第30話 「投票箱と王女」
市議会議員選挙の投開票日が来た。
王女の視察日程の最終盤に、氷雨はこの日を、裁判所と並ぶ「本命」として組み込んでいた。
投票所は、あかりの通う高校の体育館だった。日曜の朝の、なんでもない光景。上履きの匂い。ボールペンの音。ベビーカーを押す夫婦。杖をつく老人。制服姿の立会人が、眠そうに、しかし律儀に座っている。
「……これが、権力の交代の場、なのですか」
王女は、拍子抜けした様子だった。
「王国で王が代わる日は、鐘が鳴り、軍が並び、聖堂に貴族が満ちます。ここには……鐘も、軍も、ありません」
「はい。紙と、鉛筆と、箱だけです」と氷雨。
一人の老婆が、係に付き添われ、ゆっくりと記載台へ歩いていく。震える手で書かれた一票が、箱に落ちる。乾いた、小さな音がした。
王女は、その音を、聞き逃さなかった。
「……今の一票と、大臣の一票は」
「同じ重さです。完全に」
「…………」
夜、開票所。パイプ椅子の上で、王女は開票作業を最後まで見届けた。淡々と数えられる紙の束。当確の一報。敗れた現職が、事務所で頭を下げるテレビ中継。
「一ノ瀬先生。あの敗れた方は、明日から、どうなるのです」
「ただの人に戻ります。逮捕もされず、追放もされず、ただの人に。……そして四年後、また挑めます」
「敗者が、生きている」
王女の声は、少し震えていた。
「王国の権力争いは、敗者が墓に入ることで終わります。だからみな、負けられない。負けられないから、手段を選ばない。……この国は、『負けても死なない』を発明したのですね。だから、何度でもやり直せる」
紙切れ一枚で、権力が、静かに交代する。
誰も死なずに。
王女はその夜、手帳の最後のページに、たった一行だけ記した。
『持ち帰るもの:肉まんの製法、六法全書、そして――負けても死なない国の作り方』
――そして、帰路。
迎賓館へ向かう車列の前に、一人の男が立ちはだかった。
警護が色めき立つ。真琴が王女の前に滑り込む。だが男は、武器を持っていなかった。かわりに、一枚の紙を、両手で掲げていた。
国会議員・大神一徹、六十二歳。「異世界勢力の即時退去を求める会」会長。
「フィリア王女殿下! 陳情であります!」
男は、直角に頭を下げた。
「私の選挙区の漁師は、空の裂け目が出てから、海に出るのを怖がっとる! 子を持つ親は、鎧の集団が歩く街を不安がっとる! あんたらが善良かどうかは知らん! だが、わしの有権者の不安は、本物だ! この声を、無視してもらっては困る!!」
警護官が男を排除しようとした、その時。
「――お待ちなさい」
王女が、自ら車を降りた。
そして、陳情書を、両手で受け取った。
「大神議員。あなたは今、徒手で、王族の車列の前に立ちましたね。王国でそれをすれば、良くて投獄です。ですが、あなたは知っていた。この国では、それが『権利』だと」
「……当然だ。憲法十六条、請願権」
「ええ。……わたくしは今日一日、この国の民が、王を紙で選び、権力に紙で異を唱えるのを見ました。あなたの陳情書は、本日わたくしが受け取った中で、最も重い紙です。必ず、読みます。そして、必ず、答えます」
大神議員は、しばらく王女を睨み――ふん、と鼻を鳴らした。
「……異世界の姫さんが、請願権ときたか。日本の政治家も、うかうかしとれんな」
この頑固な老議員が、後の国会で、誰よりも重要な役回りを演じることになるのだが――それは第三部の話である。
(第30話・了)




