第1話 「英雄、職務質問される」
空の裂け目から放り出された俺は、完璧な受け身で着地した。
さすが俺。七年の修行は伊達じゃない。着地点の看板がちょっと曲がったが、誤差だ。
「……なんだ、ここは」
顔を上げて、息を呑んだ。
塔だ。見たこともない高さの塔が、視界の果てまで林立している。壁は全面が水晶のように光を反射し、その谷間を、鉄の箱が音もなく滑っていく。夜だというのに、あたりは真昼のように明るい。豆粒ほどの文字が壁一面で踊り、巨大な壁画では、見知らぬ女が歌っていた。
そして、人。
人、人、人。
祭りか? 戦か? どちらでもないらしい。誰も俺を見ない。誰も立ち止まらない。全員がそれぞれの方向へ、川の流れみたいに歩いていく。
――後にこの場所が「新宿駅東口」であり、この人の流れが「日常」であると知って、俺は王都の祭りの人出を思い出して、静かに敗北を認めることになる。
「おい、そこの君」
声をかけられた。振り向くと、青い制服の男が二人。腰に短い棒と、見たことのない黒い道具。目つきは穏やかだが、重心の置き方に隙がない。……兵士か。それも訓練された。
「ずいぶん変わった格好だね。イベントの帰り? ちょっといいかな」
「俺はレオン・アークライト。アークライト辺境伯領の出身だ」
「はい?」
「魔王を倒した者だ」
「…………」
兵士二人が顔を見合わせた。片方が、耳につけた小さな道具に何かを囁く。
「えー、こちら新宿東口交番前。マオウを倒したという少年を保護――いや、自称です。はい。コスプレと思われ――」
「待て、自称とはなんだ。事実だ。なんなら証拠もある」
俺は腰の剣を抜いて見せようとした。
これがいけなかった。
「「刃物ーーーッ!!」」
兵士たちの目の色が変わった。周囲の人の流れが初めて乱れ、悲鳴が上がり、光る板を構えた民衆がなぜか逃げずに集まってくる(この行動の意味も、後に「撮影」と知って愕然とする)。
「落ち着け! これはただの折れた剣だ!」
鞘から出てきたのは、案の定、根本から折れた刀身十センチの剣だった。凱旋式用の飾り剣ですら、俺が持てば三日が寿命だ。
「折れて……る?」
「ああ。俺が持つと剣は折れる。だから拳で魔王を倒した」
「……とにかく、それはしまって。ゆっくりでいいから、こっちに渡してくれるかな」
兵士の声が一段低くなった。ほう。丁寧だが、これは「命令」だな。断れば実力行使、というやつだ。
いいだろう。実力勝負なら、こっちの領分だ。
俺は半身に構え、重心を落とした。
「腕に覚えがあるようだな。悪いが、俺は魔王より強いぞ」
「はーい、戦わないでねー! 戦わないでねー!!」
――結論から言うと、俺は戦わなかった。
なぜなら次の瞬間、割って入ってきた別の人物に、完璧に制圧されたからだ。
「はい、そこまで」
声とともに、俺の構えた右腕がするりと取られた。関節の遊びを的確に殺した、教科書のような小手返し。俺だから逃れられたが、常人なら地面とキスしている。
逃れた俺は跳び下がり、相手を見た。
女だ。俺と同じ年頃……いや、少し上か。青い制服。長い髪を後ろでまとめ、その目は真冬の湖みたいに冷えていた。
「新宿署の九条美咲。……あなた、今、警察官に暴行しようとしたわね?」
「暴行ではない。決闘だ」
「もっと悪いわよ」
「なに?」
「決闘はね、決闘罪っていう明治時代からの法律でちゃんと処罰されるの。申し込んだだけでも罪。知らなかった?」
は?
「待て。決闘が……罪? 戦士と戦士が、正々堂々、力比べをすることがか?」
「罪です。逮捕します」
「じゃあ何か、この国では、強さはどうやって示すんだ」
「示さなくていいの、そんなもの」
女――九条美咲は、心底呆れた顔で言い放った。
「この国ではね、どんなに強くても、殴った時点で負けなの」
――衝撃だった。
魔王の魔閃よりも、竜の顎よりも、その一言は重かった。
殴った時点で、負け。
力を示せば罪になり、剣を抜けば囲まれ、決闘を申し込めば明治時代とやらの法律に斬られる。
俺は理解した。この世界の強さは、腕力ではない何か別の体系で編まれている。それはたぶん、「ほうりつ」とかいう、目に見えない魔法陣だ。この国の人間は全員、その魔法陣の内側で生きている。
面白い。
魔法を捨てて拳を取った俺が、今度は拳すら封じられるわけだ。
「おい、九条美咲」
「呼び捨てにしない」
「その『ほうりつ』とやら、どこで学べる」
美咲は虚を突かれたように瞬きをして、それから、ため息をついた。
「……とりあえず、交番で全部聞くから。来なさい。身分証は?」
「ない」
「住所は?」
「ない」
「名前は……レオン・アークライト、ね。国籍は?」
「アルディア王国」
「…………はあ。長い夜になりそう」
こうして俺は、異世界最強の格闘家は、生まれて初めて「保護」された。
魔王を倒した拳は、この夜、交番の安いパイプ椅子を運ぶのに使われた。
――英雄、日本上陸。
戦績、一勝もしていないのに、すでに全敗である。
(第1話・了)




