誓いというものは、呪いである
窓辺に掛けられた薄いレースのカーテンが、夜風に揺れていた。
月明かりが静かに差し込む室内には、淡い銀色の光が満ちていて。
この部屋に流れる時間だけが、まるで世界から切り離されたかのように、ゆっくりと過ぎていく。
「エルステラから帰ってくるのは、往復を考えて順当にいけばひと月後。……まぁ、下手をすれば二度と帰って来ることはない」
ふいに、彼の手が私の背へと回る。
その指先の温もりに、心臓が小さく跳ねた。
抱きしめるというには、まだ少しだけ距離がある。
ほんのわずかに身を寄せれば、胸元に額を預けられるほど近いのに、彼はそれ以上踏み込もうとはしなかった。
私が望むのを待つように。
それでいて、ひとたび手を伸ばしたからには、決して逃がすつもりなどないと告げるように。
「悪いが、お前が永遠に私を待つことになるかもしれないから、伝えない……なんて、そんな紳士的な男じゃない」
灰色の瞳が、真っ直ぐに私を射抜いた。
この人は、私に選ばせている。
自分が帰ってこない可能性を知ったうえで、それでも好きだと言っている。
私の未来を奪うかもしれないと知っていて、私の未来に自分を望んでいる。
なんて、身勝手な人なのだろう。
「アデライン」
名を呼ばれた。
たったそれだけで、胸の奥がひどく騒いだ。
「お前が、好きだよ」
飾り気も、気取った言い回しもない。
まるで、ずっと胸の内にしまっていた真実を、ようやく私に明かしてくれたかのように。
たったそれだけの言葉が、胸の奥深くへと沈んでいく。
嬉しい。
怖い。
どうしようもなく、怖い。
「無理で、す。私……皇太子妃には、なれません」
「その資格とやらの問題で?」
……こくん、と頷いた。
彼はしばらく、何も言わずに私を見つめていた。
その沈黙さえ、今はひどく甘く感じられる。
やがて、彼の手がそっと持ち上がった。
私の髪をひと房すくい、指先に絡める。
「アデライン」
「……はい」
「お前はずっと、何を恐れている?」
「……恐れて?」
「そうだ」
彼の指が、髪から離れる。
ひと房の髪が、さらりと肩へ落ちる。
「此処へ来た十の頃から、お前は強かった。何を言われても、何をされても立ち向かう。だが、ずっと何かに怯えて焦っているように見えた」
「ち、違……」
「まるで、いつか来る何かに追いつかれる前に、すべてを終わらせようとしているように」
息を呑んだ。
「……そんな、こと」
ない。
そう言いたかった。
けれど、声にならなかった。
私が怖いのは。
この手で、大切な人を殺す選択をしなければならないこと。
誰かを救うために、親しい誰かを犠牲にすること。
そして何より。
その決断を、いつか自分自身が下さなければならないこと。
「殺してやろうか」
「……え?」
「お前を脅かしているものを」
あまりにも唐突な言葉だった。
冗談のように聞こえるのに、彼の瞳には微塵も笑いがない。
この人なら、本当にやりかねない。
私が恐れているものが何であろうと、たとえそれが世界そのものであったとしても。
彼はきっと、躊躇うことなく斬り伏せるのだろう。
「……いいえ」
私は、首を横に振った。
「私を脅かしているものは……私の大切なものなのです」
「ほう」
彼の眉が、わずかに上がる。
私は、彼の胸元へと視線を落とした。
「…………死なないでください」
暫く経って、ようやく口にできたのはそれだけだった。
声が震える。
みっともないくらいに。
「私は……どうすればいいか、わからないんです」
私は、彼の胸元をそっと握った。
その服に、細かな皺が寄る。
それでも彼は、何も言わなかった。
ただ、私が次の言葉を口にするのを待っていた。
「全部、助けたい……」
ずっと、ひとりで抱えてきた言葉だった。
誰にも言えなかった。
エルステラと帝国の間でどっちつかずをしているのはこの世界に、私だけ。
誰にもわかってもらえるはずがなかった痛み。
「誰にも死んでほしくないんです。誰かを犠牲にして、誰かを救うなんて……そんなの、私には選べない」
初めてだった。
自分の願いを、こんなにも正直に口にしたのは。
私はずっと、正しい答えを探していた。
誰も傷つかない方法を。
誰も失わずに済む未来を。
けれど、どれほど考えても見つからなかった。
だから、怖かったのだ。
いつか自分が、その答えを選ばなければならないことが。
誰かの命を天秤にかけ、どちらを救うか決めなければならない日が来ることが。
沈黙の中、ルキウスの腕が、ゆっくりと私の背を包んだ。
今度は、逃げ道を残さないほど確かな抱擁だった。
「……なら、全部助ければいい」
「……え?」
思わず、顔を上げた。
彼は、さも当然のことを言ったかのように私を見つめていた。
「何を驚く」
「だ、だって……」
「全部助けたいのだろう?」
「それは、そうですけれど……」
「なら、お前の望むようにすればいい」
あまりにも迷いのない声だった。
あまりにも簡単に言うものだから、思わず言葉を失ってしまう。
「で、でも。もし、どちらかしか助けられないとしたら……?」
彼は少しだけ目を細めた。
それから、私の頬にかかった髪を指先で払う。
「私は、自分がそうすると決めたら、何があってもそれを達成する」
「……すごい自信」
あまりにも堂々と言い切るものだから、思わず笑いそうになってしまった。
この人は、いつだってそうだ。
できるかどうかを考えるより先に、やると決めてしまう。
その無謀さに、何度呆れたことだろう。
そして、何度救われたことだろう。
「……ルキウス様は、ずるいです」
「何がだ」
「そんなふうに言われたら……信じたくなってしまうじゃありませんか」
彼は、一瞬だけ目を見開いた。
それから、ひどく満足そうに笑った。
私の額に、彼の額がそっと触れる。
吐息が触れ合うほどの距離で、彼は囁いた。
「お前がひとりで背負う必要はない」
灰色の瞳に、私の姿が映っていた。
「お前が何を隠していようと。どんな罪を犯していようと。私はまだ、お前のすべてを知らない」
その言葉に、胸の奥がじんわりと熱くなった。
すべてを知らない。
それなのに、知ろうとしてくれる。
私が何者なのか。
どんな秘密を抱えているのか。
いつか彼を傷つけることになるかもしれない、私の本当の姿を。
「だから、これから教えてくれないか?」
逃げ道を塞ぐような言葉だった。
けれど、不思議と怖さはなくなっていた。
「……嫌いになりますよ」
「聞いてみなければ、わからない」
「それはそうですけど……」
「お前は、私がどれだけお前の事が恋しいか……知るまい」
そう言って、彼は私の唇に口づけた。
あまりにも自然で。
あまりにも優しくて。
まるで、ずっと前からそうすることを決めていたかのように。
私は、息をすることさえ忘れてしまった。
「……っ、ルキウス様」
「何だ」
「い、いま……!」
「見ればわかるだろう」
彼は悪びれもせず、私を抱き直した。
その腕の中にいることが、どうしようもなく心地よい。
けれど、心臓は壊れてしまいそうなほど騒がしかった。
「一時間しかない。あまり無駄にするな」
「な、何をおっしゃって……!」
「お前と過ごす時間の話だ」
意地悪な笑みが、すぐ目の前にある。
私は真っ赤になって俯いた。
すると、頭の上から小さな笑い声が降ってくる。
……本当に、ずるい人だ。
こちらはこんなにも必死なのに。
どうしてこの人は、いつだって余裕たっぷりなのだろう。
「……アデライン」
「……はい」
今度は、からかうような響きが消えていた。
「帰ってくる」
彼の腕に、わずかに力がこもる。
「必ず、お前のもとへ帰ってくるよ」
その約束が、どれほど重いものなのか。
彼自身が、いちばんよくわかっているはずだった。
生きて帰ると誓うことは、どんな危険が待ち受けていようと、最後まで諦めないということ。
それでも彼は、私に約束してくれた。
未来が不確かであることを、誰よりも知っている人が。
だから、私は何も言えなかった。
ただ、彼の胸元を握る手に、ほんの少しだけ力を込めた。
どうか────。
どうか、この人が帰ってきますように。
その願いを口にしてしまえば、涙まで零れてしまいそうだった。




