず、途中で一度は『持ち主の顔』を見るんや。痛うないか、加減はどうか、ってな。診る対象は道具でも、診とる相手は人間やからや。……あの爺さんは、二十分、一度も兄ちゃんの顔を見んかった」
座敷が、しん、となった。
「あの爺さんにとって、兄ちゃんは『持ち主』やない。……腕輪が本体で、兄ちゃんが付属品なんや。六十年、人間の目ぇ見て飯食うてきたワシの、こら、確信や」
腕輪が本体で、俺が、付属品。
その言葉は、証拠にはならない。法廷では、一円の価値もない。
だが、俺の胸の一番深いところに、静かに、楔のように、打ち込まれた。
(第39話・了)




