熱病
そうして彼は、ルチアが座っていた席へと腰掛ける。
ゆったりと足を組み、こちらを見つめる美しい灰色の狼。
獲物を追い詰めた獣のようでいて、その瞳には不思議なほど静かな色があった。
私が視線を逸らしても、彼は追いかけるように目を細めるだけで、決してこちらから目を離そうとはしない。
「あの、ル、キウスさま」
「お前がそれほど狼狽えているのは珍しい」
別に狼狽えてなんかない。
ただ、話していたまさにその人が現れたから、少しだけびっくりしただけ。
それ以上のことはないのだと、自分に言い聞かせる。
………どうしてだろう。
いつもなら平気なはずの彼の視線が、今日はひどく落ち着かない。
「……急用ですか?」
「1時間だけ時間を開ける事が出来た。お前の姉君には後程詫びをしよう」
「お忙しいですね」
「だから会いに来た」
「……」
あまりにもあっさりと言うものだから、返す言葉を失ってしまった。
この人は、こんな瞳をしていただろうか。
私は6年も、彼の近くにいたはずなのに。
皇太子として冷酷に振る舞う姿も。
誰にも弱みを見せず、すべてを背負おうとする姿も。
時折、呆れたように私を見下ろす、その眼差しも。
知っているつもりだった。
夜の、凪のない海のような人だと思っていた。
冷たくて、静かで、底が見えなくて。
近づけば呑み込まれてしまいそうで、その水面はいつだって冷ややかだった。
けれど。
今、私に向けられている眼差しは。
こんなにも、熱い。
「変なルキウス様……。少しでも、休めばいいのに」
「何故、目を逸らす?」
「逸らしていません」
「そうか」
少しも信じていない声だった。
彼の口元が、ほんの僅かに緩む。
次の瞬間、身体がふわりと浮いた。
「えっ……!?」
気づけば、ルキウスに抱き上げられていた。
彼はそのままベルベット張りのソファーへ腰を下ろすと、私を当然のように膝の上へと乗せる。
あまりにも手馴れた動作だった。
「降ろしてください……っ」
「……そうか。ようやく、気がついたか」
「な、何にですか!?」
くっくっ、と喉の奥で笑う声がした。
見上げれば、いつもは人を寄せつけない皇太子殿下が、ひどく愉快そうに私を見下ろしている。
「……っ、なにを」
「意識したんだろう?ようやく」
彼の指先が、私の顎に触れた。
くい、と持ち上げられ、逃げ場を失った視線が絡み合う。
「違います……」
「違わない。本当に意識していなければ、お前はそんな顔をしない。能天気に笑っているだけだ」
「能天気って……」
「事実だろう?」
反論したいのに、言葉がうまく出てこない。
近い、近すぎる。
彼の吐息が頬をかすめるたび、胸の奥が落ち着かなくなる。
ほんの少し身じろぎすれば、彼の腕が私の腰を支え直した。
その手つきがあまりにも優しくて、まるで壊れ物にでも触れるようだったから。
余計に、どうしていいかわからなくなる。
こんな距離で、こんなふうに見つめられたことなんてなかった。
少なくとも、私はそう思っていた。
「ずっと、皇太子としか見ていないのは知っていた」
不意に、彼が言った。
からかうような声音とは裏腹に、その瞳は少しも笑っていなかった。
おかしい。
その言い方じゃ、誤解されてしまうのに。
「……そんな言い方をしない方がいいです。勘違いされてしまいますよ」
「勘違い。どんな?」
「それじゃ、私の事……好きみたい」
どうして、そんな言葉が口から出てしまったのだろう。
冗談のつもりだった。
いつものように、軽く笑って誤魔化してしまえばよかったのに。
けれど、声は思いのほか小さく、最後の方は震えてしまった。
ルキウスは、すぐには答えなかった。
ただ、私を見つめていた。
灰色の瞳の奥に、見たことのない熱が揺れている。
まるで、私がようやく口にした言葉を、ずっと待っていたとでもいうように。
「それ以外に何がある?」
心臓が、うるさい。
あまりにも簡単に。
まるで、今さら何を聞いているのだと言わんばかりに。
彼は自分の気持ちを認めてしまった。
私は、どうしたらいいのだろう。
だって、そんなの。
「っ、あの、一つ聞かせてください!」
「何だ」
「ルキウス様は……子供がお好きなのですか?」
「…………は?」
初めて見る顔だった。
灰色の瞳が、すっと細められる。
「私、もう幼子という年齢ではありませんし……。その、もしもルキウス様が幼い子供をお好きなら……年々恋愛対象から外れると言いますか」
「……はぁ」
深いため息が落ちた。
彼は片手で額を押さえ、しばらくのあいだ、何かに耐えるように目を閉じた。
答えを待つ私に、やがて諦めたように口を開く。
「お前が、幼子であろうと、老女であろうと。……男であろうと、醜かろうと。……それでも、惹かれたよ」
私が、何であろうともだなんて。
何も知らない彼は、随分残酷なことを言う。
「……いや。幼子だけは勘弁してほしいか」
「え……?」
「お前……私が小児愛者だと誤解されて、どれだけ大変だったと思っている?」
「ほ、本当に、そんな前から……?」
彼は答えず、ただ、じっと私を見つめた。
その沈黙が、何よりも雄弁だった。
「……どうしてですか?」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど小さかった。
「だって、私……」
いつだって、自分のことばかりだった。
帝国の魔術師の革命は私にとっても、ルキウスにとっても、都合が良かった。
それで私たちは手を組んで、ここまでやって来た。
協力者。
とはいえ、どれだけ振り回したか。
だからこそ、わからない。
どうして、そんな私を。
「貴方に好かれる理由なんて、ないのに……」
私は、シャーロット・ラヴィアンジュ。
(貴方の敵だった者、なのに)
そう口にした途端、ルキウスの瞳がすっと細められる。
怒っている。
そう思った次の瞬間、両頬をむに、と摘まれた。
「いひゃいです……!」
「そうだな」
彼は、にこりと笑った。
……怖い。
怒鳴られるよりも、ずっと怖い。
「この、間抜けそうな顔」
「ひ、ひど……」
「カラメル入りのショコラを食べると、目が細くなるところも」
摘まれていた頬が、そっと解放される。
代わりに、彼の指先が私の頬を撫でた。
先ほどまでの意地悪な笑みが、ほんの少しだけ和らいでいる。
「何かを企んでいるくせに、隠しきれていないところも。人のために怒るくせに、自分のことになると途端に臆病になるところも」
ひとつ、ひとつ。
私自身でさえ、見ないふりをしてきたものを、彼は簡単に拾い上げていく。
「……私は、お前が愛おしいよ」
息が、止まった。
愛おしい。
そんな言葉を、この人の口から聞く日が来るなんて、思ってもみなかった。
「で、でも……」
「まだ、何か言うか」
呆れたように、彼がため息をつく。
「本当の私を知ったら、ルキウス様は私のことを嫌いになる……」
声が震えた。
彼の灰色の瞳から、目を逸らせなかった。
ほんとうのわたし。
それは決して、正体だけじゃない。
臆病で、理想ばかり沢山追い求めて、最後には何も為せなかった無力なシャーロット。
「……それで?」
「え……」
「私がお前を嫌いになったとして。それで、お前を殺すとでも思っているのか?」
「……そうするかもしれません」
沈黙が落ちた。
ほんの一瞬。
けれど、その一瞬がひどく長く感じられた。
「……馬鹿なことを」
驚くほど、優しい声だった。
責めるでもなく、問い詰めるでもなく。
まるで、ひどい悪夢を見ている子供を宥めるような。
その優しさが、かえって苦しかった。




