第100話「ただいま」
夕暮れの商店街を、大所帯で歩く。
コロッケ屋の親父が「おう英雄! 今日は揚げたてあるぞ!」と呼び、全員分の包みを持たされる。精肉店の女将さんが「あんたたち、大根持っていきな」と袋を押し付けてくる。交番の若い巡査が敬礼をし、美咲が「私用中」と手を振り返す。銭湯の煙突に、一番星がかかっている。
一年前、たった一人で立ち尽くした、あの街だ。
誰も俺を見なかった、あの雑踏が――今は、うるさいくらいの、顔見知りの列だ。
「……なあ、レオンさん」と、あかりが横に並んだ。「これから、どうするの? 特別対処員って、平和になったら、暇でしょ」
「ああ。それなんだがな。……氷雨が、書類を出してくれた」
「書類?」
「編入手続きだ。――四月から、高校に行く」
「「「ええええ!?」」」
大所帯が、商店街のど真ん中で、ひっくり返った。
「だ、だって、レオンさん、魔王倒した英雄で、国連で演説して、世界救って……こ、高校!?」
「戸籍があって、住民票があって、十七歳なんだ。……行けるんだよ、学校に。この国の書類は、そういう風にできてる」
俺は、包みのコロッケを一口齧って、言った。
「それにな。俺は異世界の武術と、この国の法律は学んだが……『普通』ってやつを、まだ習ってない。同い年の連中が、何を笑って、何に悩んでるのか。テストの前の夜が、どんな気分か。……世界を守るより、そっちの方が、よっぽど未知だ。武者修行だよ、これも」
「……ふふっ。何それ」と美咲が笑った。「言っとくけど、遅刻したら学校にも警察にも怒られるからね」
「校則は法律より厳しいと聞く。腕が鳴るな」
「鳴らさないで」
――与太郎邸の門が、見えてくる。
直した屋根。継ぎはぎの塀。庭の柿の木。縁側の、湯呑み。
俺の、家だ。
引き戸に手をかけたところで、与太郎さんが、ぽつりと言った。
「……兄ちゃん。一個だけ、聞いてええか。あんた、結局、魔法はどないすんのや。相棒はん、せっかく自由になったのに、あんた、普段ちっとも使わんやろ」
「ああ。……相棒とは、話がついてる」
俺は、左腕の、輪の痕を撫でた。痕は、もうずいぶん、薄くなった。
「困ってる奴がいたら、二人で助ける。空が裂けたら、二人で塞ぐ。……でも、日常はな、生身でやる。飯は手で炊くし、屋根は手で直すし、稽古は汗でやる。魔法で楽をした日常なんて、あいつも俺も、望んでない。――十二年ぶりに自由になった奴が選んだのが『普段は昼寝』なんだ。いい相棒だろう」
「……ええ相棒や」
与太郎さんは、笑って、それから、ふと真顔になった。
「なあ、兄ちゃん。ワシな、六十五年生きて、英雄いうもんを、初めて間近で見たわ。ほんで、わかったことが一つある」
「……なんだ?」
「――英雄いうもんはな」
老噺家は、弟子の背中を、玄関へ、とん、と押した。
「――最後に帰る場所があるから、英雄なんや。……ほれ、言うたり。玄関で言う、あの言葉や。あんたが一年かけて、拳でも魔法でもなく、手に入れた言葉や」
俺は、引き戸を、開けた。
夕飯の匂いがした。陽菜が今夜は泊まりで腕を振るうと言っていた。茶の間から、賑やかな声が溢れていた。理央が何かの計器を自慢し、麗華が扇子で笑い、真琴が「半分だけ」と言いながらコロッケに手を伸ばし、リリスが「エアコンを入れろ」と主張している。
俺は、息を、ひとつ吸って。
十七年と一年ぶんの、ぜんぶを込めて、言った。
「――ただいま」
「「「「――おかえり!!」」」」
――物語は、ここで終わる。
剣と魔法の世界で最強だった男が、法律の国で最弱から始めて、手に入れたものの話だ。
強さの話だと思って読んだ人には、悪いことをした。これは最初から最後まで――帰る場所の話だったのだ。
明日も、夜明け前に、庭で型を打つ。師匠の駄目出しは、今日も厳しいだろう。春が来れば学校が始まり、たぶん、盛大に何かをやらかすだろう。いつか門が開けば、王国に教えに行き、じいちゃんの返事を受け取り、セリスの煮干しラーメンを笑いに行く。
魔法を使うくらいなら、拳で戦う。
拳を使うくらいなら、話し合う。
話し合うために、法がある。
法の向こうに、飯があって、風呂があって、高座があって――「おかえり」がある。
……それが、二つの世界で一番強かった男の、たどり着いた答えである。
(第100話・了)
【完】




