第24話 そうだろ、灰守
窓の外で空が真っ二つに割れた。校舎のすぐそばに雷が落ちたのだ。その雷の光で辺り一帯が昼間のように明るくなる。停電で真っ暗だった教室内も一瞬だけ白く染まった。
まばたきをするより短い時間だったかもしれない。時間がゆっくり流れたような錯覚を覚えつつも、俺は確かに見た。半開きになったこの目の向こう側で、獅堂と泉羽をちゃんと捉えていた。
獅堂の顔には驚愕が張り付いていた。その奥で泉羽も息をのんだまま動けずにいた。頬を伝った涙が雷の光を反射しきらめいていた。泉羽は俺の顔がちゃんと見えただろうか。逆光で見えなかった、なんてことになっていなければいいが。
そんなことを考えていると、鼓膜を突き破るほどの轟音が遅れて届いた。窓ガラスがびりびりと震えた。
「おめでとう、灰守。君の勝ちだ」
神の声が聞こえた。明るい声色でありながら、どこか感情の欠落した響きだった。勝者の俺を祝福しているようで、どっちが勝ったかなど最初から興味がないような冷たさが混じっている。
視界の端に浮かんでいた赤い光へ俺は意識を向ける。デジタル表示は『00時間01分53秒』を示していた。その無機質な数字がぴたっと止まる。赤い光は役目を終えたように薄れて消えた。
終わったのだ。長く苦しかった35時間にようやく終止符が打たれた。
巨体がバランスを崩し、獅堂は後ろへ倒れこんだ。俺の体も力なく床へ転げ落ちる。
突如、俺をつかんでいた獅堂の右腕がボキボキと嫌な音を響かせた。人間の関節ではあり得ない方向へ折れ曲がっていた。見えない誰かが腕を雑巾みたいにねじっているようだった。筋肉が引き裂かれ、骨が皮膚の下で盛り上がる。あと少し力が加われば皮膚を突き破って飛び出しそうだった。
あまりの激痛に獅堂が絶叫する。その叫びはさっきまで俺を殺そうとしていた男とは思えないほど情けないものだった。
獅堂の呼吸が浅くなり、床を転げ回る。喉の奥からヒューヒューと空気が漏れていた。口を大きく開けてはいるが、空気はほとんど肺へ届いていないらしい。自分の喉を激しく掻きむしっている。顔色は青白く変わり、目の焦点も定まっていない。死人の俺はただ見ているしかなかった。
「たっ、す……け……」
そうつぶやいた直後、獅堂の体が弾けた。何十メートルもの高さから地面へたたきつけられたように、肉と骨とが周囲に飛び散った。赤い飛沫が教室中へ広がり、机や床を真っ赤に染めた。生ぬるい血が俺の顔や制服にも降りかかった。
それでも、残りかすのようにわずかな原形をとどめた獅堂は生きていた。死んでいるようにしか見えないが確かに生きていた。潰れた胸がかすかに上下し、耳を澄ませば微かな呼吸音まで聞こえる。なんという生命力だ。普通の人間ならばとっくに死んでいるはず。逆に言えば、生きているからこそ苦痛を味わい続けていた。あまりにも皮肉で残酷な罰だった。
もう死ね。俺がそう願ったとき、獅堂の太い首が直角に折れ曲がる。乾いた破裂音が鳴って、体はぴくりとも動かなくなった。
数秒後、獅堂の体が静かに崩れ始める。映像データが削除されるように、肉も骨も四角いノイズへ分解され、粒子となって空気へ溶けていった。飛び散った肉片も血痕も、俺の制服についた血液さえ跡形もなく消えていく。それは獅堂龍辰という存在の消滅を意味していた。
突然、勢いよく飛び込んできた細い体を俺は反射的に受け止める。泉羽が俺に抱き着いていた。甘くて懐かしいシャンプーのにおいが鼻をかすめた。泉羽は小刻みに震えていた。怖かったに違いない。精一杯張っていた気をようやく緩められたのだ。
「トージ、勝手にいなくなって……。心配したんだから」
「悪い」
「ばかぁっ……!」
泉羽は俺の胸の中で泣いている。しゃくり上げるたびに涙が俺のシャツを濡らしていく。俺は泉羽の背中へ回した手に優しく力を込めた。震えを止めてやりたかった。安心させてやりたかった。同時に、強烈な違和感が俺を貫く。
なぜ泉羽は死んでいる俺に触れられるのか。そもそも俺の声は生きた人間に届かないはず。それなのに泉羽は返事をした。死んだ俺と生きている泉羽。その絶対に交わらないはずの境界線がいつの間にか消えていた。
「おい神、何がどうなってる?」
まさか俺は生き返ったのだろうか。そんな期待が胸の奥で膨らむ。だが次の瞬間、冷静な思考がその希望を踏み潰した。そんなはずはない。俺の知る神は、ハッピーエンドのご都合主義展開を望むような奴じゃない。人間が苦しみ、迷い、絶望する姿を笑って眺める最低最悪の存在だ。そんな奴が俺を生き返らせるはずはない。
「いやぁ、ほら、最後に盛り上がりのないデスゲームって退屈でしょ」
頭の奥で声が響いた。その声には、勝者である俺を祝う気持ちなど欠片もない。
「だから残り1時間を切ったとき、黄城泉羽に持ちかけたんだよ。デスゲームに参加しないかってね」
何を言ってやがる。泉羽がデスゲームに参加だと。ふざけるな。勝手に泉羽を命がけの戦いに巻き込むな。俺の中で怒りが一気に噴き上がった。どこにいるかも分からない神へ殴りかかりたい衝動に駆られた。
泉羽は俺と違う。これから先も笑って、俺以外の人と恋をして、普通の人生を歩いていける。そんな当たり前の未来を持つ16歳だ。いくら神でも、善良な女子高生を死のゲームへ引きずり込む資格なんてない。あってはならない。
「もちろん、ちゃんと状況は説明したさ。灰守は既に死んでいて、今まさに獅堂とデスゲームをやっている最中。灰守が負ければ、灰守は存在ごとこの世から消える。君の記憶からもいなくなる。24時までに灰守の顔を見ることができれば、黄城の勝ち。それは同時に、灰守の勝利にもなるって条件でね」
勝ったから良かったものの、もし負けていたらどうなっていたことか。デスゲームだから、もちろん死んでいたのだろう。その未来を想像しただけで全身が冷えた。
「黄城はすぐに参加したいと言ってきた。そして実際、君たちは勝った。おめでとう。本当におめでとう」
「それでっ! なんで俺たちはお互いの存在を認識できて、言葉を交わして、触れ合えてんのかってきいてんだよ!」
俺が問うているのは、死者と生者の間にあるはずの境界線について、だ。
「あぁ……、そうかそうか。黄城は、自分が勝ったら灰守とずっと一緒にいたいと願ったからね」
嫌な予感がした。その後の神の言葉を聞くのが怖くなった。
「自分は死んでも構わないからって」
その一言は俺を凍り付かせた。
次いで、激しい動悸がした。耳のすぐそばで血管が脈を打つ。信じない、絶対に信じない。神は平気で人をだます。俺を絶望させるためなら、こんな嘘くらい平然とつく。そう言い聞かせても、納得していない自分がいた。
なぜなら神は最低な性格をしているが、嘘をついたことはない。ゲームの駒でしかない人間のために、神がわざわざ嘘をつく道理はない。そして俺と泉羽とが触れ合えているこの状況こそが、全てを物語っていた。
俺はゆっくり首を動かし、さっきまで泉羽がいた方向へ目を向ける。そこには泉羽の体が静かに横たわっていた。ぴくりとも動かない。雨に濡れた髪が床へ張りつき、頬から血の気は失われている。胸は上下していない。目を閉じたその姿は眠っているように穏やかだ。なのに魂と生命とがきれいに抜け落ちていた。見間違いようがない。死体だった。
「私、ずっとトージのことが好きだったから。これからも、そばにいさせてほしいの」
俺を見上げながら、腕の中で泉羽が言った。迷いも後悔も感じられない。心からの願いを口にしているようだった。
そして今になって気づく。泉羽の顔の輪郭が少しぼやけていた。よく観察してみると、泉羽の体全体が半透明になっている。向こう側の景色がわずかに透けて見えた。それはつまり、俺と同じ魂だけの存在ということだ。
言われてみれば、抱き締めている泉羽には死人の冷たさがあった。一切の体温が感じられない。その事実が鋭い刃のように俺を突き刺した。
「トージ……?」
俺は言葉を失っていた。何かを言わなければならないのに喉が動かない。喉の奥が突っ張っていた。全身が張り裂けそうだった。うまく息ができない。大きすぎる後悔が俺にのしかかっていた。
デスゲームに参加しなければ……。そう、俺は1人で消えるべきだったのだ。
泉羽は、自分の未来も、両親と過ごす何十年もの時間も、友達と笑い合う何気ない日々も、それら全部を投げ打って俺のそばにいることを選んだ。俺を助けるため、俺と一緒にいるために、自分の命を差し出した。
その事実があまりに重かった。こんな想いを向けられる資格なんて、ビビりで臆病な俺にはない。でも嬉しい。どうしようもないくらい嬉しい。
ただ、その何百倍もの罪悪感が心を締めつける。俺は泉羽から何も奪いたくなかった。幸せになってほしかった。誰よりも笑って生きていてほしかった。その未来を壊した根本の原因が俺だと思うと、喉の奥が焼けるように熱くなり、何度息を吸っても苦しさは消えなかった。
「……ねぇ、トージのそばにいてもいいでしょ?」
「あぁ……」
泉羽の催促に俺は力なく返事をした。その声は震えていた。俺は震える腕で泉羽の小さな背中をそっと、それでも壊れそうなくらい強く抱きしめた。もう二度と泉羽を離したくなかった。
さっきまで怒号や悲鳴で満ちていた教室は、嘘みたいに静まり返っている。割れた窓から吹き込む冷たい雨が、半透明の俺たちを濡らしていた。その雨は魂の輪郭をなぞって床に落ちていく。
「両想いが成就して良かった。これがハッピーエンドってやつか」
神の言葉に泉羽は少し照れて笑った。そして「ありがとう」と答える。その無邪気な一言が、俺の胃をキリキリと痛めた。
「トージ、眼鏡ないほうがかっこいいよ」
自分の命を失った直後だというのに、そんな呑気なことを言って泉羽は笑顔を見せる。その笑顔は俺のよく知る泉羽と何一つ変わらなかった。だからこそ苦しかった。今、俺はどんな表情をしているのだろう。何と返答すればいいのだろう。もう、何が正しいのか分からない。
涙があふれて仕方なかった。最愛の幼なじみとようやく想いが通じ合えた喜び。その代償として泉羽の未来を奪ってしまった悲しみ。その2つが心の中でぐちゃぐちゃに絡み合っているのだと思う。
真っ暗な教室には俺と泉羽の冷たい亡骸が転がっている。その光景はあまりにも残酷で、あまりにも現実離れしていた。
神は腹を抱えてゲラゲラと笑っている。泉羽の命と引き換えに俺が手に入れたこの結末を、最高の娯楽でも見ているように笑っている。神に対して、怒りや憎しみという感情はもちろんあった。でもそれ以上に深い疲れが俺を支配していた。所詮俺たち人間は神の駒でしかない。泣こうが叫ぼうが、エンターテイメントとして消費されるだけ。
そのとき、生ぬるい風が教室を静かに吹き抜けた。俺のすぐ耳元で、親しい友人へ秘密を打ち明けるみたいに神がささやいた。
「人間は奇妙な生き物だ。そうだろ、灰守」




