第1話 勇者の噂
城下は、朝から妙にざわついていた。
「聞いたか?」
「何を?」
「勇者の剣が抜かれたらしい」
パンを並べていた女の手が止まる。
荷車を押していた男も、車輪を軋ませたまま足を止めた。
「ほんとかよ」
「城の兵が騒いでた。王城から使いも出たって」
声は大きくない。けれど、通りのあちこちで同じ話が交わされていた。
「本当にあの剣が抜けるなんてねぇ」
「魔王を討ってくれるなら、ありがたいけどな」
魔王が現れてから、もう何年も経つ。
魔物は増え、街道の被害も少しずつ広がっていた。村が襲われたという話も、旅人が戻らなかったという話も、以前よりずっと身近になっている。
それでも、勇者と魔王の話は、どこか御伽話のように思われていた。
人が魔族に勝てるはずがない。
ましてや魔王など。
そう思っている者の方が多い。
だからこそ、勇者が現れたという噂を、人々は簡単には信じきれなかった。
信じたい。
けれど、信じて裏切られるのが怖い。
そんな不安が、朝の城下に薄く広がっていた。
⸻
その頃。
王城の高い窓から外を眺めていた少女は、侍女たちの会話から、その噂の一部を聞いていた。
「勇者?」
少女――リナは眉をひそめる。
「はい。城下でもずいぶん話題になっているようで」
「へえ」
返事は軽い。
けれど、その目は少しも笑っていなかった。
勇者。
その言葉に一番先に反応するのは、本来なら自分のはずだった。
なのに、今、城中が騒いでいる“勇者”は、自分ではないらしい。
リナは窓辺から離れず、腕を組む。城下の通りは遠く、歩く人々は小さく見えた。その中で噂だけが、見えない波のように広がっている。
(それ、誰のこと?)
自分は勇者だ。
リナは、そう思っている。
前世の記憶がある。
魔王を倒したことも、剣を振るったことも、仲間と旅をしたことも、ちゃんと覚えている。
ただ、今の自分は王女で。
そして、勇者の剣だけが抜けなかった。
それだけのことだ。
けれど城の者たちは、その「それだけ」を見逃してはくれない。
誰も信じない。
王女がまた御伽話に入り込んでいる。
前世の勇者だったなどと、変わったことを言っている。
その程度にしか思われていない。
リナは窓の外の青空を眺めたまま、小さく鼻を鳴らした。
(……どこの誰が勇者なの)
その思いには、呆れと、わずかな不満と、どうしても認めたくない意地が混じっていた。
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