第10話 「くしゃみ厳戒態勢」
春が来た。
異世界にも春はあった。花が咲き、鳥が歌い、魔物が冬眠から覚めて暴れる、あの春だ。
だが日本の春には、異世界にない魔物がいた。
「……っ、ふ……」
「レオンさん? どしたの?」
「鼻の奥が……むず……」
「あ、それ花粉症だ」
スギ花粉。目に見えぬ黄色い粉が、空から国土全体に降り注ぐという。化学兵器か? と聞いたら「自然現象」と返ってきた。この国の自然は手加減を知らない。
そして、ここで諸君に思い出してほしい。
俺のくしゃみは、かつて山を一つ、隣の山と入れ替えたことがある。
「――ふ……っ、ぶえっくしょい!!」
庭で盛大に一発かました瞬間、左腕の腕輪が、ミシ、と鳴いた。
全員の動きが止まった。
与太郎さんが、湯呑みを置いた。
「……兄ちゃん。今の音、なんや」
「腕輪が、軋んだ。……封印具にも、負荷の限界がある。思考の魔法は完全に堰き止めてくれるが、くしゃみは――アレは思考じゃない。反射だ。堰の一番弱いところを、内側から蹴られるようなものらしい」
「らしい、て。軋んだらどうなるんや」
「ヒビが入れば、漏れが増える。割れれば――」
俺は、庭の隅の自動販売機(与太郎さんの家の塀に設置されている)を見た。さっきのくしゃみの余波で、「つめた〜い」の列が全部「あったか〜い」に変わっていた。春なのに。
「……最悪、山が動く」
「非常事態やないか!!」
その日から、与太郎邸は「くしゃみ厳戒態勢」に入った。
あかりが花粉症対策グッズを買い込んできた。マスク、眼鏡、鼻に塗る謎のクリーム。玄関には粘着ローラー。「花粉は玄関で落とす! 常識!」
噂を聞きつけた麗華からは、業務用の空気清浄機が六台届いた。「白鳥エレクトロニクスの最上位機種ですわ! これで貸しひとつ!」家中の空気が、たぶん王城より綺麗になった。
美咲は真顔で「くしゃみが出そうになったら、とにかく上空に向けて。被害が最小になるから」と、対テロ訓練みたいな指導をしていった。
だが、一番効いたのは、与太郎さんだった。
「兄ちゃん。くしゃみはな、出る三秒前に必ず『気配』がある。噺家は高座でくしゃみでけへんからな、殺し方を知っとる」
「……聞こう」
「鼻の奥がむずっと来たら、舌先を上顎に強う押し付けて、息を細う、長う吐く。あとは肚や。肚が据わっとれば、反射は御せる」
半信半疑で試した。
――効いた。
むずむずが来るたび、舌を押し付け、息を吐く。腕輪は、あれから一度も鳴いていない。
「与太郎さん。あんたの呼吸法は、俺の世界の『内功』と同じだ」
「そらそうや。笑いも武術も、最後は息や。……ええか兄ちゃん、覚えとき」
与太郎さんは、真面目な顔で言った。
「反射で出るもんを、修行で御せるようになる。――それはな、『反射で出る魔法』にも、いつか効くかもしれん、いうことや」
思考すれば発動する、俺の無詠唱魔法。
それを、腕輪なしで御する道が、もしあるとしたら。
……いや、まさかな。七年学んで、無理だったのだ。
このときの与太郎さんの一言が、遠い遠い先の決戦で俺を救うことになるとは、春の縁側でずびずび鼻をかんでいた俺は、知る由もなかった。
――なお、この「くしゃみ騒動」の間。
新宿の空に一瞬走った微弱な魔力反応を、たった一人だけ、観測していた人間がいる。
都内某大学の研究室。カップ麺のタワーに埋もれた画面の前で、白衣の女が、目を見開いていた。
「……出た。また出た出た出た! この波形、自然界に存在しちゃいけないやつ!」
彼女は椅子ごと立ち上がり、叫んだ。
「発生源――新宿区! 特定した! 会いに行くしかないでしょ、これは!!」
(第10話・了)




