7章2話 Hǫðr 戦ぐもの
もはや無敵となったバルドルは、光り輝く髪を靡かせ、大通りを歩いていた。その彼に、神々は様々なものを投げつけた。しかし、その一つたりとも彼を傷つけることはなかった。神々は驚き喜び、更にものを投げつけた。驚くなかれ、神代の娯楽とは得てしてこのようなものばかりである。
その様子をじっと見る男がいた。オーディンと血を交わしアスガルドの一角に座する霜の巨人、狡知神のロキである。彼はバルドルがこのような過剰な恩寵を与えられ、他の神々もそれを素直に喜んでいるのが気にくわなかった。
するり、と堅苦しい上着を脱いで長身の男は物陰で身を屈めた。すると、彼の背丈は縮み、からだつきは丸く、滑らかになった。髪は長くつややかに、唇は赤く細く震えんばかりに。要するに、女の姿に変身したのだ。
彼の性根とは裏腹に堅苦しい衣服を畳み岩陰に隠し、下着の上から浅い色の布を体に巻き付けて、ありふれたアースの女神に紛れたロキは、凡庸で無知な女がそうするように顔周りに白い手をそわそわと這わせながら言った。
「いったいどうして皆して彼にあのようにものを投げるのでしょう?危ないではありませんか」
その言葉に反応する者がいた。そう、他でもないバルドルを無敵にしたフリッグである。
「あら、その心配はまったくないわ」
「剣どころか、槍も矢もバルドルに傷創ることは決してないよ。各々にそう誓わせたのだから」
堂々と言ってのけるバルドルの母に、ロキは内心舌を出した。
「へぇ……全てのものが、貴女の御子息のために誓ったのでございますか?」
「ええ……ほとんどすべてのものがね」
「ほとんど?」
「ヴァルハラの西に生えるあの弱弱しい宿り木を除いては。ってところよ……あれは誓いを立てさせるには若すぎると思ってね」
「はぁ。若すぎるが故に、全てをほとんど全てにしたその木は……」
そこまで言ってロキは止めた。聡明なフリッグに色々勘づかれては面倒だ。
「ふふ、冗談でございますわ、奥様?」
上機嫌な女は浅い色の布を身体から落とすと、今度は畳まずに岩陰に隠した。
戻ると、先ほどの賑やかさは衰えるどころか、更に盛り上がっているようだった。ロキが喧騒から遠ざかる方向へ視線を滑らすと、楽しそうな神々を遠巻きに見ている者がいた。いや、見てはいない。彼は神でありながら生まれつき盲目であった。
盲目故の脱ぎ気しやすいだけの、装飾品の足りない衣装に身を包んだ彼は、バルドルの双子の兄の闇の神ホズである。誰も見れないが故に誰からも顧みられない彼は、ずっと讃えられてきた弟が、今日も何かしら素晴らしいことを成し遂げて褒められているのだと思っていた。実際フリッグの功と言えど、バルドルは珍しくめずらかなる身になってその実証を行われている最中なので兄の想像は当たらずとも遠からぬものであった。
そんな盲にロキは話しかけた。
「やあ、ホズ。君の午後はどうだい?」
「ロキ叔父さん」父オーディンの義兄弟であるこの男をホズは他の神々ほど嫌ってはいなかった。何故ならロキにとってこの盲目の神は、無知で無垢が過ぎるため揶揄うにはつまらなかったのである。
「またバルドルが矢鱈滅鱈ヨイショされてるじゃあないか……ホズ、何か思うところはないかね?」欲しい反応は得られないだろうが、一応ロキは尋ねた。
「はい、バルドルはいつもすごいなぁ……って思います」溜め息を吐きたくなるような良い子ちゃんとしては百点満点の回答をロキは相槌であしらった。
「ふーん……で、今みんな彼にものを投げているんだ」
「ものを?」幼い問いにロキは眉をひそめる。
「彼が何物にも傷つけられなくなったことへの証明としてね」簡潔過ぎるほどの説明を経て、ロキは提案する。
「どうだい、ホズ君も何か投げてみるかね?」
「いえ、このめしいた身では、どこに投げれば良いかもわかりませんので」
「そうかい……」却下された男は、つまらなさそうに背を向け、離れていった。
さよならも言わない。遠くなる足音を聴きながら、ホズは少し淋しく思った。神でありながらハンディキャップを持ち、頭も悪く、教養に乏しい自分を惨めに思った。折角久方ぶりに話し掛けてもらえたのに、自分はつまらない返答しか出来ずに、相手を失望させ無駄な時間を使わせて去らせてしまった。
「やはり」遠くで声が聴こえた。近づく足音も聴こえた。
「やはり君だけが身体的特徴のために皆の楽しみに参加できないというのは、寂しいと私は思うよ」ロキだった。叔父はホズのことを思い、ホズのために戻って再び提案をしてくれているのだ。
「方向は教えてやるよ、投げてごらん」そう言って盲目の神に握らせたのは、枝であった。唯一バルドルを傷つけ得る、ヤドリギの枝であった。
手取り足取り、ホズはほとんどロキに操られるようにヤドリギの枝を投げた。
「当たりましたか?」
質問の答えはなく、代わりに聴こえたのは女の悲鳴。高く長い悲鳴が耳をつんざいて、喧騒が聴こえ始めた時には、先ほどまで右手を強く包んでいたはずの叔父の手はなかった。




