女神の帰還
翌朝。
私は部屋の窓辺に立ち、出発していく一行を見送っていた。
朝の光を浴びた中庭には、 騎士たちの号令が響いている。
軍馬の列の先頭に立つ彼の姿は、ここからではあまりにも小さい。
それでも、不思議と目が離せなかった。
昨夜、彼が私に告げた言葉が、何度も胸の奥で蘇って。
思い出すたび、心のどこかが落ち着かなくなった。
まるで、あの瞬間だけ、世界が私の知らない色に塗り替えられてしまったかのように。
「昨日はなかなか、ロマンチックだったねぇ」
背後から聞こえる、場違いなほど呑気な声。
窓の外の喧騒とは対照的に、人気のなくなった宮殿はひどく静かだった。人の気配が薄れたぶん、彼の声だけがやけに鮮明に響く。
振り返れば、ミルヒオールが私のベッドに腰掛けていた。
まるで自分の部屋であるかのように寛いで、足をぶらぶらと揺らしている。
「……盗み聞きしてたの?」
「盗み聞きされたくないならぁ、結界の一つでも張ってもらわないと」
悪びれるどころか、彼は楽しそうに目を細めた。
その顔を見ていると、昨日の夜のことまでからかわれているような気がして、私は思わず視線を逸らす。
「んん?あれ?ロティ、熱でもあるの?顔、真っ赤だよ」
「だ、だって……」
口にしかけた言葉が、喉の奥でつかえた。
思い出すだけで、胸の奥がくすぐったくなる。
あの声も、あの眼差しも。
そして、私を抱き寄せた彼の腕の温もりも────。
「……初めて、好きだって言われたから……」
ぽつりと零した瞬間。
ミルヒオールの表情が、ぴたりと止まった。
「…………えっ」
いつもの余裕たっぷりな笑みが、ほんの一瞬、どこかへ消える。
「な、何言ってるの?初めてなんて。思い出してみてよ」
「え?……初めて、よ?」
思い出すも何も、私自身のことだ。
誰よりも私が、よく知っている。
ミルヒオールは、信じられないものでも見るように私を見つめた。
「ほら。シャーロットだった時は?」
「尚更、あるわけないでしょう」
「……いや、でも」
「革命と恋愛なんて両立できないもの」
あの血なまぐさい人生の、いったいどこにそんなロマンチックな余地があったというのだろう。
あの頃の私が欲しかったのは、誰かに愛されることではなかった。
奪われたものを取り戻すこと。
理不尽に踏みにじられる人々を救うこと。
誰かの手を取るより先に、救わなければならない手があった。
誰かの胸に寄りかかるより先に、守らなければならない命があった。
だから私は、恋を知らなかった。
「……おかしい。なんで……」
ミルヒオールが、何やらぶつぶつと呟き始めた。
普段なら人を食ったような笑みを浮かべているくせに、今ばかりは本気で困惑しているらしい。
やがて彼は、はっとしたように顔を上げた。
「ねぇ、ロティ」
「なに?」
「す、好きとか、言わないよね?あいつのこと」
ずい、と距離を詰められる。
両肩を掴まれ、前後にぶんぶんと揺さぶられた。
「ちょ、ちょっと、ミルヒ!揺らさないで!」
「ねぇ、ロティ。聞いてる?あいつのこと、好きになったりしないよねぇ?」
いつもの甘ったるい声音なのに、妙な切迫感が滲んでいる。
私は揺さぶられながら、困ったように眉を下げた。
「……恋愛をする余裕は今でもないよ。……でも、嬉しかった」
その一言が、とどめになったらしい。
ミルヒオールは私の肩から手を離すと、がっくりと項垂れた。
「ああ、駄目だ。早くしないと。本当に……」
「……何が?」
「こっちの話ぃ」
まったく、相変わらず何を考えているのかわからない男だ。
私は小さく息を吐き、ふと思い出したことを口にした。
「……ねぇ、ミルヒ。あの招待状のことなんだけど」
「……ああ、あのセンスのない?」
「貴方が作ったんじゃないの?」
「俺は結界の解呪担当。俺以外、この城の結界は破れないからさぁ。だからそっちには関与はしてないよぉ」
あまりにもあっさりとした返答に、私は目を瞬かせた。
つまり、あの悪趣味な招待状を用意したのは、彼ではないということらしい。
「……少し、安心した。」
「えぇ?俺の感性、疑われてたの?ひどくない?」
口では不満そうに言いながら、ミルヒオールはけらけらと笑った。
「俺だったらぁ、もっと手っ取り早く、皇太子を殺せる方法を取るかなぁ」
ぎろり、と彼を睨みつける。
けれど、本人はまるで気にした様子もない。
むしろ、私の反応を楽しんでいる節さえあった。
まったく、話にならない。
私が呆れていると、ミルヒオールはふいに笑みを引っ込めた。
彼の赤い瞳が、まっすぐに私を捉える。
「それで、囚われのお姫様」
ふざけた呼び名とは裏腹に、その声にはわずかな真剣さがあった。
「俺はこれから、またエルステラに戻らなきゃいけないんだけどぉ。……助けは必要?」
窓の外では、最後の騎士の姿が門の向こうへと消えていくところだった。
この宮殿に残された私は、ただ帰りを待つしかない。
つい昨日までは、そう思っていた。
『全部助けたいのなら、そうすればいい』
頭の中で不遜な笑みを浮かべた皇太子が、そう囁いた。
「……ミルヒ」
「なぁに?」
「私を、エルステラへ連れていって」
迷いはなかった。
ミルヒオールは一瞬だけ目を見開き、それから、ひどく嬉しそうに笑った。
「いいよぉ。喜んで」
差し出された手を取るより早く、彼は私の両手をしっかりと握り込んだ。
次の瞬間。
身体がふわりと浮き上がる。
「えっ、ちょっと……ミルヒ!?」
「舌、噛まないでねぇ」
彼は私を連れたまま、ためらいもなく窓の外へと身を躍らせた。
視界が反転する。
朝の光。白い壁。遠ざかる窓辺。
落下する身体を支えるものは、私の手を握る彼の指先だけだった。
「ジュ・アテ・フィン・フィンドラーレ!」
耳元で、詠唱が響いた。
瞬間、空気がぐにゃりと歪む。
落下の感覚が途切れ、光が視界を塗り潰した。
風の音も、宮殿の喧騒も、何もかもが遠ざかっていく。
そして────。
次に目を開けたとき、私たちは見知らぬ部屋に立っていた。
天井まで届く本棚。
壁際に積み上げられた分厚い書物。
机の上には、読みかけらしい古文書と、何枚もの書類。
紙とインクの匂いが、かすかに鼻をくすぐる。
窓から差し込む光の中で、埃がゆっくりと舞っていた。
どこを見ても本、本、本。
どうやら、書庫か研究室のような場所らしい。
「……ここは?」
私が呆然と呟くと、ミルヒオールはようやく私の手を離した。
そして、何でもないことのように微笑む。
「お帰り、ロティ」
彼は本の山をひょいと避け、部屋の奥へと歩き出した。
「エルステラへ」
その声を聞いた瞬間、胸の奥で何かが動いた。
(帰ってきた、エルステラに────)




